レゴラスは、日の光に目を覚ました。 体を起して周囲を見回すが、誰もいない。 ふと目に止った時計から、エルロンドは仕事に行っている時間だと気がついた。 あのあとまた体を重ね、いつしかそのまま眠りこんでしまったのだ。 乱れたベッドに座り、両手を見る。手首には、まだうっすらと戒めの痕が残っていた。 胸に、肩に、愛された痕。 体に残された、彼の体臭。 真暗な視界で触れられた場所は、今目の前にいない彼の存在を、 体の疼きとして刻み込まれた。 たとえ姿が見えなくても、彼はいつもそこにいるのだ。 レゴラスは自分で自分の肩を抱いて、またベッドにつっぷした。 眠かった。 このぬくもりに抱かれて、 まだ眠っていたかった。 物音に気付いて目を覚ますと、もう昼になっていた。 汚れたシャツを羽織っただけで、階下に降りる。 頭の中はぼんやりとしていて、自分がどんな姿でいるのかなんて想像もしない。 音のする場所、キッチンの入り口で、レゴラスは立ち止ってその人物を眺めた。 なんだろう、この感覚・・・・? ひどく懐かしいような。 漂ってくる香りに、空腹を知る。 「・・・・・・・」 何か、呟いたかもしれない。自覚はまったくないが。 それでもその声に、音の主は振向いた。 「なんて格好だ」 それほど非難した口調ではない。 「・・・グロールフィンデルさん?」 「社長に、食事を取らせるように言われて来た。シャワーを浴びて、着替えなさい」 レゴラスは、素直にバスルームに向った。 洗いたてのシャツに袖を通し、キッチンに戻ると、 テーブルには野菜のスープとガーリックトーストが並べられていた。 スープにはたっぷりベーコンが入っている。 「そのままサラダを出しても食べないだろうからな」 じっとスープを見ていたレゴラスに、グロールフィンデルは言った。 「ちゃんと髪を乾かしなさい」 ひとつ溜息をついて、ドライヤーを取りに行く。 キッチンのテーブルに座ったレゴラスの後から、 グロールフィンデルはその髪にドライヤーをかけて乾かした。 されるままになりながら、レゴラスは何か思い出したような気がした。 懐かしい・・・・忘れていたこと・・・・・。 座ったまま頭をのけぞらせて、レゴラスはグロールフィンデルを見た。 唇が動くが、声はドライヤーの熱風にかき消される。 しばらくしてドライヤーを止めると、 それを片付けながらグロールフィンデルは溜息混じりに呟いた。 「私はお前のママではない」 そんなことを言われて、レゴラスは自分が何を呟いたのか、知った。 (ほらもう、ちゃんと髪を乾かして!) 笑いながら、彼女は言った。バスルームでふざけていた夫と息子に。 (野菜も食べるのよ! スープにすれば、食べられるでしょう?) あれは、いつだったのだろう。物心、つくかつかないか。 父は笑いながら、妻にキスをしていた。 食事をしていると、だんだんと目も覚めてきて、レゴラスは状況を理解することができた。 同時に、顔つきもしっかりしてくる。 テーブルの正面に座り、グロールフィンデルはコーヒーを飲んでいた。 「グロールフィンデルさんて、本当に何でもできるんですね」 いつもの口調で、笑って言う。 「自分の体調管理くらい、自分でできなくてどうする?」 本当に、一人で生きてきた人なんだ。レゴラスは複雑な思いがした。 自分の周りには、いつも誰かがいた。誰かが心配してくれて、誰かが世話を焼いてくれる。 それに甘えている自分がいる。 それは、いけないことなのだろうか。 レゴラスが食事を終えるのを見計って、 グロールフィンデルは食後のコーヒーの代りにジンジャーエールを出してくれた。 「お前に言っておきたいことがある」 添加物の塊を嬉しそうに飲むレゴラスに、厳しい口調を向ける。 その表情から、レゴラスもふざけた笑みを消した。 「私はエルロンド卿を守るためだけに生きてきた。それはこれからも変ることはない。 卿に害なす者は、排除する。たとえ、お前でもだ」 レゴラスはグロールフィンデルをじっと見つめる。 