「おはよう、父さん・・・・」 キッチンのテーブルで新聞を広げていたスランドゥイルは、顔を上げた。 「なんだ、こんな朝早くから」 「今日は学校に行くんだよ。それで授業に必要な物を・・・」 レゴラスは、キッチンのテーブルに残された朝食の残骸に目をとめた。 この家の朝食といえば、昨日のうちにメイドが作っておいた茹でた野菜と、 買置きのパンと、野菜か果物のジュース、それとミルクと定番は決っていた。 つまり、男所帯、朝から何かを作るということはなかった。 朝でなくとも、レゴラスもスランドゥイルも調理などする気もないが。 だから、片付けずもせずにそこに残された皿と食べ残しに、 レゴラスの視線が怪訝に細まる。 そこには、調理された朝食の痕があった。 察するに、焼いた卵とベーコン、生野菜のサラダ。 たかがそれだけでも、不精な父が自分で用意したものとは思えない。 「・・・だれか、泊ったの?」 新聞から顔を上げずに、父は煮え切らない生返事をする。 テーブルの上を見つめながら、レゴラスは一度息を飲んだ。 胸の中がムカムカしてくる。そして、なぜか悲しかった。 「やっぱり、恋人、できたんだ?」 「何を言っているんだ?」 「この家に泊めるほど、親しい人ができたんだ?」 スランドゥイルは、眉をしかめて、やっと息子の方を見た。 立ち尽したまま、息子は顔をゆがめている。 「わしの女遊びなど、今に始ったことでは・・・・」 「でも、誰かを泊めたことなんてないじゃない。僕の知っている限り。 外で遊んで、泊ってくるか、連込んだって朝まで一緒にいたなんて話、聞いたことないよ」 「レゴラス?」 「本気なの?」 「何を・・・」 「遊びじゃないの? 母さんのこと、まだ愛してるって言ったじゃない!」 「レゴラス!」 亡き妻のことを出されて、新聞をテーブルに投げて立ち上がる。 「いいかげんにしないか! こんな朝飯のことくらいで、何を怒っておる!」 反射的に声を荒げて、スランドゥイルは「しまった」と思った。 いつもは口論さえ楽しむ親子である。そこには絶対的な信頼があるからだ。 それ以上言葉を失ったレゴラスは、涙をぼろぼろとこぼしている。 スランドゥイルにとって、たかがこんなことでも、 息子にとっては大事な聖域であったのだ。 父は自由奔放で遊び歩いてはいても、女に妻のかわりをさせたことはない。 家事や育児にしても、手伝うのはメイドや職人の気のいい奥さんたち。 そこに恋愛感情はない。遊び以上の感情を持った女には、 スランドゥイルは決して手を出さなかった。 それ以上の関係になるつもりはなかったからである。 「学校に遅れる。もう行け」 レゴラスは部屋に駆込んで荷物をまとめ、何も言わずに出て行った。 キッチンに座ったままのスランドゥイルは、溜息をついた。 失敗した。帰ってくると知っていれば、片付けておくのだった。 べつにやましいことは何もないのだが、胸が痛んだ。 息子にとって、父が母以外の誰かを愛するということは、 たとえ母が亡くなっていても、それは浮気に匹敵するのだ。 それだけ、息子は両親を愛していた。 スランドゥイルの気分は、その日、重く沈んでいた。 自分だって、妻以外の女を愛するとは思えない。 今のあいつとの関係も・・・・妻への愛とはまったく違う。 そもそも、レゴラスが愛している奴も、男やもめではないか。 自分がしていることを棚に上げて、父を非難する権利が、あると思っているのか。 それでも・・・・ お互いがお互いに頼りすぎているのか。その存在が、大きすぎるのか。 スランドゥイルは電話を取った。 「エルロンドか。時間ができたら、来て欲しい。・・・・話がある」 社内では人目があるので、スランドゥイルは行きつけの飲屋にエルロンドを呼びだした。 開店前なので、他に客はいない。 知ったマスターなので、二人だけにしてくれるように頼んだ。 向い合って座り、昼間からスランドゥイルはワインのボトルを開けた。 エルロンドにも勧めるが、勤務中なのでとエルロンドは断った。 「お前・・・レゴラスとうまくいっているのか?」 突然の質問に、エルロンドは眉根を寄せる。 「・・・なぜ、そのようなことを?」 「最近、息子はよく帰ってくるし、わしにちょっかいばかりかけておる。 今朝も、珍しく帰ってきて・・・・・泣かれた」 エルロンドは驚いたように目を見開き、そして数秒後、 何も注がれていない空グラスをスランドゥイルに差出した。 「私もワインをいただこう」 スランドゥイルは無言でエルロンドのグラスにワインを注いだ。 そしてさらに、しばしの沈黙。 「わしは、育て方を間違えたのかもしれん」 苦しそうに呟いて、グラスのワインを一気に飲干す。 エルロンドは、その空いたグラスにワインを注ぎ足した。 