「俺はお前のことは好きだが、愛しているわけじゃない」
 好き、と、愛、とは、それほどまでに違うものだ。



「生きるためには捕食をしなきゃならないが、喰うか飛ぶかどちらか選べと言われたら、
俺は飛ぶ方を選ぶ。たとえ、餓死しても」
 愛機を嬉々として整備するグワイヒアを、工具箱に腰掛けて、頬杖をついて眺める。
「あんたの機械いじりを半日も眺めているほど、わしは暇じゃないんだが」
「だから、会話してるだろう」
 一方的な独り言だろう。そう思って苦笑する。
「だがそれはあくまで究極の選択であって、俺としちゃ気持ちよく飛ぶために飯も食うしベッドで眠りもする。
そのために飯代も稼ぐし、ベッドを整えてくれる召使に払う賃金のために働いたりもする。
行き着くところは、すべて気持ちよく空を飛ぶためだ」
「愛しているのは空だけで、あとはその付属品みたいなものだと言いたいのだろう」
「そう」
 油で汚れた手を腰に当て、しばらく愛機を眺めていたグワイヒアは、
「さて、メシにしよう」
 振り向いてそう笑った。



 人が生きるための基本的欲求、食欲性欲睡眠欲はすべて一緒くたで、
スランドゥイルがわざわざ呼ばれたのは「腹が減ったから」で、「お前を抱きたい」からではない。
コーンスープかポタージュかミネストローネか、今日はポタージュな気分、というそれだけのこと。
断ればオニオンスープでもかまわない。
 メシ、というのは、つまりそういうことで、一緒に食卓に着くわけではないことくらいわかっている。
本人はちゃんと手を洗い着替えもしているが、機械油に慣れていないと、彼は油臭くてたまらない。
 寝転がっても身体が痛くないくらいふかふかの絨毯の上で、「喰われる」。
ソファでも絨毯でも、彼の乱暴な食事のあとは、さぞ掃除が大変だろう。
が、それをちゃんと掃除してくれる召使に払う給料分を、ちゃんと稼いでくるのだから、立派なものだ。
自由でいるのは不自由だと、ときおりぼやくが、たしかに彼ほど自由奔放に振舞うのは不自由だろう。
 彼の空腹度はその時々で、今日はそれほどでもなかったと見える。
 どんなにふかふかの絨毯の上でも、たとえベッドの上でも、やはり身体の痛みはあるもので、
彼が自分のお気に入りのソファに移動し、お気に入りの酒をデザートのように楽しむ姿を、
床に寝転がったままぼんやりと眺める。
 グワイヒアにはお気に入りのブランデーがあり、ほとんどそれしか飲まない。
しかし、彼のプライベートバーには、数々の酒が並べられ、その中にスランドゥイルの好みのものも含まれる。
つまり、彼がここで酒を振舞い、食すのは、あの酒の種類ほどいるということだ。
「いいかげん起きないと蹴飛ばすぞ」
「ひどいな」
 身体を起こして、なんとかソファに這い上がる。そこで一息つくと、
目の前に冷えたワイングラスが差し出された。見上げると、グワイヒアの茶色い瞳が、子供のように輝く。
一瞬、惚れそうになる、澄んだ瞳だ。
「なあ、」
「ん?」
「キス、しようか」
 はあ? とグワイヒアは顔をしかめた。
「ナニ言ってるんだ? 気色悪い」
 心底そう思っているらしく、眉を寄せて距離をとろうとする。
「さっきまで散々してたじゃないか」
 からかうようにニヤリと笑って見せると、グワイヒアは嫌悪感を露にする。
「馬鹿かお前? あれは食事だ。キスってのは、愛情表現だ」
 いい言い回しだな。
「俺は、お前のことは嫌いじゃない、好き、だが、愛しているわけじゃない。俺がキスをしたいのは、愛機と空だけだ」
 知っている。
 彼の性欲は食欲と同一線上で、気持ちよく飛ぶために必要な肉体管理の一環でしかない。
 冷えたワインを口に運びながら、スランドゥイルは「冗談だ」と呟いた。
 自分もまた、彼を「好き」ではあるが、「愛して」はいないのだから。

