深紅に染まった視界の向うで、誰より敬愛していた(彼だけを信じて付従ってきた)
オロフェアが、音もなく崩れ落ちる。

 肩に傷ついた同胞を抱き、必死で伸ばした手の先を、父はかすめて落ちていく。

 

 

 

「・・・・・・・!!!」

 己の悲鳴に目を覚まし、スランドゥイルは真暗なベッドルームで飛び起きた。

 

 あれから・・・・あの敗北の抗争から、何年も経つというのに、
悪夢はねっとりとしたコールタールのように染付いて離れない。

 

 小さなランプを持った女が、部屋に飛びこんできて、スランドゥイルの足元に跪く。

「旦那様・・・・」

 ぐっしょりと汗をかき、ぬぐいきれない悪夢を追いはらうように、
スランドゥイルは片手で汗をぬぐって女を見下ろした。

「・・・・・カレンスール・・・」

 この家に、住込みで手伝いをしている女は、まだ少女の時を過ぎたばかりだ。

「旦那様・・・また夢を・・・?」

 か細い声で、不安げに訊ねる。スランドゥイルは頭を振って、女の手を握った。

「起してしまって・・・すまない」

「いいえ、いいんです。何か飲物でもお持ちしましょうか」

 立上がりかけた女を、スランドゥイルは乱暴なほどに抱き寄せた。

「旦那様・・・・?」

「カレンスール・・・すまない。ここにいてくれないか・・・・」

 女は、そっと主人の頭を抱いて、頷いた。

「わたくしはここにおります。いつでも、旦那様のそばに・・・・・」

 

 

 

 オロフェアが新たな住処と決めたのは、移民者たちの貧しい村の近くであった。

 オロフェアは、その貧しいが美しい者達とともに過すことを決め、
自ら立ち上げた事業に彼らを雇い入れた。

 そうして、彼らと同化していったのだ。

 生活がやっと軌道に乗り始めた頃、あの麻薬戦争が起った。
こんな辺鄙なところでも、それを無視できない状況に追込まれ、
結局再び銃を持つこととなり、そして、武器の上でも数の上でも、
彼らに勝ることならず敗北した。主の死をもって。

 制圧したのはギル=ガラドらであったが、彼らとて傷つき、
そしてまた、彼らも指導者を失った。

 

 

 

 残されたスランドゥイルは、自らが新たな主となってオロフェアの意思を継いだ。
肉体と精神に深い傷を負いながらも、守るべき者たちの生活を守るために、
昼夜なく働いた。

 屋敷に一人住まう彼は、住込みのメイドを一人雇いいれていた。

 気の利く、よく働いてくれる女だ。

 主人より早く起きて食事の支度をし、主人が出かけていった後、
家事がすむと裏にある工房の手伝いもした。主人の帰りがどんなに遅くても、
起きて待ち、主人が寝入ってから自分も休む。スランドゥイル自身の休日がないように、
このメイドにも休日はなかったが、彼女は文句ひとつ言わなかった。

 彼女は、主を愛していた。

 夜な夜な疲れ果て帰ってくる主を、悪夢にうなされ夜半に飛び起きる主を、
心の底から慕っていた。彼のためなら、何でもしようと心に決めていた。

 

 そしていつしか、主を慰めるうちに、ベッドをともにするようになっていた。

 

 見返りなど、必要なかった。

 ただ、自分が彼を癒せれば・・・少しでも慰めになれば、それで十分だった。

 

 その時のスランドゥイルに、自分を慕ってくれるメイドに気遣う余裕など、なかったのだ。
それでも彼女は、十分だった。

 

 

 

 転機は、ある日突然訪れた。

 それは予期せぬものであったし、正直、歓迎されるべきことではなかった。

 彼女は、途方にくれた。

 が、彼女も、一人の女だった。女とは、強い生物なのだ。

「・・・・妊娠?」

 スランドゥイルが、それでもあまり疲れていないときを見計って、彼女は告白した。

「旦那様には迷惑はかけません。どうか・・・・どうか、生ませてください」

 それは、男にとってあまりに衝撃的で、実感のないものだった。
スランドゥイルはじっと彼女を見つめ、混乱した頭を振りながら、

「・・・・考えさせてくれ」

 とだけ、答えた。

 そしてそれきり、しばらくそのことは忘れてしまった。

 

 日に日に大きくなっていく腹を抱え、それでもいつもと変らぬ仕事をこなす彼女に、
職人の女房たちがこっそりと手伝いをする。

「旦那様はなんて?」

 心配して訊ねてくる女たちに、彼女は笑って首を振った。

「もう少し休まなきゃだめよ。赤ちゃんのためにも」

「旦那様に迷惑はかけられないもの」

「私が言ってあげるわ!」

「それはダメ!」

 彼女は、胎動を感じるようになった腹を撫でながら、悲しげに言った。

「これは、わたしのわがままなんですもの。旦那様の赤ちゃんがここにいる。
それだけで、私は幸せ」

 

 さすがにスランドゥイルも気になり始めていた。

 決して嫌なわけではなかった。ただ、戸惑っていたのだ。自分に、子供ができるなど。
今の生活が精一杯なのに・・・。でも、決心はつけなければならない。
時間は、止ることがないのだ。

