父が、死んだ。 運命を共にした多くの同胞たちと共に、葬儀を済ませた。 スランドゥイルは、己の住まいである屋敷の書斎で、いつまでも机に突っ伏していた。 父の書斎だ。 何もかも、あの日のまま。 戦いに出る前の日のまま。 几帳面なオロフェアは、何もかもきちんと整理し、 無駄なものがなく、意味のない装飾品もない。 否。 役に立たない装飾品がないのは、全て売ってしまったからだ。 ここでの生活は、決して裕福なものではなかった。 銀の食器や蜀台、装飾品、細工の施されたランプ。みんな、売ってしまった。 それでも、 父はその優雅な生活を、その全てを、手放したわけではなかった。 この机も、父の使っていた万年筆も、使い込まれた高級品である。 オロフェアを失った今、 スランドゥイルがその持ち主であり、この屋敷の主であった。 ずっと前を走っていたものが、突然消えた。 しばらくは惰性で、全力で走っていたが、次第に周囲は闇に包まれ、 目指すものが見えなくなった。 いや、わかっているのだ。 父の理想を継がなければならない。皆がスランドゥイルを頼りにしている。 気力だけで取り仕切ってきたが、その気力も尽きかけている。 屋敷には、住み込みのメイドが一人いる。スランドゥイルより若い、まだ少女だ。 オロフェアは、身寄りのない少女を、メイドとして雇っていた。よく働く娘だ。 「スランドゥイル様、何かお召し上がりにならないと」 少女の言葉に、スランドゥイルは首を横に振って、 オロフェアの書斎に閉じこもってしまった。もうずっと、食欲がない。 このままではいけない、と思う。 だが、この無気力感は、どうしようもないのだ。 夜も眠れない。 眠れば、怖い夢を見る。 怖い。怖いのだ。銃声も、血の色も、人々の悲鳴も、 …頭の中に陣取って、動かない。 壊れる。 何か一つ、きっかけがあれば、自分は壊れてしまうだろう。 恐怖と、絶望と、疲労。 ぎりぎりのところに、今自分はいる。 これから、どうしたらいいのだろう。 皆の前で、明るく気丈に振舞う事に、疲れた。 机の、一番上の引き出しを開ける。そこに、小さな箱がしまってある。 この箱のことは、父が存命の頃から知っていた。ドリアスの、リングだ。 シンゴルの側近に与えられる、シリアルナンバーの入ったリング。 ドリアスを出たとき、父はこのリングを外した。シンゴルは、もういないのだ。 使えるべき主はいない。いるのは、守るべき民。 それでも、父はリングを捨てる事はせず、引き出しの一番上にしまっていた。 たぶんこれは、父の一番大切な思い出なのだ。形見、なのだ。 ふと、何の気なしに、父の思い出をたどる。 レターオープナー、これは、素朴な木でできている。 貧しいこの村の者が、父に送った。 素朴だが丹念に磨かれ、彼らの指先の器用さを証明している。 一番下の引き出しには、布で包まれたロングナイフ。 ドリアスで作られたもので、これを操るオロフェアは、優雅であった。 オロフェアは最後まで、スランドゥイルがロングナイフに触る事を禁じてた。 護身術を身につけることは当然の嗜みとしていても、 スランドゥイルが武器を操り、戦いに勤しむことを、よくは思わなかったのだ。 もっと自分が戦えれば。 父を守る事ができたかもしれない。 スランドゥイルは何度も思い、自分を責めた。そのたび、父の声が頭に響く。 (お前は、他にやることがある。力は必要だが、それだけで民は救えない。 殺す技術を磨くより、生きる知恵を身につけろ) ロングナイフの包みを取り出し、机の上に置く。 あなたは戦えた。戦う技術を持っていた。更に、民を救う知恵も持っていた。 「わたしは、どうすればよいのですか」 ふと視線を落すと、引き出しに、何か違和感がある。 手を伸ばして、底部分に触れる。それは、簡単な二重底になっていた。 すぐに上板が外れる。そして、二重底の下から、一通の封筒が出てきた。 封筒の封はされていない。紙質は滑らかで、高級なものだ。 たぶんこれは、ドリアスのものだ。 中には折りたたまれた数枚の便箋が入っている。 広げてみる。父の筆跡だ。新しい。 誰かに宛てた物だ。手紙を書いて、出すのが間に合わなかったのか。 出す気がなかったのか。 季節の挨拶から始まり、取り留めのない話題が綴られている。 宛名はないが、これは、ケレボルンに宛てられたものだ。 