「ギル=ガラド卿はいつお休みになられるのですか」 屋敷に来て、数ヶ月が経っていた。 「卿はお休みになられない」 エルロンドの質問に、屋敷の者は真顔で答え、そして苦笑して見せた。 「私たちも、卿がお休みになられている姿を見たことはないよ。 本当に、多忙な方だからね」 エルロンドは、ギル=ガラドがくつろいでいる姿を見たことがなかった。 同じ屋敷に住んでいるというのに。いつでも正装をし、分刻みで行動をしている。 ギル=ガラドが特に必要とするときだけ、最も近い者と朝食をとることはあったが、 それ以外では姿を見ることもままならなかった。 ノルドールと呼ばれる一派を形成したのは、彼の曽祖父であったと聞く。 祖父の時代にそれぞれの袂を分かち、ギル=ガラドの祖父、 フィンゴルフィンがその首領の地位を継いだ。 それ以来、直系の子孫が全てを受け継いでいる。 ギル=ガラドの父の兄弟は別の町の長をしていたが、その町、ゴンドリンは滅びた。 彼らが一派を形成した理由、長年の確執のある(敵対してきた) モルゴスという男の率いる犯罪組織(今はサウロンと言う男が引き継いでいる) に襲撃を受けたのだ。辛うじて生き残った者達を、ギル=ガラドは保護した。 そうやって、ギル=ガラドは多くの者達を保護し、率いている。 その責任を負っている。その力を頼りに、彼の元に来る者も多い。 ギル=ガラドは、すべての者たちの王であった。 その重責は計り知れない。 「エルロンドを保護したそうだね」 ギル=ガラドと向かい合い、朝食に出された皿をフォークでつつきながら、 その男は言った。 「マグノールが手放したのか」 ギル=ガラドは、まだ若いその男の言葉に耳を傾けている。 「叔父も、かわいそうな方だ。呪縛から解放されることがないのだから」 まるで他人事のように言う。この男の口調は、軽い。 「僕は、貴方のことも心配しているのですよ、ギル=ガラド卿。 さぞ休まる暇がないでしょう」 「心配には及ばない、ギルドール」 ギルドールは祖父の兄弟の家系である。 「僕らフィンナルフィンの家系は自由がモットーでね。 おかげで僕はこうして好きな旅をして暮らしている。 でも、貴方に責任の全てを押し付けてしまったようで、心苦しく思う時もあるんだ」 「気にすることはない」 「ガラドリエルは、シンゴルのところで結婚をして、娘をもうけたそうだね。 その後を知っているかい?」 「私が保護をしている。今は身を隠している」 「そう、それはよかった」 空になった皿が下げられ、食後のコーヒーが運ばれる。 「ギルドール、世間話をしにわざわざ出向いたわけではあるまい。 フィンロドが亡くなった今、君がフィンロドの一族を率いているのだろう」 「そうなんだけどね」 コーヒーを一口飲み、ギルドールはもっとミルクを入れてくれるように頼んだ。 「僕も、多少は将来のことを気にかけている。単刀直入に言おう。 なぜ、妻を娶らず、子をもうけない? 貴方の代でノルドを潰す気か? それとも、他に後継者を探すと?」 ギル=ガラドは、目を上げた。 「忙しさなど理由にならない。政略結婚などいくらでも可能だ。 まさか、恋愛しか認めないというほど純情でもなかろう。 急がねば、間に合わないかもしれないよ。僕は貴方と同じくらいには世情に詳しい。 貴方が、サウロンに対して包囲網を縮めていることも知っている。 それで、もしかしたらエルロンドを引き取ったことと何か関係があるのかと思ったのさ。 ただ保護するだけなら、こんなに近くに置くこともない。 ここは、貴方の側近たちの住まう屋敷だ」 若いのに、鋭い。自分のそばで働かせたいほどだ。 ギルドールの視線の先で、ギル=ガラドは口元を吊り上げた。 「エルロンドは賢い子だ。飲み込みが早く、従順。頭もよいし機転も利く」 「それは、生きるために身につけた護身術のようなものでしょう」 「そうだ。それが吉と出るか凶と出るか、まだわからぬ」 「でも、素質を感じているのでしょう?」 「では聞くが、ギルドール、お前はあれをどう見る?」 改めて差し出されたカフェオレを一口飲み、ギルドールは思いをめぐらせた。 「・・・・貴方の教育次第、でしょうな。 今のエルロンドは、まだ貴方についていくので精一杯だ。 まあ、まだ半年だから仕方がないが。たぶん、貴方の考えを教え込むのは容易いでしょう。 しかし、彼の生育暦から見て、人の上に立てるかどうかは疑問だね。 そのへんをどう教え込むか。 彼は、貴方のように生まれながらにかしずかれてきたわけじゃない」 己のコーヒーを飲み干し、ギル=ガラドは立ち上がった。 「授業があるので失礼する」 「たぶん、二、三年したらまた伺いますよ。そのときを楽しみにしてます。 もしエルロンドが使いものにならないのであれば、その時は諦めて結婚してください。 相手は誰でもいいのです。貴方の財産、我々ノルドの次なる王が見出されるならば」 ギルドールの鋭い言葉を背に、ギル=ガラドは食堂を出て行った。 エルロンドは、屋敷での生活に満足していた。確かに堅苦しい所ではある。 