この一ヶ月ほど、エルロンドは非常にハードなスケジュールをこなしていた。 休みは皆無。だいぶ疲れは感じていたが、やっと一段落つき、 明日は一ヶ月ぶりの休みが待っていた。 どんなにハードな仕事でも、夜中に屋敷に戻れば最愛の恋人が待っている。 何も言わず、ただ一緒に寝るだけでも癒される。 それに、息子たちもあれこれと世話を焼いてくれる。 家庭をもっていて本当によかったと実感させられた毎日であった。 夜も遅い時間であったが、社長室から恋人に電話を入れる。 明日は休みだと告げると、レゴラスのとろけるような喜びの声が返って来る。 その声に、疲れもストレスも流れ出していくようだ。 明日は、半日はベッドでまどろんでいよう。愛しい恋人の髪を撫でながら。 そんなことを考えながら、ふと目を上げて秘書を見上げた時、 エルロンドは自分の失態に気が付いた。 「あと一時間・・・いや、二時間くらいで帰る」 そう告げて、電話を切る。 それから慌てて立ち上がって、仕事の処理をしている秘書に近付いた。 「大丈夫か?」 「もう終ります。明日は休んでください」 「そうじゃない」 秘書の額に手を当て、案の定熱い感触にぞっとした。 「熱が・・・かなり高いな。いつからだ?」 「・・・・・・」 部下の休みには、気を使っていたつもりだ。 自分は休まなくても、部下たちには休養を与えていた。 が、この秘書だけは別格だ。疲れた顔一つ見せず、グチのひとつももらさず、 エルロンドが難なく仕事に向えるように、社長より早くから出勤し、 社長が退勤したあとも書類の整理などに追われていた。 自分は、どれだけこの秘書に甘えていたのだろう? エルロンドは後悔していた。 もう何年も。何十年も。仕えてくれることがあたり前になっていた。 仕事上でも、私生活でも。 「もういい。帰って休め」 「あと少しで終りますから」 「だめだ!」 強引に書類を奪い、デスクに投げ出す。 レゴラスには申し訳ないが、明日の午前中、出勤して残りを片付けよう。 「マンションまで送る」 「大丈夫です」 プライド高いグロールフィンデルの視線に、エルロンドはかぶりをふった。 「お前に倒れられては困るのだ。帰って三日、寝ていなさい。これは命令だ」 命令、という言葉に、グロールフィンデルも観念する。 昔から、主に絶対服従を叩き込まれている。 主の命令なら、自分のこめかみに銃口を向けることさえ迷わない。 エルロンドは、グロールフィンデルを自分の車に詰め込んで、彼のマンションに急いだ。 エルロンドの屋敷は高級住宅街の一角にあるが、 グロールフィンデルの住いはオフィス街にある高層マンションである。 その最上階。普通のサラリーマンなら、その給料の大半を持っていかれるだろう。 だが彼は、それだけの働きをしているし、そこに住むだけの権利がある。 それに、これといった趣味を持たない。 給料の半分以上を家賃で持っていかれても、痛くも痒くもないのだ。 守衛に挨拶をし、エレベーターで彼を運ぶ。 合鍵を、エルロンドは持っている。この部屋に自由に出入りできる、唯一の部外者だ。 有無を言わせず、服を脱がせてベッドに転がし、熱と脈を計る。 エルロンドは、免状こそ持たないが、医学の知識を蓄えていた。 「ただの疲労だ。寝ていれば治る」 「わかっています」 可愛げのない患者に、溜息を漏らす。 「食べたいものは?」 その質問に、グロールフィンデルは苦笑した。 自分で食料の買物など、したことがないくせに。 「寝ていれば治ります。栄養剤と薬の買置きはあります。ご心配なさらず」 心配そうに部屋の中を歩き回るエルロンドに、グロールフィンデルの方が声をかける。 「お帰りください。社長のお言葉どおり、寝ていれば治ります。 それより、社長に倒れられては私が困ります。帰ってお休みください」 たしかに、不器用な自分がここにいても、かえって気を使わせるだけだ。 エルロンドは携帯電話をサイドテーブルに置き、 何かあったらすぐに連絡するように言い伝え、グロールフィンデルのマンションを出た。 さて、どうしたものか。 寝ていれば治る。その程度の熱だ。だが・・・・何かしてやりたいと願ってしまう。 しかし、自分には何もできない。 看病の部類なら、息子たちのほうが得意だろうが、それも気を使わせてしまう。 さて、 どうしたものか。 エルロンドは車の中で、もう一度レゴラスに電話をかけ、さらに別のところに電話をかけた。 グロールフィンデルは、体調を崩した自分に嫌悪していた。 気をつけていたつもりだったが。 気が抜けたせいか、また熱が上ってきた。 さっき飲んだアスピリンが効いてくるまで30分、というところか。 目を閉じると、目眩がして悪寒が走る。空調は完璧のはずだ。暑くもなく、寒くもない。 眠ってしまえれば、明日には熱は下がるだろう。 