「僕に、どうしろ、と?」 真剣な眼差し。そんな鋭い瞳が、グロールフィンデルには快感だった。そう、その目だ。 「私は今でも時々、もっと早くにお前をエルロンド卿から離すべきだったと思うことがある」 「エルロンド様が、それを望まなくても、ですか」 「精神が堕落するよりは、いい」 「僕がエルロンド様を堕落させる、と?」 「そうだ」 レゴラスは、傷ついた表情をする代りに、自信たっぷりの、狡猾な笑みを作った。 「僕は、自分がエルロンド様の残虐な一面を引きだすことは自覚しています。 けれど、それを受入れるのは僕だけです。 エルロンド様が誰にも見せない部分を見せてくれるのは、僕だけ。 僕はそんなエルロンド様を愛しているし、 誰にも見せてこなかった部分を受けとめる自信があります。 グロールフィンデルさん、たとえあなたにも邪魔はさせません」 傲慢とも取れる自信。 グロールフィンデルは、唇を吊り上げた。 エルロンド卿、あなたの愛した者は、あなたが考えている以上に手ごわいですよ。 愛に揺れ動き、愛する者に殺されることを望むカルメンとは違う。 「グロールフィンデルさん、誰かを愛したことがありますか?」 レゴラスの問は、グロールフィンデルの胸を射抜いた。 「愛など、不確かな感情に過ぎない」 「だけど、真の愛は人を強くします」 「いつかはうすれゆく感情だとは思わぬのか」 「愛は消え去ることはありません」 輝くようなレゴラスの瞳に、グロールフィンデルは片手を口に当て、笑い出した。 「?」 肩を震わせて笑い続ける男に、レゴラスが不信な目を向ける。 「愛という神話を、信じているのか」 「信じています」 「なら、なぜ父親をもっと信頼してやらぬ」 そこではじめて、レゴラスはグロールフィンデルが何を言いたいのか理解した。 「スランドゥイルは妻を愛し、息子を愛している。 その愛が不変であると、なぜ思ってやれぬ」 自分がエルロンドに永遠の愛を誓ったように、父が母に愛を誓ったのなら・・・。 それは永遠に消えることはないのだ。 たとえ、別の者を愛したとしても、そこに注がれた妻への愛に変化はないのだ。 レゴラスは、グロールフィンデルを見つめたまま、己の浅はかさを知った。 そして、鋭い瞳の輝きを、やわらかなものに変えた。 「負けました。すみません、生意気なことを言って」 いつもの子供っぽさを取戻したレゴラスに、グロールフィンデルは満足げな笑みを見せた。 「でも、僕はエルロンド様から離れませんからね!」 「そんなことはわかっている」 結局、相手の方が一枚も二枚も上手なのだ。 レゴラスは、残りのジンジャーエールを飲干した。 「・・・・・グロールフィンデルさんは、誰かを愛したことがありますか」 質問を繰り返され、曖昧に唇をゆがめる。 「時間が愛を薄れさせたりしないと、本当にそう思いますか」 レゴラスは、グロールフィンデルにどんな答えを求めているのか。 グロールフィンデルは考えあぐねた。 「愛とは・・・そうだな、私は、変化してゆくものだと思う。 その時の感情を、愛だと勘違いしていることもあるだろうし、 また、あとになってそれが愛であったと気付くこともあるだろう。 私の知る限り、エルロンド卿は周囲の者を愛してきた。 ギル=ガラドも、ケレブリアンも。その時は真剣にそう思っていたのであろうが、 今のお前を見ていると、愛される自分を演じてきたのかも知れぬと思える。 お前も知っての通り、エルロンド卿も、今は亡き者たちを愛し続けている。 だがそれは、お前に対する感情を薄れさせるものではない。 私は・・・・愛などという感情は、自分の持つべきものではないと思ってきた。 私は仕えるべき存在なのだ。それでも、心惹かれるものはある。 もしそれを愛と呼ぶのなら、私は主に従属するように、一生その感情を抱き続けるだろう。 ただ、感情というものは変化してゆくものだ。 若かりし頃はひとつの欲望としてそれを求めた。 