 よく冷えたワインに沈みながら、身体の痛みを癒していく。夕闇に、世界が包まれていく。
 キス。
 繊細なグラスの淵に唇を押し付けて、ふと考える。
 肉体の境界を越えるもの。
 外皮より敏感な粘膜で包まれた器官で、他者の存在を感じるもの。
 目だけを動かして、ちらりとグワイヒアを見る。彼は、満腹で、満足そうに空を眺めながらブランデーを舐めている。
 彼と性交しているときに交わすキスは濃厚で、貪られている気分になる。
それは性欲を掻き立てる行為で、愛情表現などではない。
 キスにせよ性交にせよ、心と身体のバランスが問題だ。
グロールフィンデルと交わる時、アンバランスで不安定な感情を受け止め、
彼のしたいようにさせ、それでも自分も満足できるように導いてやる。
たぶん、主導権を持っているのは自分の方なのだが、求める事はしても、責めるような事はしない。
彼と交わる時、彼の魂の奥底にいる存在を、いつも感じ、彼に抱かれはしても、彼を抱く事は絶対にしない、
できない、のだと思い知らされる。心のどこかでお互いに、お互いの傷つかない境界線を引いているのだ。
心も体も、許せるぎりぎりのラインを、守っている。
 グワイヒアとの性交渉はまったく違う。それは一方的で、快楽のみのために存在し、心を伴わない。
最近になって、自分もいろいろと経験をし、ねじ込まれる痛みにもだいぶ慣れ、感覚も変わってきたが。
 以前は痛みや屈辱でしかなかったそれは、身体が否応無しに受け入れようとしてしまう。
快楽と身体が認識してしまいそうになる。抗いようもなくイってしまったことも何度かあり、
それは何よりの屈辱だと反省している。
 グワイヒアは、拒絶しなければならない存在なのだ。彼のことを愛してはいないし、
愛されてもいないし、それを望んでもいないのだから。
 彼のキスは欲情を誘うものだと、最近になって痛切した。
 だからよけいに、肉体の感覚を精神力で断ち切らなければ成らない。
「キモチイイだろ?」
 と、耳元で囁かれるたび、
「痛いだけだ」
 と答えなければならない。
 そういう意味では、グロールフィンデルとセックスをする方が、ずっといい。
楽だし、そのまま眠りにつける。彼のことは、「愛している」。

「足りなきゃ自分で取って来いよ」
 スランドゥイルのグラスが空になっているのに、グワイヒアはいち早く気付き、
カウンターバーを顎でしゃくる。もう歩けるだろう、と。
 グラスを握ったまま、しばらくグワイヒアを見つめる。そんなふうに見つめられるのは居心地が悪いのだろう。
グワイヒアは目を逸らして窓の外を見る。
 グワイヒアを見つめながら、キスのことを考える。
 なぜこんなにキス、口づける行為に気が行くのかというと、先日失態を犯したからだ。
 なぜ、と自分に問い続けていた。
 今日、グワイヒアに会い、彼と交わり、思い当たったのだ。
 彼とのキスは、欲情をかきたてるものだ、と。
 キスにも色々あるし、それぞれに癖もある。グロールフィンデルは、あまりキスは上手じゃない。
経験不足だし、銃の腕を磨くように練習できるものでもない。それはいい。
そんな稚拙なところが、グロールフィンデルの愛しいところでもある。
 乱暴ではあるが、グワイヒアのそれは、上手い。本人は「場数だ」と笑うだろう。
そうだろうな。ちゃんと使い分けている風もある。
 それで、他人の癖が無意識に伝染っていることがあって、
スランドゥイルもグワイヒアの癖を無意識に真似ていた。真似ていた事に気付いてのは、二回目にキスをしたときだ。
(父さん)
 驚くほど甘ったるい声で、うっとりと見上げ、レゴラスは呟いた。
(すごい)
 最初は、なんのことかわからなかった。冗談半分でレゴラスにキスをすることは年中だったし、
行き過ぎた冗談だなと自分でも思いながら、深く口づけることもある。
 息子の事は「愛している」。
 幼少の頃は抱きしめ包み込んで一緒に寝るのも当たり前で、キスの雨を降らせるのも日常だった。
気付いたら息子は大きくなっていて、つい同じようにしてしまうと、レゴラスの方が違う感覚に囚われる。
それに気付いたから、気をつけてはいたのだが。
 自分でも疲れていたり眠かったりすると、つい幼少の頃のように全身で抱きしめてしまう。それに、キス。
眠気で半分眠っているような状態で、愛しさを込めてキスをしたつもりだったが、
レゴラスは頬を染めて胸を高まらせた。そして、それを真似て同じようにキスをしてきて、
それを受け止めているとき、不覚にも感じてしまったのだ。
「お前、今、すごく卑猥な顔をしているぞ」
「?」
「欲情している顔だ」    
 キスのことを考えるだけで、欲情になるのだろうか。
(こんなに気持ちのいいキスは、はじめて)
 そんなことを息子に言われて反省しているのだが、だが確かに、それは気持ちのいいものだった。
「愛している」者とキスをするのは、気持ちいい。
「帰る。タクシーを呼んでくれるか」
「屋敷の者に送らせる。仕度ができたら、いつでも言え」
 もう少し休みたい気もするが、どうも落ち着かず、スランドゥイルは立ち上がった。
 たぶん自分は、「欲情している」のだ。