その内容から、スランドゥイルはそう推測した。 ドリアスを出てからの、今までの生活が、古い友人に綴られている。そんな感じだ。 内容に悲壮感はない。ここでの暮らしに満足している事。 この村の人々は、貧しいが美しい心を持っていること。 ここを生活の拠点とし、ここで生涯を終えたいと思っていること。 心が温まるような、優しい文面。スランドゥイルの頬が緩む。 父は、この地を愛していた。 自分は満足している。それを伝えたかった。 オロフェアは、そう文面を閉じた。 ケレボルンはきっと、オロフェアに恨まれていると思っているだろう。 王族として導くべき民を捨て、愛する女性を選んだことを。 オロフェアは、むしろそれに感謝していると述べている。 自分は幸せなのだから、貴公も幸福であって欲しい、と。 オロフェアらしい。 この手紙を、出さなかったところも。 最後の便箋をめくり、スランドゥイルの笑みが凍りつく。 追伸 スランドゥイルは息を止めた。 (わたしは、ただひとつ、後悔をしている。 自由であるべき息子の スランドゥイルの 翼をもぎ取り 自分につなぎとめてしまった事 彼の幸福を願えなかった事を) 唇が振るえる。 「………!!」 深い悲しみが、怒りに代わる。 叫び声を上げて、手紙を引き裂き、 部屋中のものをひっくり返し、父の万年筆を折る。 なんで? なんでわかってくれないんだ! 怒りに椅子を蹴飛ばす。 こんなにも… こんなにも、愛しているのに! 机の引き出しを、全て引き抜き、ひっくり返す。 父は、わかってくれなかった。 父と共にいることが、自分の、幸福であった事。 父の理想が、自分の理想であった事。 なにより 父は、新たな故郷を与えてくれた。 守るべき故郷を。 失ったものを、ただ懐かしみ、思い出に浸るのではなく、 自分の手で新たなるものを掴み取る。 その理念の崇高さを、教えてくれた。 だが、父の目には、自分は翼をもがれた小鳥に見えたのか。 己の戦い方を息子には決して教えようとせず、戦術を学ばせず、 いつも背を向けていたのは、そのせいなのか。 ならば、 「私は、どうすればよかったのですか。どうすれば良いのですか」 父は、オロフェアは、己の幸福を優先させたケレボルンを、祝福していた。 ならば、自分もそうすべきだったのか、と、スランドゥイルは思う。 故郷を追われたあの日、あの時、父と共に途方に暮れる民を導く役を負わず、 自分のやりたいことをやっていればよかったのか。 散らばった書類を握り締め、クスクスと哀しい笑いを零す。 自分のやりたいこと。 やってきたではないか。 愛する者たちのために働く事。 それが、自分のやりたいことだったじゃないか。 指導者が、たとえ父でなくても、自分はそれに従った。 大きく息を吐く。 これが、自分のやりたいことだ。 自由の翼を、失ってなんかいない。 もういない父の背に、呟く。 「私を見てください。目を背けないで、私を見てください」 視線の先に、オロフェアの残した書類の一部が見えた。それを手に取る。 直筆の書類で、サインが入っている。 この村の、この土地の権利に関する書類だ。 はたしてこれは、正式なものであるのか。 単なるメモ書きなのか。定かではない。簡易的な借用書。 スランドゥイルは、天上を見上げ、頭を回して窓の外を見、書類に視線を戻す。 まずは、これからだ。 「グワイヒア」 天空の王と呼ばれる、領主。名前は聞いた事がある。会ったことは、ない。 床に放り出された双剣を手に取る。オロフェアの剣。自分には、無用の長物。 書斎を出ると、怯えた表情のメイドが立っていた。 「旦那様……」 ほんの少し前まで、「旦那様」はオロフェアだった。 今は、自分。 「すまないが、部屋を片付けておいてくれないか」 微笑んで見せる。 「壊れたものは、みんな捨ててくれ」 部屋を覗き込んだメイドは、息を呑む。 「出かけてくる。帰りは、遅くなるだろうが、心配しないでくれ」 メイドは何も言わず、心配げにスランドゥイルを見上げる。 「必ずここに帰って来る。ここは私の家で、ここは私の故郷だ」 そう、ここは、私の故郷だ。 何があっても、私はここを守る。 まずは、グワイヒアに会い、足元を固めよう。 失ったものを、求めたりはしない。 父は、もういないのだ。 自分は自分のやり方で、自分の歩く道を決める。