その夜、エルロンドはいつものように残務をこなしていた。

 スランドゥイルのあの対応は、当然のことだ。彼には、守るべき者たちがいる。

 自分と、同じように。

 ただ、面と向ってあのような言葉をかけられたことには、やはり動揺はある。
あのような言葉を言わせてしまった自分に、非があるのだろう。

 

 グロールフィンデルは、秘書室で仕事をしていた。今は、何かに熱中していたかった。

 不意に携帯がメールの着信を告げる。
開いてみると、そこには前後の言葉はなく、ただ住所だけが記されていた。

 

 グロールフィンデルは社長室のドアをノックし、一礼して入った。
エルロンドが顔を上げる。

「申しわけありませんが、今夜は先に上らせていただきます」

 エルロンドが眉をしかめる。

「何か、用事でも?」

 彼が先に帰りたがることなど、まずない。グロールフィンデルは答えない。
エルロンドは小さく息を吐いた。

「わかった。明日はいつもどおりに」

 頭を下げ、出て行こうとする彼を呼び止める。
足を止めたグロールフィンデルの、表情は感情を表さない。

「今日は・・・すまなかった。あのようなことを・・・・」

 あの男に、言わせてしまった。

「貴方が謝るようなことは、なにもありません」

 それだけ言って、グロールフィンデルは出て行った。

 

 

 

 記されていた住所は、小さなカウンターバーだった。寂れているのか、人気はあまりない。

 中に入ると、客は数人しかおらず、その男は一人カウンターで飲んでいた。
その隣に腰をおろす。ウエイターが注文を取りに近寄ってくるが、
グロールフィンデルは何も注文しない素振を見せた。

「送ろう」

 それだけを口にする。スランドゥイルは立ち上がり、数枚の札をカウンターに置いた。

「お前の部屋に連れて行け。話がある」

 

 

 

 グロールフィンデルのマンションは、いつにもまして寒々としている。

 部屋に入るなり、スランドゥイルは上着を脱いで、ソファーに投げた。
ネクタイも外し、同じように投げ捨てる。そして、グロールフィンデルに振向いた。

「わしを、抱け」

 グロールフィンデルが困惑した表情を見せる。

「なぜ」

 何故、の質問に、スランドゥイルが狡猾に笑む。

「お前とエルロンドを敵にまわしたくない」

 ごくり、と、息を飲む。

「表向き、和解をするわけにはいかぬ。理由は、わかるな? 
だが、お前らを敵に回したくはない。
あの最後の麻薬抗争で、わしらが敗北したのは、孤立したのが原因のひとつだ。
必要な情報は確保しておきたい。そのための人身御供に息子を差し出すつもりはない。
これは、わしらの世代の問題だ」

「・・・・・・」

 スランドゥイルは、シャツのボタンを二つほど外す。その白い胸は、誘惑するには十分だ。

「体を差し出す代わりに、私に個人的に情報を流せ、と」

「そうだ」

 グロールフィンデルの目の前で、形のよい唇を吊り上げる。

「どうせお前らは、わしらの一派を蔑んできた。その延長だ」

「社長であるお前が、自らその身を差し出すと・・・?」

「わしには、裏で手を回す財力も人脈もない。あるのは、この体だけだ。
そして、何をもってしても守らなければならないものがある。
それは、わしを信じている連中の、プライドだ。
奴らは、ノルドの残党などとの協力は、絶対に望まない。
かといって、再び孤立して自らの首を締めるようなマネは、わしはしたくない」

 グロールフィンデルは、スランドゥイルの瞳を、じっと見つめた。

 

 あの時の目、だ。

 さあ、殺せよ。殺してみろ。

 そう言っていた、あの時の目。

 決して、陵辱などには屈しない、強い意思。

 

 グロールフィンデルは、喉がからからに渇いていくのを感じた。

 自分が、最も恐れている、あの表情。

 自分は、彼に勝てはしないのだ、と。

 そう思い知らされる表情。

 

 なぜ、何が、彼をそこまで突き動かすのか。

 