病に侵されると、人は気弱になるものだ。 普段は心地よい、窓からの景色も、今は冷たく感じる。街に広がる光の海。 文化の繁栄の証。 眠らなければ。 インターフォンに気付き、取り上げると、顔見知りの守衛が来客を継げた。 エルロンドの友人で、彼に頼まれたのだと。 余計なことを。一人にしてくれればいいものを。 小さく悪態をついて、ドアを開ける。 「・・・・・・・」 夢か、幻影を見ているのだろうか? ぼんやりと立ち尽すグロールフィンデルに、その男はふん、と鼻を鳴らした。 「見舞だ」 スランドゥイルは、呆然としているグロールフィンデルを無視して、 部屋に入り込んで見回した。 「冷たい部屋だな。空気が悪い。窓を開けろ」 何を言っているんだ? 熱にやられているのか。自分が信じられないまま、ドアを閉めて部屋に戻る。 馬鹿でかい1LDK。その中央で、その男は仁王立ちしている。 「ここを何階だと思っている? 窓など開けられぬ」 当然、壁一面の窓ガラスは全てはめ殺しだ。 「だから病気になんかなるんだ! ったく! わしのところで一週間も静養してみろ」 郊外の林に面した田舎作りの屋敷。彼らしい住い。 「まあいい。ほら、手土産だ」 片手に赤ワイン。 「ボルドーの一級品だ。もったいないがくれてやる」 「私は・・・アルコールは」 「ぐだぐだぬかすな! 風邪にはミルクで割ったワインが効く! 常識だぞ!」 常識・・・・なのか? ただの民間療法ではないか。 「さっさと寝ろ! わしはこれでも忙しいんだ! エルロンドの奴、わしは昨日コロンビアから帰ってきたばかりだというのに。 仕事は残っているし、なにより疲れて眠いんだ!」 いいからとにかく寝ろ、と、ベッドに急かされる。 「ス・・・・」 名前を呼びかけて、言葉が止る。 額をぴたりとあわせて、スランドゥイルはグロールフィンデルの灰色の瞳を覗き込んだ。 「・・・・熱が高いな。目が潤んでいるし、顔色も悪い。・・・指先も冷たい」 手を握られていることに気付いて、慌てて身を引く。 「・・・・寝ていれば、治る」 「眠れればな」 体を起したスランドゥイルは、自分が着ていたジャケットやら靴やらを、 脱いで放り投げた。 「・・・な・・・?」 「わしは明日も仕事だし、今夜はどうしても休んでおきたい。 いいから、もっとどけろ! 一人でクイーンサイズのベッドとは、いい身分じゃないか!」 ぐいぐいと押しやられ、抵抗する間もなく、 スランドゥイルはベッドに横になって、背を向けて丸くなった。 ・・・・・・この状況を、どうしろと・・・・・・? 「妻とはいつも一緒に寝ていたし、息子も家にいたときは なんだかんだわしのベッドに潜り込んできた。いつまでも甘ったれでな。 でもまあ、人の体温は気持いいものだ。呼吸や心臓の音を聞いてると、ぐっすり眠れる」 そう言って、上掛けをひき寄せる。 物心ついてから、誰かと一緒に寝たことなどない。 グロールフィンデルは、ただ呆然と体を起していた。 煮え切らないその態度に、スランドゥイルはむくりと起き上がり、 ムッとした表情でグロールフィンデルを羽交い絞めにし、ベッドに押倒した。 「寝ろと言っている!」 アルコールと汗の体臭。耳にかかる息。心臓の鼓動。 ぼんやりとしていた頭が、少しずつ現状を認識していく。 薬が効いて、熱が下がってきたのか。 羽交い絞めされた腕を振り解き、逆に上にのしかかって荒いキスを首筋にする。 「ほう、元気じゃないか」 驚きもしないでスランドゥイルはグロールフィンデルの髪を引っぱって、 自分から引き剥がす。 「性欲が出るほどなら、心配ないな」 「お前が悪い」 「人のせいにするな」 にやりと笑ってみせる。 「エルロンドが心配していたが、疲労でぶっ倒れるなど、自己管理がなっていない証拠だ。 お前は自分がよくわかっていないのだろう。メシ食って寝てたって、ストレスは溜まる。 ストレスが溜まれば、体にがたも来る。だからってわしにどうこう言われても困るんだがな。 セックスは生理現象だ。適当に女でも見繕って、定期的に処理した方がいいぞ」 「女に性欲など感じない」 「・・・・・不感症か?」 「そうかもな」 そう言いながらむしゃぶりついてくる男に、スランドゥイルは溜息をつく。 何が不感症だ。 結局、求められるままに与えてしまう自分は、甘いのだろう。 さっきまで高熱でぼんやりしていた男とは思えない激しさに、 スランドゥイルは自分の甘さを後悔した。 「噛付くんじゃない!」 熱中する男の髪を引張り、あるいは強引に押し戻して、 スランドゥイルは何度も中断させた。 「無理矢理入れるな! 痛いではないか!」 「誘ったのは、そっちだ」 グロールフィンデルの言葉にムッとして、その頬をぴしゃりと叩く。 