「わしは妻を愛していたし、妻の残してくれた息子を誰より愛している。 だがな、息子には自由に生きて欲しいと思う。 不可抗力であるにせよ、わしはあいつを気丈でいるようにさせてしまった。 あいつはわしのために、自分を強く保とうとする。 だから、あいつが息を抜ける相手を見つけたときは、賛成はしないが安心はしたのだ。 過去のことは過去のこと、理想の違いによる殺伐としたいき違いは、 息子には関係のないことだ。息子はあんなやつだから、 お前くらいの男でなければ、頼ることはできないだろう。それは、もういいのだ」 「レゴラスは、何と?」 「わしに恋人ができたのかと、な。そんなことで、泣きやがった。まったく。 自分には愛する者がいて、勝手に家を出て行ったくせに。 わしを縛っておかないと気がすまないらしい」 このところのレゴラスは、確かに不安定であった。エルロンドも、気にはしていた。 「スランドゥイル殿・・・・レゴラスが気にしていること、それは真実なのですか」 思い切って訊ねてみる。スランドゥイルはまたワインを飲干し、溜息をついた。 「みんなでわしを責めるな」 「そのようなつもりは・・・」 いつも豪気な男は、落胆して見えた。 「はっきり言っておこう。わしはグロールフィンデルを妻のように愛するつもりはない。 奴にもそう言った。まったく、わしのどこがいいんだか知れんがな」 この男は・・・・自分がどれだけの存在価値があるのかに気付いていないのだろう。 きっと、グロールフィンデルがなぜ自分に固執するのか、理解できていない。 それは、たぶん、彼の妻との恋愛のように単純ではないから。 エルロンドでさえ、レゴラスに何故こんなに惹かれるのか、 理由を知るのに時間がかかったし、 レゴラスはエルロンドの愛情の深さを理解しきっていないだろう。 「私は、あなたを尊敬しています。スランドゥイル殿。 あなたは私に愛すべき対象を与えてくださった。 それはそのまま、あなたの魅力でもあるのです。 たぶんあなたは、自分の容姿を褒められることは好まないでしょう。 レゴラスもそうですが。それでも、私はレゴラスを美しいと思うし、 父親であるあなたも、そして、レゴラスの母上も美しかったのでしょう。 それだけでも十分人を惹きつける。そのうえ、あなたは自由を愛してらっしゃる。 あなたには理解できぬでしょうが、私たちは厳しさの中で育ちました。 そして今も、その中に身を置いている。私は、レゴラスに安らぎを感じるのです。 あの奔放さの中に。彼といる時、私は束縛からの解放を感じるのです。 年齢や性別などの障害はありますが、それでも私は彼を愛しているし、 絶対に失いたくない。そして、レゴラスを育てたのが、あなたなのです」 「よくわからんな」 「わからないかもしれません。私にとって、レゴラスは渇きを癒してくれる水のようなもの。 そしてあなたご自身も。グロールフィンデルにとって、あなたの存在は異質なもの。 異質であるがゆえに、心を乱され、そして、欲するのです。 人間の作り出したどんな飲物も、自然の作り出した湧水に勝てはしません。 そして、それによってのみ、本当に癒されるのですから。 悔しいですが、レゴラスの愛情の根源もあなたにある」 スランドゥイルは頭を振った。 「最初から負けを認めるのか? わしから息子を奪っておいて」 気付くと、ワインのボトルは空になっていた。 「勝手な言いぐさだ。エルロンド。人を勝手に祭上げるな。 わしにはわしの生き方しかできぬし、何もかも擁護することは不可能だ」 だから・・・・そんなあなただから、人はあなたに愛されたいと望むのだ。 そして、本人が自覚していなくても、求める者を満足させてしまう。 「よいか、お前はわしから息子を奪っていたのだ。もっとしっかりつなぎとめておけ!」 「グロールフィンデルのことは、どうなさるおつもりですか。彼は、私の大切な秘書です」 「ああ? あいつか。あいつはお前から離れんよ」 「では、遊びのつもりで?」 「馬鹿者。それだったらレゴラスがあんなに泣き喚くか。 ただ、息子は知らなくていいことがあるのだ」 エルロンドは、自分のグラスに注がれたワインを飲干した。 「よいか、エルロンド。わしはお前を信頼している。 グロールフィンデルのことは悪いようにはしない。努力しよう。 だが、息子はお前に預けたのだ。 頼むから、息子を泣かせるようなことはしないで欲しい。 お前は、レゴラスにとってわし以上の存在になれ」 それこそ、難しい注文だ。 「それができぬのなら、息子を返せ」 まったく、無茶な注文をする。 どんなにあがいても、血のつながりを超えることはできないのに。 「レゴラスは、返せません」 「なら、そうはっきりと息子にわからせるのだな」 エルロンドは、瞳の輝きをみせた。