 今すぐ絞め殺してやりたい衝動を、グッと握った手のひらで押える。

「・・・・断る」

 押し殺した返答。

「もう二度と、お前の誘惑になど、乗らない。私は、そこまで愚かではない」

 スランドゥイルの、笑みが消える。

「私は、エルロンドに仕える身。他の者と肉体の契約を結ぶわけにはいかぬ。
私は、エルロンドを守るためなら、冷酷な殺人鬼にもなろう」

 冷めていく、感情。そうそれが、本来の自分であった。
目的のためなら、手段は選ばない。そこに、感情の入る余地はない。

 スランドゥイルの厳しい視線が、ふと外された。

「・・・・残念だ」

 低く呟いて、ソファーに向う。
そのまま服を着て出て行くものと、グロールフィンデルは覚悟していた。

 はじめから、求めてはいけないものだったのだ。

 何も、望んではならないのだ。

 彼のもつ光は、自分に向けられるべきではないのだ・・・と。

 悲しくはなかった。ただ、足元が崩れていくようだ。

 ソファーの背もたれにかかった上着を取り、
しばらくそれを見つめていたスランドゥイルは、突然それをグロールフィンデルに投げた。

「皺になる。掛けておけ」

 上着を受け取ったグロールフィンデルが、息を止めて目を開く。

 そんなグロールフィンデルの反応に、スランドゥイルはふと笑った。

「馬鹿か。わしが本気でお前など誘惑すると思ったか」

 指が震えるのを、グロールフィンデルは感じていた。全身が震えて、唇を結ぶ。

「・・・・私を、からかったのか」

「半分は、本音だ。そんな単純な誘惑が通用するなら、わしも苦労はせん」

 冗談が過ぎる。怒りと悲しみのわだかまりが、胸の奥に小さなしみを作る。
同時に、そんな感情を持つ自分に驚きもする。
グロールフィンデルは、スランドゥイルの上着をハンガーに掛けた。

「もし、私がお前の申し出を受けていたら?」

「そうだな・・・・」

 スランドゥイルは、どこか悲しげに顔をゆがめた。

「その方が、気が楽だった」

「何故だ?」

「お互いの利益だけを追求する肉体関係なら、後腐れもない」

 スランドゥイルの、感情が読めない。いったい、何を言いたいのか。
何を考えているのか。

 聞き覚えのある電子音が、突然鳴り響いた。二人は同時にスランドゥイルの上着を見た。
彼の携帯電話が鳴っている。

「取れ」

 命令されるままに内ポケットから小さなモバイルと取り出し、スランドゥイルに投げる。
器用に受け取ったスランドゥイルは、それの通話ボタンを押した。

『社長、今どこですか?』

 静かな空間に、電話の相手の声が響く。

「お前には関係ない」

 ぞんざいに答える。

『・・・父さん?』

「今夜は帰らない。邪魔をするな。明朝まで電話などしてくるな」

『でも・・・』

「問題はない。お前はエルロンドのところに帰れ」

 携帯電話の電源を切り、スランドゥイルはそれをグロールフィンデルに投げ返した。

「・・・レゴラスなのだろう? いいのか」

「わしは誰にも監視される覚えはない。あいつは、エルロンドに甘えていればよいのだ」

 その突き放し方が、彼の愛情なのだ。

 グロールフィンデルは、携帯電話を元の場所に戻した。

「こっちに来い」

 いつもの軽い調子で手招く。そんな態度に、グロールフィンデルは逆らえない。

「本当に、今夜わしとする気はないのか?」

 大胆な申し出に、顔をゆがめる。

「・・・・・したい、のか?」

「今夜、一緒に寝てくれるはずだった女の当てが外れてな。会議が長引いたのが原因だが。
新しくナンパするよりは、手軽でいい」

 本当に、何を考えているのか。

 女の代わりなど・・・・勤まるはずもないのに。

「何を・・・考えている?」

 いつのも冗談を言う口調とは裏腹に、その瞳は真剣みを帯びている。

「お前と、セックスをしたいと言っておるのだ」

 心臓が脈打ち、表情が強張る。

「安心しろ、裏取引のつもりはない」

 ただ、セックスをしたいだけだと?