「生意気なことを言うと、もうやらせないぞ」 スランドゥイルの言葉に、グロールフィンデルはじっとその目を見つめた。 「ああ、もう、そんなに悲しそうな顔をするな! 続けていいから、もっとそっとやれ! 自分が病人だということを忘れるな!」 病人だという自覚は最初からないが、それでも言われたとおり、 できるだけ本能に理性を付加えて、グロールフィンデルは欲望を全うさせた。 いつの間に眠りこんでしまったのだろう。 熱は下がっていたし、体も軽い。 隣で寝息を立てている男を見下ろす。 こんなに熟睡したのは、どれだけぶりなのだろう? 起き出してシャワーを浴びると、ベッドから悲鳴が聞えてきた。 「まずい! 約束の時間じゃないか!」 優雅な素振でバスルームから出ると、スランドゥイルは飛び起きて服を着込んでいた。 「わしは帰るぞ! 打合せの時間に間に合わん!」 「送ろうか?」 「病人は寝ていろ!」 「熱は下がった。気分もいい」 一瞬スランドゥイルは考え、それからまた声を荒げた。 「急いでくれ」 スランドゥイルが何本か電話をかけている間に身支度を整え、 連れだってマンションを出る。 スランドゥイルも感嘆するほどのドライビングテクニックで、 彼の会社に車を乗りつけると、スランドゥイルは助手席を飛びだした。 「今夜、わしの車を取りにいく!」 「・・・ああ、待ってる」 短く応えると、その男は駆けて行き、すぐに見えなくなった。 運転席で、ふと溜息をつく。口元が知らずほころんでいる自分に気付く。 それから、自分の携帯電話を開けて、エルロンドに電話をかけた。 熱は下がったし、すっかりよくなったので、 残りの仕事は自分が片付けておく旨を伝える。 まだ心配しているエルロンドに、グロールフィンデルはらしくない優しげな声で言った。 「ゆっくり休んでください。レゴラスはあなたを癒してくれます」 思いがけない秘書の台詞に、エルロンドは驚いた。 が、自分の思惑が成功したことに安堵した。 「残りの仕事を片付けたら、あとは帰って休養してくれ」 携帯を切ったあと、グロールフィンデルは自分の会社に車を走らせた。 残務はあと半日もかからないだろう。久しぶりに食糧を買って、夜は自分で料理しよう。 あのワイン・・・料理に入れてしまっては怒られるだろうな。ワインの適温は何度だっけ? どうせ飲む奴は一人だ。完璧に冷しておいてやろう。 不思議と満たされた気分で、グロールフィンデルは仕事にとりかかった。 午前中いっぱい、うつらうつらまどろんでいて、 レゴラスは自分の携帯電話の呼出に気が付いた。 「父さん?」 『エルロンドを出せ』 挨拶もなしか。レゴラスはちょっとムッとする。 エルロンドは、まだ隣でまどろんでいる。 「い・や・だ」 『いいから出せ!』 聞えていたのか、エルロンドはレゴラスの携帯をそっと奪い取った。 それから、そこにいるように身振りして、自分はバスルームに向う。 「・・・私だ」 『貴様! あのケダモノをなんとかしろ! 熱があるだと? 元気じゃねえか!!』 一瞬驚き、それから苦笑する。 「・・・申し訳ない」 『いいかげん、女でも紹介してやらんか! いちいちわしが駆り出されては迷惑だ!』 「私もそうしたいのだが、本人が強情でな。感謝している」 電話の向うで、大きな溜息。 『貸しだからな』 「承知した」 『レゴラスに代れ』 バスルームから出ると、ベッドの上でレゴラスは心配そうに様子をうかがっている。 エルロンドはレゴラスに携帯を返した。 『今夜の顧客接待、お前一人で行け。わしは急用ができた』 「えええ? 父さん、遊びまくるのもいいけど、仕事くらいちゃんとしてよね。 社長なんだから! おおかた昨夜飲み歩いていたんでしょう? 声が眠そうだもの」 『うるさい。わしはエルロンドに貸しを作った。お前がその貸しを返せ』 「そんなむちゃくちゃな」 『嫌だったら、今すぐ家に帰って来い!』 「・・・わかったよ! 行けばいいんでしょう、行けば! まさか、本当に女ができたんじゃないだろうね? 年の離れた兄弟なんて、僕いらないからね!」 『やかましい! わしだってわしと同年代の義理の息子などいらんわ!!』 叩きつけるように電話を切ったあと、レゴラスはむすっとしたまま大きな溜息をついた。 「くそっどこの女か調べてやる・・・」 吐き捨てるように呟くレゴラスに、エルロンドが動揺する。 レゴラスなら、本当に調べかねない。 「・・・スランドゥイル殿が誰と付き合おうと、かまわないだろう?」 「でも・・・・・」 「もう少し、お父上から離れなさい」 不満げに口を開きかけるレゴラスの、唇を唇でふさいで、ベッドに押倒す。 「今夜仕事なら、今はまだこうしていよう」 出かけるまでの数時間。 レゴラスはとろけるように微笑んで、エルロンドの背中に腕をまわした。