「冷えてきたね。窓を閉めよう」 レゴラスは、自宅の書斎でスランドゥイルと席を並べていた。 山ほどのファイルと格闘する父が冷えないようにと、立ちあがって父の後の窓辺に向う。 窓枠に手をかけ、ふと動きを止める。 「・・・・・・・」 レゴラスはそのまま、窓の外を見つめた。 「雨が・・・・降ってたんだ」 窓の外、絹糸のような霧雨が、静かに木の葉を濡らしている。 時折、木の葉の先から「ぽとり、ぽとり」と雫が垂れる。 夕暮時、優しい水滴のカーテン。 ざあざあ降る雨も、好きだ。雨が、世界を洗濯しているようで。 でも、こんな霧雨も美しい。しっとりと、雨が世界を宝石で飾る。 まるで、包み込むように。 レゴラスは、雨に見惚れていた自分に気付き、苦笑する。 そんな時ではないのに。 それでも、 世界は美しい 「ごめん、閉めるね」 そう言って窓枠をスライドしかけて、背後の熱に気付く。 そこに、父が立っていた。見上げると、疲れた目をしている。 それは、とても痛々しい。 ああ、その心労を、代ってあげられればいいのに。 「父さん」 さっきまでレゴラスが見惚れていた、同じ雨を、今、スランドゥイルが見つめている。 「・・・・閉めるね」 繰り返す。と、スランドゥイルは、その白い息子の手に、自分の手を重ねて静止した。 「・・・・・金木犀の、薫りがする」 金木犀? レゴラスは、また窓の外を見た。 そういえば・・・甘い香が・・・。 「おかしいね。庭に金木犀はないのに」 「誰かが花を摘んで、近くを通ったのかもな」 金色の小さな花は、それひとつでも十分芳香をなはつ。 父は、そんな花や木の香に敏感だった。 「昔な・・・・・わしが、まだ子供の頃だ。 金木犀の花を帽子いっぱいに摘んでドリアスの館に帰った。 それを、大理石の白い床に撒いてみた。 すると、シンゴルの書斎から出てきたメリアン様が、笑ってこう言った。 (まあ大変。廊下が天の川になってしまったわ。花の香に溺れてしまう!) すると、メリアン様と共に勉強していたガラドリエルも出てきた。 (では、星をひとつ、いただいてまいりましょう。 メリアン様のベッドに。星の夢が訪れますように) (そうね。主人の愛でる宝石の上にもひとつ。 冷たい石が、やさしいぬくもりをもちますように) もちろん、あとでわしは父に酷く叱られたがな」 スランドゥイルを見上げていたレゴラスの口元が、ほころぶ。やさしい思い出。 その時の、スランドゥイルの楽しそうな顔が目に浮ぶ。 悪戯っぽく、それでも喜びを隠せない無邪気さで、ご婦人たちを眺めていたのだろう。 きっと、金木犀だけではない。 ジャスミンや、沈丁花、くちなし・・・・季節ごとに甘い香の花を、 ご婦人たちに届けていたにちがいない。 レゴラスが見たこともないような、美しい館で。 そんなやさしく愛しい日々を、奪った者たちを、許せないと思うだろう。 スランドゥイルは、隣に立つ息子の髪を撫で、頬に触れた。 「お前は、わしの、手折ることのない花だ。 わしに花を届けてくれた者は、もうこの世にはいないが。 それでも、花の薫りはいつまでもわしに安らぎをくれる。」 「それなら、父さんは僕の雨だ。命を与え、潤してくれる。 時に激しく降る時もあるけれど」 息子の言葉に、父は微笑む。 「今は、嵐の中、だな」 レゴラスは、微笑みながらゆるゆると首を横に振った。 「窓の外と同じ、霧雨だよ。 こんな時であるのに、僕は父さんのぬくもりに包まれていることを、喜びに思ってしまう。 むしろ、ここでただ濡れているだけの自分が、口惜しい。 どうしたら、僕は父さんを包んであげられる? 」 滑らかな頬を撫でていたスランドゥイルの指が、不意に離れる。 レゴラスは、その指を自分に引戻して、唇を寄せた。 「・・・・父さんを、慰めてあげたいのに、僕にはできない。 死んだ母さんのように、父さんの疲れた体を癒してあげることさえ、僕にはできない。」 父の背に腕を回し、首筋に顔を埋める。 強く抱しめてくるレゴラスを抱擁しながら、 スランドゥイルは息子の言わんとしている事を理解していた。 それは、禁断の誘惑である。 血肉を分けた己の分身であるならば、再び肉体の隔たりを超えた融合をと。 喜びも悲しみも、苦痛も快楽も、共に同じ体で感じることができれば。 それがどんな背徳行為であろうと。 もともとが、同じ細胞から作られているのだから。 肌を重ね、最も深いところでお互いの存在を感じることができれば・・・・。 甘い金木犀の香がもたらす、誘惑。 甘美な、堕落。 スランドゥイルは、そっと息子の体を離す。 苦悩にゆがめたその瞼に口づけをし、苦痛にゆがめた口元で微笑む。 「お前の存在そのものが、わしを癒してくれる。 ・・・・・肉体は離れていても、心を重ねることはできる。 今、このときのように。 それとも、直接触れていないと不安になるほど、お前はわしを信頼していないのか?」 レゴラスはゆるゆると首を横に振った。 「・・・寂しいのだな? お前の肉体が、本来結ばれるべき人間と、遠く離れていることが」 抱いてくれる温かな腕を思い出し、レゴラスは身震いした。 「父さん・・・・」 「お前は、わしを裏切っても、お前の体の求める愛情の元に戻るべきなのだ。 今からでも。夜の帳が下りれば、頑ななプライドさえ闇に隠してしまうだろう。 お前は、お前を満たしてくれる者の隣に行くのだ」 「僕の心を裏切ってしまえば、僕は僕でなくなってしまう。 僕でなくなった僕を、あの人は愛してくれないでしょう。 僕はまだ、ここに留まるよ。父さんのそばにいる。 ・・・ごめん。弱音を吐いた」 血肉を分けた肉体に回帰することは、母親の胎内に戻りたがる赤ん坊と同じ。 それは、歪んだ愛情に他ならない。 産出されてしまった以上、もう、そこには帰れないのだから。 「もう一度、キスをして、父さん。」 唇を重ね、体液の感触を確めてから、そっと体を離して、レゴラスは窓を閉めた。 どんなに切望しても、もう、戻れないのだ。 過去の記憶の中に。 父の体内に。 枝から離れた花弁は、もう戻ることはない。 甘い芳香を残し、次の命をつなげていく。