「何を、考えている?」

「たまには、欲情に耽りたい時もある」

 本当に、それだけか。

「したくないならいい。女の当てでも探すから」

 そんなことを言われて、はいそうですかと引き下がれるほど、
彼に対しての感情は薄くはない。

 グロールフィンデルはスランドゥイルの腕を引っ張って、引きずるようにベッドに向った。
そして、そのまま押し倒す。

 剥がされた理性のまま、シャツを剥ぎ取り、胸を舐める。
自分は誰に仕えているのか、誰のために生きているのか。
そんなことを今は考えたくなかった。

 

 

 

「憎しみの矛先が、お前に向けられるのは、お前のせいではない。
だが、それを否定することはできない」

 貪るように愛撫する男の髪を、撫でながらスランドゥイルは言った。

「はじめてお前に銃口を向けられた時、
わしは本当に殺されてもいいと思っていたのかもしれない」

 あの、若かった日。全てを失った、あの時。

「だが、お前はわしを殺さなかった。わしは、お前に生かされた。
あれで、きっと過去の執着が吹っ切れたのだろう。・・・今になって、そう思う」

 唇の、指先の感触を、全身に感じる。

「結局」

 スランドゥイルはグロールフィンデルの顔を両手で包んで、自分に引き寄せた。

「わしは、お前に救われたのだ」

 グロールフィンデルが、じっとスランドゥイルの瞳を覗き込む。

「・・・・お前は、キスが下手だな」

 ふと笑って、スランドゥイルはグロールフィンデルに口づけた。

 こんなに官能的なキスがあるのか、と、そう思えるくらいの濃厚な口づけ。
グロールフィンデルは目を閉じ、その甘い唾液を飲み込む。

 密着した素肌が、熱い。

 いつまでもいつまでも、舌を絡めあう。

 次第に息が荒くなり、グロールフィンデルはその唇を離した。

「わしは、お前を愛してなどいない。それでも、いいのか」

 それでも、かまわない。

 もし最終的に決断を迫られたら、自分はエルロンドを守ることを選ぶだろう。
たとえ、この男を殺しても。

 スランドゥイルの体内に身を埋め、欲望のままに揺り動かす。抗えない快楽の欲求。

 自分のものになるなど、望んではいけない。

 ただ一時の安らぎに過ぎない。

 その一時に、この一生をかけてもかまわない。

 満たされる。それは、彼だけが与えてくれる。

 グロールフィンデルは、欲望の果てを知る。それは、満たされた時叶えられるのだ。

 性欲の処理に誰を犯しても、決して知る事のなかった、満足感。

 彼が達し、自分もその後を追う。

 これほど満たされることはない。その瞬間、灰色の世界に光が満ちるのだ。

 

 ぼんやりと、スランドゥイルはうつろな瞳で天井を見上げている。
隣に横たわったまま、グロールフィンデルは彼を見つめる。

 彼にとって、自分との関係は、苦痛でしかないのか。同じように満たされはしないのか。

 

 何を、望んでいるのか。

 

 それが別れなら、それを受け止めてやってもいい。
それほど、自分はこの男を愛してしまっている。

 ゆっくりとスランドゥイルは身を起こし、膝を引き寄せて抱えた。

「・・・・・わしに、執着するな。愛などという言葉を、口にするな」

 それは、消えてなくなりそうな囁き。

「わしの前から、消えて無くなれ・・・・」

 膝を抱える指に、力が入る。スランドゥイルのはだけた肩が、小刻みに震える。

「わしは・・・・・・」

 

 もう、何も、誰も、失いたくはないのだ

 

 彼の恐れ。

 彼が唯一、怯えるもの。

 そう、だから、レゴラスは自分を強く鍛える。

 それが唯一、彼を愛しているのだという表現。

 

「私は、死なない」

 グロールフィンデルはそう言って、スランドゥイルを抱き寄せた。

「私は、死なない」

 それだけを繰り返す。

 

 それが、愛しているという証拠。

 