今は、自分の手に落ちることを望んだりはしない。 それが存在し続けることに、感謝しよう。 必要以上に求めれば、他の全てをもこわしかねない。 私はそこまで、愚かではないつもりだ」 唇を結んで話を聞いていたレゴラスは、切なげに目を細め、窓の外の遠い空を見上げた。 「僕は、グロールフィンデルさんが好きです。 なんでもできるすごい人だし、僕が愛しているエルロンド様には、絶対に必要な人ですから。 グロールフィンデルさんは、僕とは違って自分の立場をよくわきまえています。 ・・・・・たぶん、母に似ているのかもしれない」 グロールフィンデルは、眉根を寄せた。そんな彼に、レゴラスが皮肉っぽい笑みを向ける。 「グロールフィンデルさんは、僕のことを調べて知っているのでしょう? 母のことも。母は、父と籍を入れていないことも。 母は地方の出身で、自分みたいな田舎者が都会から来た洗練された経歴を持つ父と 結婚なんかしちゃいけないって、そう言っていたんですって。 最近、職人に聞いたんです。つくすことが母の愛情表現だったのだと。 事実上、非嫡出子である僕を、母の死後、父が養子に迎えたことになってます。 父が僕にそのことを言わないのは、後悔しているからです。 だから僕も、知らないふりをする。 父は・・・臆病になっているんだと思います。 僕は・・・僕は、父に母を忘れて欲しくない。 合法的に認められてなくても、父は母を愛していたのだと、信じていたい。 ご飯を作ってくれるだけなら、メイドで十分です。 父を愛して尽してくれるヒトが・・・・母がいた場所が、なくなってしまうのが、 嫌なんです」 レゴラスの告白には、胸が痛む。 なぜ? 自分は、そんなふうに誰かに愛されたことはないからだ。 「なるほどな」 それだけ言って、視線を飲みかけのコーヒーに向け、ここにいない館の主を見る。 「エルロンド卿が嫉妬する理由がわかった」 レゴラスの瞳は、辛そうに曇る。 「エルロンド卿には、ご両親の思い出はほとんどないのだよ。 幼少の頃に亡くされているからな。その話は、長くなるのでしないが。 卿にとって、その時そばにいる人物が、全てなのだよ。 ・・・・そういう意味では、不器用なのだろうな」 「グロールフィンデルさんも、そうなのですか」 「たぶん、な」 一度瞳を閉じ、目を開けて手首の痕を見る。 「お前の父は違う。愛している者の席を、他の誰かで埋めたりはしない」 「お詳しいのですね」 ぴた、とグロールフィンデルは口を閉じた。 ガラにもなくしゃべりすぎたか・・・。 「そうですよね。・・・・父さんはそんなヒトじゃない。 僕がばかみたいに取り乱してると、皆に迷惑かけちゃいますものね」 ゆがめた唇を、笑みの形に整える。 「僕は、もっと父さんの幸せを願うべきなんだ」 グロールフィンデルは、喉まで出かかった言葉を飲みこむ。 「父さんが選んだヒトなら、きっといいヒトなんでしょう」 レゴラスは、ふと時計を見やり、立ち上がった。 「ご馳走様。美味しかったです。グロールフィンデルさんも仕事に戻る時間ですよね。 僕も仕事に行きます」 一度部屋に戻り、身支度を整えて戻ってくると、 グロールフィンデルは食事の後を綺麗に片付け、自らも出かける支度を整えていた。 「送ろうか」 「いえ、大丈夫です。バイクもあるし。これ以上迷惑をかけられません」 笑って見せ、バックを背負う。 玄関まで連れだって歩き、別れ際、レゴラスは思い出したように振向いた。 「僕、グロールフィンデルさん、好きです。 父の選んだヒトが、グロールフィンデルさんみたいなヒトだったらいいのに」 はにかむように笑って、さっとヘルメットをかぶる。 グロールフィンデルは唇をつり上げて見せた。 秘密にしておくことは、無理があるかもしれない。 だが、知らせるのはスランドゥイルの役目だろう。 もし、彼にその気があるのなら。本当に自分が彼に受入れてもらえるなら。 走り去るバイクを見送りながら、グロールフィンデルは小さく溜息をついた。