屋敷の住人は皆口が堅く、談笑などは見受けられない。 必要以上に話し掛けられることもない。だが逆に、エルロンドはその方がよかった。 エルロンド自身、くだらない世間話などは苦手であった。 ギル=ガラドの大学に通い、それ以外の時間は勉学に励む。 幸い、ここには読みきれないほどの本がある。 本に埋もれている間、エルロンドは平穏を感じていた。 こうして一人で静かに過す時間は、彼の好むところであった。 そうして、一年の月日が過ぎて行った。 エルロンドは、大学で主席の座を得ていた。 ある晩、エルロンドはいつものように自分の部屋で本を読んでいた。 「君に仕事ができた」 そう言って訪れてきたのは、ギル=ガラドの側近の一人であった。 「今夜から毎晩、11時きっかりにギル=ガラド卿にコーヒーを運んで欲しい。 卿の指名だ」 それは、メイドの仕事ではないのか? そんな疑問が表情に出る。 「これは、大切な仕事なのだよ。ただ、コーヒーを運ぶだけではない。 その時の卿の態度や顔色をちゃんと見極めなければならない。 つまりだ、卿がお疲れのようなら、翌日の朝食のメニューを変えたりもするからね。 ギル=ガラド卿の健康管理も私たちの仕事のひとつなのだよ。 君にはまだわからないかもしれないが」 ギル=ガラドが、どれだけ偉大で重要な人物であるのか。 「そこで、君には専門外だろうが、看護の知識も多少は身に付けておいてもらいたい。 それから、卿の側近として、ボディーガードの知識もだ。 何かあった場合、私たちは己の命に代えても卿を守らなければならない。 卿はただの大学教授ではない。敵も多いということを知っておいてもらおう。 できるね?」 ギル=ガラドがただの資産家で大学教授であるというわけではないことくらい、 エルロンドも知っていた。 だが、彼のそばにいるということの重大性までは気付かなかった。 エルロンドは、ただの学生ではなくなる、ということだ。 できるかと訊ねられて、できないとは答えられない。 「わかりました」 エルロンドは短く答えた。 「ギル=ガラド卿は、君をとても気に入っている。期待を裏切らないでくれ。 今から食堂に行って、コーヒーの入れ方を教わってきなさい。 それから、時間は厳守すること。卿は時間に厳しい。言訳は通用しない」 「はい」 エルロンドは読みかけの本を閉じた。 言われた時間きっかりに、エルロンドはギル=ガラドの書斎のドアを叩いた。 返答を待ってドアを開ける。 「コーヒーをお持ちしました」 「そこに置いてくれ」 言われた場所にコーヒーを置く。その場に立ったまま、エルロンドは次の指示を待つ。 ギル=ガラドは、読みかけの文章を少し進めてから、顔を上げてエルロンドを見た。 「お前には、しばらく私のそばで働いてもらう。 簡単な指示は受けたと思うが、何か質問は?」 「ありません」 従順に答える。ギル=ガラドはエルロンドの顔から爪先までを見回し、その態度に肯く。 ただ、従順なだけの男なら、いくらでもいる。 「大学での勉強は続けてもらうが、これからは私が直接お前に教えることも多くなるだろう。 ただ、知っての通り私は多忙だ。お前にコーヒーを持ってきてもらうのは、そのためだ。 毎晩30分ずつ、私はお前の勉強を見よう。質問はすべてその時間にするように。 それから、私の朝食の席にも同席するように。一日のスケジュールはその時申し渡す」 「はい」 人形のように答えるエルロンドに、ギル=ガラドは少し目を細めた。 「質問は? 個人的なことでもかまわん」 何か、質問をしなければならない。これは、質問をするように命令されているのだ。 エルロンドは悟った。 「では・・・卿は、いつお休みになられているのですか?」 くだらない質問だとは思う。だが、ある意味重要だ。 「毎晩、2時にベッドに入り、5時に起きる。朝食は6時」 睡眠時間、3時間。さすがにエルロンドは驚きを隠せない。 「慣れればどうということはない。 しかし、私は自分の生活ペースを他人に押し付ける気はない。むしろ、無理だ。 お前は毎日5時間は睡眠を取るようにしなさい。 夜時間が取れなければ、昼間休むのでもよい。体調管理が第一だ。いいね?」 「わかりました」 それからギル=ガラドは、自分のしていた腕時計を外すと、エルロンドに差し出した。 「これをやろう。時間は厳守するように」 時計を受け取った時、エルロンドは不思議な感覚に襲われた。 買えというのでも買い与えるのでもなく、自分の時計を・・・? 「もし、私についてこられなくなった時、その時計を返してもらおう。 その判断は自分でしなさい。私は非難はしない」 時計を腕に巻くと、それはずっしりと重かった。 責任という重みだ。 自分は、その重みに耐えられるのであろうか? 否、耐えるのだ。 自分の、存在意味にかけて。 「今夜は下がって休みなさい。朝食の時間を忘れないように」 「わかりました」 エルロンドは頭を下げた。 ドアに向い背を向けると、ギル=ガラドは再び自分の世界に没頭していった。 エルロンドは、主を得た。