 僅かに顔を上げたスランドゥイルが、グロールフィンデルを見上げる。

「誓え」

 なんて・・・・こんなにも・・・・。

「誓う。私は、絶対にお前より先には死なない」

 お前の目の前で、愛していると言い残して死んでいった者たち。
その悲しみはぬぐえないとしても、私はお前の前から同じ事を言って消えたりはしない。

「私には、それしか誓えることがない」

 たとえ、違う主に仕えていても。

 スランドゥイルは、そっとグロールフィンデルの胸に手を当て、押し戻した。
そして、軽く頭を振って立ち上がる。

「帰る」

 過ぎ棄てた服に袖を通す。

「今夜中にあいつをエルロンドのところに送ってやらんとな。
今ごろ一人で膝を抱えているだろうから」

 レゴラスは父親を放っておけない。スランドゥイルはそれをよくわかっている。
だから、息子を自由にするために、その恋人に手渡すのだ。
エルロンドなら、うまくレゴラスを慰めるだろう。

「・・・・シャワーを浴びていけ。レゴラスは鼻が利く。私の匂いを感じ取るだろう」

 シャツのボタンを留めながら、スランドィルはニヤリと笑った。

「今更遅い」

 きちんとシャツを着込み、髪を後に撫で付ける。

「・・・・・・・」

 どう反応してよいかわからないでいるグロールフィンデルを、
スランドゥイルは笑い飛ばす。

「知って・・・・?」

「さあな。だが、丹念に証拠隠滅を図ることでもあるまい」

 それは、認めるということか。

「息子はともかくとして、会社のほかの連中に探られたくはない。
わしの家に出入りしている職人は、そういうことに関係ない連中だ。
公にしない限り大丈夫だ。だが、社の重役どもにお前の顔は見られたくない。
しばらく会社には近寄るな」

 ネクタイを締めながら言う、その表情は、決して戯れではないと物語っている。

 もともと、彼とそんなに頻繁に会っているわけでもない。
今更釘を刺されなくても・・・。

「必要な時にはわしの方から呼び出すからな。エルロンドには言うなよ。
わしは、余計な詮索は嫌いだ」

 エルロンドは、そのような男ではない。

 だがあえて、エルロンドに加担する言葉は口にするのをやめた。

 スランドゥイルが上着を着込み、ドアの前で止まる。

「・・・・一人寝の寂しさを紛らわしてくれる女の代わりをするのは、容易ではないぞ」

 スランドゥイルは、ニヤリと笑った。

 

 

 

 グロールフィンデルは、一人スーツを着込み、愛車に乗った。

 エルロンドは、まだ仕事をしているだろう。

 主の元に帰らなければという、義務感。

 エルロンドは、グロールフィンデルに対して負い目を感じている。
それを、解消してやらなければ。

 人気のなくなったビルの社長室に足を運ぶ。エルロンドは驚いて顔を上げる。

「用は済みました」

 いったい何があったのかとエルロンドが訝しがる。

 グロールフィンデルは、笑って見せた。

 

 エルロンドが、始めて見る笑みで。

 

「今夜はもう帰られた方がよいでしょう。レゴラスが心配しているでしょうから」

「実家の方にいるのではないか?」

「いえ」

 エルロンドの目の前で、彼の仕事を片付ける。

「レゴラスは、貴方のところに帰ってきます」

「・・・・なぜ、そう思う?」

「その方が、スランドゥイルが安心するからです」

 では・・・彼に会って来たのか・・・?

「グロールフィンデル」

 書類をまとめる彼の手に、自分の手を重ねて動きを止める。

「お前の好きに生きるがいい。私は、お前を引き止めはしない」

 エルロンドの手を取り、敬意をこめてそれに口づけし、
グロールフィンデルは目を細めた。

「私の命は、あなたのものです」

 それが、結論なのか。

「お前の光は、それを望んでいるのだな?」

「そうです」

 エルロンドは小さく笑って、帰り支度をはじめた。

 

 あの男の強さに、感謝する。

 

 そして、家で待っているだろう愛する者に思いを馳せた。