 グワイヒアの屋敷の者に、行きつけのバーまで送ってもらった。会社の仕事は終らせていたし、
すぐに自宅に帰る気にもなれない。レゴラスはエルロンドの所に行っているだろうが。それに、腹が減った。
 いつものカウンター席に座ると、マスターが無言でいつものお気に入りの酒を出してくれる。
それに、レバーのパテをのせたクラッカー。

「旦那、少し食べた方がいい」
 空腹と、よくわかったものだ。
 クラッカーをつまんで、強いワインを喉に流し込む。
 グワイヒアに抱かれたあとは、しばらく身体がきつくて、もうセックスなんかしたくないと思うほどなのに、
今日はそれほどでもないのは、慣れか。
「体調が悪いなら、帰って寝た方がいい。タクシーを呼ぼう」
 空になったグラスに、少しだけワインを足しながら、マスターが言う。そんなことを言うなど珍しい。
「いや、別に体調は悪くないが」 
「熱がありそうだ。唇が赤い」
 自分の唇に触れ、そうかな、と呟く。
 そうだな。今日は帰って寝た方がよさそうだ。
 スマホを取り出し、ブラックアウトしている画面をぼんやり見つめる。
「タクシーを」
 呼んでくれ、と顔を上げるが、マスターはスランドゥイルのスマホを指差しただけで、他の客のカクテルを作り始めた。
 奴に電話してみろと言いたい訳か。
 まあ、ここで飲んでいるとき、しょっちゅう奴に迎えに来させているからな。
 なぜか指が躊躇して空を泳ぐ。
 今夜はいつもと違い、他の男と寝てきたから、奴を呼ぶわけにはいかない。
 口の中でマスターに言い訳をしてみる。
 それに、奴だって仕事があるかもしれないし。
 半日以上落としてあったスマホの電源を入れる。案の定レゴラスから数件の着信とメール。それを無視して、電話をかける。
「いつもの店にいる。腹が減った」
 相手の返答を待たずに、それだけ言って切る。
 酷いものだ。相手の都合など聞きもしない。
 それでも、30分もしないうちにそいつは来た。
「遅くなってすまない」
 そう言って、隣に座る。マスターは無言でグロールフィンデルのまえに水の入ったグラスを置く。
「悪いな、呼びつけて」
「いいや、今日は休みだったので」
 テーブルの上に置いたグロールフィンデルの手を、さりげなく持ち上げて唇にもっていく。
「………」
 グロールフィンデルが、初心な少女のように動揺するのがわかる。
「機械油の匂いがする」
「車の…整備をしていた」
「なんでもするなぁ」
 ふと笑って見上げる。
「キス、しようか」
「ここで?」
「ここで。嫌か?」
「ここでは………」
「じゃ、できるところに行こう」
 するり、とスランドゥイルがスツールを降りると、グロールフィンデルも慌てて立ち上がり、
ポケットから札を出してカウンターに置き、カウンターに置きっぱなしのスランドゥイルのスマホを掴む。
「マスター、ごちそうさん」
「またいらしてください」
 カウンターの反対側で、マスターが頭を下げた。



 グロールフィンデルの車の中で、キスをする。
 レゴラスをとろけさせた、あのキス。
 今度は、意識をして、淫らに。
「私のマンションの方が近いから」
 はやる気持ちを抑えながら、グロールフィンデルは車を出した。
 ハンドルを握る片方の手を、スランドゥイルは引き寄せて口づけた。
 機械油の匂いのする手。
 欲情するじゃないか。