理想や理念というものは、そこにあって自分を支配するものではなく、 自ら作り出し、あるいは、自ら選んで身に付けていくものである。 そこには、選ぶ自由が存在している。 シンゴル亡き後、その一派は無様なほどばらばらになってしまった。 彼の意思を継ぎ、再び統一するべき指導者が現れなかったのだ。 というのも、ギル=ガラドを頂点とするノルドールの一派が、 後継者となるべき者を次々と抹殺してしまったためである。 ノルドールと呼ばれた彼らの人数は非常に多く、また、それぞれの指導者を抱えていた。 実際シンゴルといざこざを起したのはギル=ガラド本人ではなく、 何人かいる指導者の内の一人で、 ギル=ガラド自身はその殺戮を快く思ってはいなかったのだが、 止めるにまでは至らなかった。 辛うじて、彼らに助けを求めるものたちを保護するのが精一杯で。 その中に、有力者の一人、ケレボルンもいた。 彼は命乞いをしたのではなく、妻と共にくだらない争いから身を隠したかったのである。 ケレボルンの妻は、シンゴルのところに学びに来ていたノルドールであったから。 ケレボルンは両方から身を隠す必要があったのだ。 「シンゴル教授が最も正しくて、ノルドの奴らが冷酷無比な殺戮者、と、いうわけでもない」 生き残ったうちで、一派の信頼を集めていたオロフェアは言った。 「この抗争の発端となったのは、シンゴル教授自信のおごりだったのだから」 オロフェアは疲れていた。双方に憎しみが渦巻いていた。 「命を奪う理想など、あってはならない。そう思うだろう、スランドゥイル」 年若い息子は、己の属する一派を守るために、手を血に染めていた。 そのことに、父はまた心を痛めていた。 「私は、私に追随するものと共に、街を出ようと思う。郊外で静かに暮したい。 そして、もう一度考え直そう。理想のために生きるのか、生きるために理想を持つのか」 スランドゥイルは、持っていた銃を床に置いた。 彼は、父を尊敬していた。 「憎しみを捨てられるか?」 「わかりません。でも」 スランドゥイルは、静かに微笑んだ。 「努力はしましょう」 強制されて、自分はそうしているわけではない。 ノルドールの中でも、強硬派で最も過激な一派、シンゴルを殺し、 その痕跡を消し去ろうとしている一族に、彼はいた。 高く掲げた理念の元に、戦う事に喜びを感じる。 もはや理念など、理性の言訳でしかない。大義に意味などない。 ギル=ガラドになど、会ったこともない。 もし、会って、彼が理想とするところを直に聞くことがあれば、 その生き方は変っていたのかもしれない。 しかし、彼の耳に届くとき、それは埃をかぶって真実味を失わされていた。 引金を引くことにためらいはなかったし、その一瞬の緊張感を愛してもいた。 そう、 誰かに強制されてそうしているわけではなく、 自ら望んでそこにいるのだ。 スランドゥイルは、移住のための用意に追われていた。 仲間を集め、説得し、共に来なくとも、去る者たちを非難しないように説いて回った。 銃を、携帯することはやめていた。 腕には自信があったし、たぶん、攻撃されたらためらわずに反撃するだろう。 それをしないために、武器を持つ事をやめたのだ。 自分にとって、理想はシンゴルの掲げたものではなく、 父がこれから探し出そうとしているものだった。 家族を連れて移住を考えるものも少なくなかった。 スランドゥイルは彼らと話をつけて建物の外に出たとき、一発の銃声が響いた。 とっさに連れを道路に突飛ばし、本能で撃って来た方向を探す。 「陰に隠れて、動かないように」 そういい残して、走りだす。 戦うことを放棄した今でも、逃げるという選択肢は、ない。 一瞬、銃を置いてきたことを後悔する。 (生きることを楽しみたい。そんな単純な理想があっても良いのではないかな。 愛する者と共に) 父の言葉に息を飲む。 (私はな、誰もが笑いあっていた、あの時代に戻りたいのだよ) 路地を回り、古いアパートの階段を駆け上がる。 人気のない最上階で、積った埃の上にひとつの足跡を見つける。 それは、一直線で帰りの足跡はない。 足跡の先のドアに、そっと近付き、その中を覗き込んだとき、 「・・・・・・!」 ぴたり、と銃口が側頭部に押し当てられた。 「貴様はリストに載っていない。こんな所まで来なければ、長生きできたものを」 小さく深呼吸して、その男を見る。彼は、まだ若かった。 たぶん、自分より。学派の主要メンバーではないだろう。 なぜなら、メインを占めていたのは、教授らの大学に所属する学識者と学生だったのだから。 「・・・・マエズロスの手の者か。奴は、殺戮を後悔していると聞いたが」 「さあな。私の耳には届いていない」 スランドゥイルは、くるりと向きを変えた。銃口が、眉間に当る。 「理想のために、人を殺すか。それを楽しんでいるのか」 たぶん、噂は本当だろう。最初にシンゴル殺害を指示したマエズロスは、 思いのほか大きくなってしなった抗争から、己を悔いていると聞いた。 それでも、暴走した末端の者たちを止めることはできなかった。 「目的のためには、手段は選ばない」 「その目的とは何だ? 邪魔者を排除することか。銃口では、何も変らない。 何を変える事もできない」 銃口を向ける少年に、スランドゥイルは青い目をまっすぐに向ける。 「やってみなければ、わからない」 「なら、やってみるがいい。私は無防備だ」 こんなにまっすぐに、目を向けられたことがあっただろうか。 この男の信念とは、何なのか。 「命乞いをしろ。助けてやる」 スランドゥイルはほくそえんだ。 「信念のために無駄に命を落すことは、無意味だ」 「私は、無駄に命を落したりしない。私の信念は、与えられたものではなく、 自ら選んだものだ」 少年は、ぐらりと目眩を感じた。 そこまでまっすぐに見つめる未来など、どこにあるのだろう? 「では聞こう。貴様の信念とは、何だ」 「武器を捨てること」 スランドゥイルが、一歩進み出る。少年は、それにあわせて一歩後ずさった。 「誰かの掲げた理念のために、手を血に染めたりはしない。私は、仲間と街を出る。 もう一度、不安も苦しみもないシンプルな暮しがしたい」 さらに、もう一歩。 「お前は、そうやって愛することも笑うことも、棄て去るのか」 スランドゥイルの言葉に、銃を握る手に力がこもる。 振り上げた銃尻で、少年はその男の頭を殴りつけた。 よろめいたスランドゥイルが膝をつく。その頭に照準を合わせる。 自分は、自ら選んでここにいる。 だがしかし・・・・・ 他に生き方など、あっただろうか? 引金を引く。それは、耳をかすめて床に着弾した。 顔を上げたスランドゥイルは、額から血を流しながらも、まっすぐに少年を見つめている。 「今は、誰もがお前を必要としているだろう。 でもそれは、愛しているからではない。 お前が誰かを愛そうとしない限り、誰もお前を愛してはくれない」 愛、だと? こんな時に? 「・・・・貴様は・・・・その愛とやらを受けているというのか」 「少なくとも、父は私を愛してくれているし、私も家族を愛している。 だから、武器を捨てる勇気がもてる。全てを失っても、生きてゆける。 私たちは街を出る。もう、干渉しないでもらいたい」 ふざけた戯言を! 少年は、銃を持ったままの手でスランドゥイルを殴りつけた。 低くうめいて、彼は床に倒れる。その上から、馬乗りになって、また銃口を突きつける。 「私が、怖くはないのか」 「怯えているのは、お前の方だ」 どくん、と心臓が高鳴る。 怯えている・・・怯えているだと? この私が? 「結局、何が欲しいのだ? 地位か、名声か? そんなものに、どれだけの価値がある? どうすれば自分が満足できるのか、わかっていないだけだ。 