 ただ、そう決めたことを彼女に告げる時間がなかった。
彼女は彼に何も言わず、いつものように世話をしてくれる。
そのことに、スランドゥイルは甘えていた。

 いつものように仕事に走り回っていると、職人の女房から電話がかかってきた。

 カレンスールが、倒れたと。

 血相を変えて家に帰ると、彼女は青い顔をしてベッドに横たわっていた。

「すみません、旦那様。少し休めば大丈夫です」

 無理に笑おうとする彼女に、スランドゥイルは頬を撫で、大きく膨れた腹に触った。

「私のことは気にせず、休みなさい」

「でも・・・・・」

「私の子なのだな」

 そっと呟いて、腹に頬を寄せる。

「・・・・生んでも・・・よろしいのですか」

「何を今更! いいに決っているだろう!」

 愛しげに腹を撫で、彼女にキスをする。

「結婚しよう」

 その言葉に、彼女は涙を飲んだ。

「いけません、旦那様」

 顔を上げたスランドゥイルに、泣出しそうな笑みを見せる。

「これは、わたくしのわがままなのです。
旦那様には、わたくしなどのような女は似合いません。
どうか・・・どうか、もっと素敵な奥様を探してください」

「カレンスール・・・・」

「それまでの間・・・どうかわたくしをおそばにおいてください」

 彼女が心に決めたことを、覆すだけの強さを、スランドゥイルは持ちあわせていなかった。

 

 

 

 やがて時は満ち、彼女は男の子を出産した。

 レゴラスと名づけられた。

 スランドゥイルの仕事は、相変わらず忙しいものであったが、
それでも幸福に満ちていた。

 朝から晩まで働く彼は、子供と過す時間は少なかったが、
それでも赤ん坊という存在は疲れた男を癒してくれる。
今まであんなに彼を苦しめてきた悪夢は、
どこか引き出しの奥にしまって忘れさられてしまったようだ。

 今まで生きてきた中で、その数年間が彼の最も幸福な時であった。

 彼は「結婚」という言葉を度々口にしたが、いつも彼女は笑ってそれを拒絶した。

 内縁関係の夫婦。

 それでも、彼女も満ち足りていた。

 子供は、驚くほど早く成長していく。ただ転がっていただけの赤ん坊は、
いつしか歩くようになり、言葉をしゃべるようになる。

 少しずつ生活も安定してくる。
スランドゥイルは、妻と子供と、時間が取れるように努力した。

 

 産前産後と、彼女は働き詰めた。それが、彼女の体を疲れさせていた。

 

 主の見ていないところで、彼女は自由の利かなくなりつつある体を休めることが、
しばしばあった。

 そして、ある冬の日、彼女は熱を出して倒れた。

 ただの風邪だと思っていた。が、疲れきった彼女の体は、肺炎を誘発し、
数日後入院するに至った。

 

 もう、長くは持たないことを、彼女は悟っていた。

 

 窓の外、ちらちらと降る雪を眺める。

 仕事をきり上げたスランドゥイルは、面会に足繁く通っていた。

「気分はどうだ?」

 クッションを積み上げて体を起していた妻に、彼は優しげに尋ねた。

「だいぶ、いいんです。レゴラスが心配だわ。ちゃんと食事を取っているかしら。
寝るとき、毛布を蹴飛ばしてはいないかしら」

 母親の表情をする彼女に、スランドゥイルは苦笑した。

「職人の女房たちが、入れ代り立ち代り世話をしている。皆に可愛がられているよ」

 青ざめた唇で、彼女は微笑んだ。

 スランドゥイルは、彼女に隣に座り、脱いだコートのポケットから小さな包を取りだした。
彼女の目の前でケースを開け、中から銀色のリングを取りだす。

「結婚しよう。もう、嫌だとは言わせない。私の妻になるのは、お前だけだ」

 細いプラチナのリングを、やせ細った彼女の薬指にはめる。
サイズをあわせたつもりだったのに、リングは痛々しくもゆるかった。

「旦那様・・・・」

「いいね、私と結婚するんだ」

 彼女の緑色の瞳から、指輪と同じ色の雫が零れ落ちる。

「・・・・・・・・はい」

 消えるような言葉で告げると、スランドゥイルは妻の瞼にキスをした。

「春になったら、休暇をとろう。三人で、海に行こう」

「・・・・海? ・・・・うれしい・・・・。わたし、海を見たことがないの」

「私もない」

 そう言って、笑ってみせる。

「お前には、苦労ばかりをかけた。私はお前を幸せにしてやりたい」

 溢れた涙が、握り合った手を濡らす。

「旦那様・・・・あなた・・・・わたしは幸せです。あなたに仕えることができて。
あなたの子供を産むことができて・・・・あなたに愛されて」

 彼女は、そっと夫の頬に触れた。

「泣かないで、あなた・・・。わたしはとても幸せ・・・。
この幸せを、だれかに分けてあげたいくらい。
だからあなた・・・あなたも幸せになって。お願い・・・泣かないで」

 指を絡め、唇を重ね、しんしんと降る雪に心をゆだねる。

「カレンスール・・・」

「忘れないで・・・わたしはあなたの幸せだけを願っています」

 愛しているよ。

 スランドゥイルは、何度も繰り返して告げた。

 彼も、彼女が長くないことを悟っていた。

 

 

 

 それから間もなく、彼女は他界した。

 

 スランドゥイルの膝の上で、幼子は父をじっと見上げていた。

「ママは、いつ帰ってくるの?」

 死を理解するには、あまりに子供は幼すぎた。

「ママは、いつもお前のそばにいる。お前の心の中に。目を閉じてごらん、見えるだろう?」

 幼子は目を閉じて首を横に振った。
父に文句を言おうと目を開けた時、そこにいたのは偉大なる父ではなく、
愛する妻をなくした一人の男だった。

「どこか痛いの? 何で泣いてるの? いいこいいこしてあげる」

 父は息子を抱き、声を殺して泣いた。

 

 

 

 あなたの苦しみを抱いて、わたしは逝きます。

 だからあなたは、自由になって。

 心ゆくままに生きて。

 幸せになって。

 オロフェア様も、それを望んでいるはず。

 だからあなたは

 幸せになって・・・・。