ギル=ガラドから学ぶことは、あまりに多かった。
一般的な帝王学とは別に、ギル=ガラドの考え方そのものを教え込まれる。
それはまるで、エルロンドが自分と同じ思想を持つように導いているように。

 本を読み学ぶことは、好きであった。知識を蓄えることに喜びを感じる。
だから、どんなに高い知識や智恵を要求されようと、
それはエルロンドには苦にはならなかった。
当然、眠っている間以外はすべて学びの場となる。
食事でさえ、高貴な者のたしなみとして最高級の食材や調理方法を学ばされる。
頭の中が休まる暇などなく、本人の意識とは無関係に疲労が溜まる。

 そんな時、ギル=ガラドに訪問客があり、エルロンドもその場に引き出された。

 珍しいものでも見るように、エルロンドは息を飲んだ。

「ガラドリエルは私の親類にあたる。その夫、ケレボルン、お嬢さんの名は」

「ケレブリアン、です」

 少女は微笑んだ。

 もし、ここがギル=ガラドの屋敷ではなく、自分が彼の教え子でなければ、
エルロンドは少女に恋をしていただろう。

「ガラドリエルと話をしている間、お嬢さんのお相手を」

 言葉短に命令され、少女を招いて屋敷を回る。
少女は実につつましく、そして可憐であった。
屋敷にはメイド以外の女性はなく、学校でもなんでも、
エルロンドは女性に興味を示したことはない。
そんなことにうつつを抜かしているほど暇ではなかった。

「ギル=ガラド様の書生でいらっしゃるの?」

 少女の問いに、戸惑いながら肯く。

「大変なのでしょうね」

「・・・・いいえ、よくしていただいているので・・・・」

「でも、お疲れのようですわ」

 幼い唇が、大人びた口調を真似る。エルロンドは、頬が染まるのを感じた。

 

 その夜、いつものようにギル=ガラドの書斎に入る。
ギル=ガラドはガラドリエルらの身の上と、今日訪れた用件をエルロンドに話して聞かせた。

「美しいお嬢さんだ」

 エルロンドの内心を探るように言う。

「ガラドリエルの娘だ。利発でしとやかだ。きっと、理想的な女性に成長するだろう。
・・・嫁を取るなら、ああいう女性がいい」

 エルロンドは眉を寄せる。まさか、ギル=ガラドがあんな幼い少女を娶るとも思えない。

「ギル=ガラド卿?」

 訝しがるエルロンドに、ギル=ガラドは口元を吊り上げた。

「お前の話だ」

「・・・・私・・・の?」

 明かに胸が高鳴る。

「まだ先の話だ」

「しかし・・・なぜそのような?」

 エルロンドはまだ若い。あのような美しい少女に恋をしてもおかしくはない。

「今はまだ、自制しなさい。お前には学ぶことがたくさんある。
そうだな、あと4・5年は勉学だけに集中しなさい」

 釘をさされた。
エルロンドは、僅かでも少女に気持ちを揺り動かされた自分を恥ずかしいと思った。

「明日からは、少し私と共に行動してもらう。来週オペラを観に行くので同席すること。
明日、いつもの店からスーツの採寸に来る。お前も外出用のスーツを新調する。
10時だ。忘れないように」

「・・・はい」

「それから、オペラの演目と出演者のパンフを届けさせるので、前もって予習しておくこと。
誰かに感想を尋ねられて、面白かったの一言で片付けられては困る」

「わかりました」

「では、今夜はもう休みなさい。
読まなければならない本があるなら、明日早起きして読むように」

 確かに、言いつけられた本が、まだ読み終わっていない。

「はい」

 返事をして、頭を下げ、書斎を出て行く。

 ギル=ガラドは何もかも見通している。

 エルロンドは昼間の少女の面影を、頭の隅から追い払った。
今は、女性のことを考えている暇は、1秒だってない。
ギル=ガラドは、若いエルロンドが少女に興味を持つことをわかっていて、あえて会わせた。
そして、それを否定したのだ。

 自分の見ていないところで、女性に興味を示さないように。

 そしてギル=ガラドの思惑どおり、
エルロンドはそれ以降女性にまったく興味を持たなかった。

 

 

 