お前は、ハンターではない。血が欲しいだけなら、冷静ではいられないはずだ。 お前は私を殺せない」 「なぜ・・・そう言い切れる」 「それは、上からの命令ではないし、私はお前を憎んではいないからだ」 本当は、別の生き方を求めているのではないのか。 少年は、銃を持っていない方の手で、隠し持っていたナイフを引き抜いた。 それを、スランドゥイルの喉元に押し当てる。 「私は、貴様を殺せる」 切先から、鮮血が滴る。 ほんの数センチ、動かすだけでいい。 スランドィルはだらりと両手を下げたまま、抵抗の意思を示さない。 さあ、殺してみるがいい・・・・と。 少年は、震える指でナイフを手前に持ち上げ、床に転がした。 腕の下の男の胸が、上下する。 血の滴る喉元に唇を這わせ、真赤な液体を吸い取ると、それは鈍い鉄の味がした。 ハイエナが、餌に貪りつくようにその体に噛付く。 銃もナイフも使えないのなら、いっそこのまま食い殺してしまおうか。 飢えた獣に貪り食われながら、スランドゥイルはそっと手を上げて、少年の髪を撫でた。 「・・・・かわいそうにな」 単なる同情の言葉なのか。少年は顔を上げることもせず、そのまま男を食らい尽した。 「全てを捨てることができるなら、連れて行ってやる」 耳元で囁かれたその言葉に、はっと我に返る。 少年は自分のしていたことに気付き、蒼白になりながら身を起した。 銃は、まだ右手が握っている。 「自分で決めろ。私たちを見逃すか、共に来るか、それとも、 当初の思惑通り私をここで殺すか」 立ち上がった少年は、ふらりと後ずさった。唇にこびりついた血を、袖でぬぐう。 「生き方は、自分で決めるものだ」 浅く荒い息が、耳に届く。 「暴力ではない、セックスをすることもできる」 差しのべられた片手に、まるで死刑の宣告を受けたように頭の中が真白になる。 ちがう。 自分は、選んでここにいるのだ。 「見逃してやる。去れ」 苦しい呻き声に、スランドゥイルは小さく弾息をつき、立ち上がった。 服の埃をはらい、乱れたシャツを整える。 そして、それ以上何も言わずに出て行った。 通りの向うで、標的であった男が、スランドゥイルに駆寄り、 心配気にしきりに話しかけていた。少年は窓からそっと様子をうかがいながら、 その唇の動きを読む。 (やられたのか?! やっぱり、奴だったのか?!) (大丈夫だ、たいしたことはない) (奴は・・・・・) (逃げられたよ) (スランドゥイル、やはり武器を持つことは必要だ) (オロフェアに、武器は置くと約束したのだ) スランドゥイルの瞳が、見えないはずの少年の位置をしっかりと捉える。 (連れて行ってやりたかったな) (なにを・・・?) (あいつ、寂しい目をしてた) 「・・・・・・・・」 窓枠から、ずるずると床に崩れ落ちる。 涙なんてものが、出ることはなかったが、嗚咽を漏らして彼は泣いた。 あれからどれくらいの月日が経ったのだろう。 麻薬戦争と呼ばれたマフィアとの抗争で、 彼はギル=ガラドの側近といえるエルロンドのそばで働いた。 ギル=ガラドが死去し、エルロンドが後継に任命される。 ギル=ガラドの愛人と噂されていたが、彼が選ばれたのはそんな理由からではない。 「グロールフィンデル、私のために働いてくれないか」 エルロンドはそう告げた。 「あなたの助手なら、エルストールの方が適任でしょう」 「もちろん、彼にも働いてもらう。会社のためにな。お前は違う。 会社ではなく、私に仕えてもらいたいのだ」 何のことかと眉根を寄せる。 「お前のその、類まれな記憶力と判断力、迅速な行動力が私には必要だ。 ただし、二度と銃を持つことは許さない。これからは、私の指示に従って欲しい」 横暴とも取れる命令。 成長した少年は、口元に笑みがこぼれるのを感じた。 違う生き方。 「仰せのとおりに」 それでも、誰かを愛することなど、ないだろう。