 別に、オペラを楽しみに来たわけではない。

 これは、外交だった。

 ギル=ガラドの助手として紹介される。
エルロンドは、その頃には助手として恥ずかしくない態度を取れるようになっていた。

 演目は「蝶々婦人」。

 観終わった後、忠告どおり感想を聞かれる。
エルロンドは、オペラのストーリーではなく、歌手や舞台演出などを重点的に感想を述べた。

「型どおりのことしか言えなくて、申しわけない。彼はオペラを観るのは初めてなのでね」

 付け加えるようにギル=ガラドは言った。
エルロンドは、自分の感想が何か間違っていたのかと不安を覚える。

「いやなに。立派ではないかね。オペラに精通しているのかと思いましたよ」

 その男は笑った。男の名はエレンディル。ギル=ガラドと深い交友を持っていた。

 

 帰りの車の中、ギル=ガラドは隣に座るエルロンドに目もくれずに言った。

「オペラは嫌いか」

 嫌いかと聞かれて、返答に困る。好きとも嫌いとも言いがたい。

「感動がないようだな」

 エルロンドは視線を落として押し黙る。

「別に責めているのではない。あの演目を選んだのは私だ。
お前は、私の思いどおりの反応をしてくれた」

 手のひらを握る。

「大分遅くなってしまったが、着替えたら私の書斎に来なさい」

 

 ギル=ガラドは、自分の机の前にエルロンドを立たせたままでいた。

「率直に聞こう。マダム・バタフライをどう思う」

 蝶々婦人、マダム・バタフライ。
男を愛し、子を授かり、帰らぬ男を待ち続け、真実を知った女は子供を残して死を選ぶ。
悲劇的な愛の物語。一番の被害者は誰であったか?

残された子供だ。

「・・・・悲しい恋物語だと・・・」

「そんなことを聞いているのではない」

 ぎくり、と身を震わせる。

 

  (ある晴れた日、あの人を乗せた船が港に入ってくるのが見える

   きっと、あの人は遠くから私の名を呼びながら

   この丘を駆け上がってくるはず・・・・・)

 

「マダム・バタフライは、愚かな女だ。そう思うだろう? 男に騙され、子供を棄てた。
子供に愛情をかけて育てることより、もう自分にはない男の愛を選んだのだ。
子供は棄てられたも同然。そして、物語のストーリーはそこに触れることはない」

 エルロンドが唇を噛む。

「・・・・・彼女は・・・・幸福だったのだと・・・思います。
ここにはない愛を信じ、全てを捧げたのですから」

「お前は、マダム・バタフライを許せるか」

「・・・・許せるも何も・・・・それが彼女の生き方です」

 詰まりそうな息を、意識して吐き出す。そうしなければ、窒息してしまいそうだった。

「エルロンド」

 その声色は、今までに聞いたことがないくらい、穏やかで優しいものだった。

「私には権力も財力もある。何でもお前に買い与えることができる。
どんな裕福な暮しもできる。が、ひとつだけできないことがある。
お前自身の感情のセーブだ。
お前がもし己の身の上を不幸に思い、周囲を敵視するなら、
お前の不幸を誰も救うことはできない。
が、そんな負の感情をセーブし、許しを与え、
これから先のことだけに目を向けるのであれば、お前は自分自身の幸福を得ることができる。
努力の名の元に」

顔を上げて、エルロンドはギル=ガラドを見た。

「お前にはそれができる。
自分の欲望や感情を自分でセーブし、自在に操ることができるようになるだろう。
だから私は、私の後継者としてお前を選びたい。私の持つ財産は膨大で、
それを受け継ぐ最大の条件は己自身をコントロールできるということだ。
もちろん、無理強いはしない。莫大な財産と共に、重すぎる責任も負わねばならぬからだ」

 財産にも権力にも、魅力は感じない。そんなものが欲しいとは思わない。
ただ、どれだけ自分ができるのか、試してみたいとは思う。
ギル=ガラドという人間を、もっと知りたいと思う。

「・・・・私が興味を引かれるのは、自分自身の可能性と、
ギル=ガラド卿の人間性だけです」

「私と、運命を共にしてはくれぬか?」

 ギル=ガラドは、何を思っているのだろう。

 不幸な運命にある子。複雑な血筋を持つ子。
めぐりめぐって、彼の元に運命はたどり着くのか。
親のない自分が、妻子を持たぬ、この王に。

「・・・私の運命は、ギル=ガラド卿と共にあります」

 エルロンドは、頭を垂れた。

 

 (どうして泣くの? あの人はきっと、帰ってくるわ)

 違う。

 どんなに待っても、あの人は帰ってこない。

 港に船など、やって来ぬのだ。

 

「私は私の意志で、ギル=ガラド卿と運命を共にすることを選びます」