「それでも」

 スランドゥイルは言った。

「わしはまだ失うことを恐れている」

 

 この男と再会をし、グロールフィンデルは押し殺してきた感情を蘇らせた。

 そして、彼が受入れてくれることに甘えて、それを押しつけてきたのだと思う。

「わしはわしの父を尊敬していたし、オロフェアの意思のままに銃を置いた。
そして、この生活を作り上げてきた。それが間違っていたとは思わぬ。
これはわしの理想でもある。それでもな」

 手酌で注いだワインのグラスに、悲しげにほくそえむ。

「わしがシンゴルの下で暮した幼い日を、思い出すのだ。
あれは、今とは比べようもないほど絢爛なものであった。
洗練された音楽、絵画、彫像、芸術の全てがそこにあった。
美しい石を愛でる習癖は、あの頃の名残だ。美しいものは、お前らに打壊された。
だが、実際それを捨てたのは、自らの意思だ。もう、恨んではおらん」

 グロールフィンデルは、注がれたワインに、口をつけない。

「妻を愛していた。彼女は、よくできた女だったよ。
生活を立直すことに必死であったわしを、ずっと支えてくれた。
もっと、優しくしてやればよかった。失うまで、その存在の大きさに気がつかなかった。
わしが愚かであった。わしの受けた傷を抱え、わしに希望を残し、妻は去ってしまった。
永遠に、この世から。わしは、自分の全てであると信じたものを、三度失った。
あの、優雅だった生活。信じていた父。そして、愛していた妻」

 開け放した窓から、夜風が流れ込んでくる。

「そしてわしは、恐れている。再び何かを失うことを」

 グロールフィンデルは、ただじっとその男を見つめる。

「息子は、レゴラスは気付いている。わしが何を恐れているのかを。
そして、息子自身がその対象であると。だから、出て行ったのだ。
近すぎる位置は、互いのためにならぬ。
息子にとっても、自分の全てが父親に占められることは、
互いの破滅を招くと悟っているのだ。
あれが愛すべき対象を見つけたことは、喜ばしいことだ」

「エルロンドとの関係を、認めると?」

「奴は息子を守ってくれる。安心して預けられる」

 最愛の子供を手放す父親とは、そんなものなのか。

「息子は、自分と言う足枷を、わしから外したがっているのだよ。それでも」

 スランドゥイルは、蒼い瞳を、目の前の男に向けた。

「わしはまだ、失うことを恐れている。
お前が何を求めているのかは、わかっているつもりだ。
だが、わしは今以上にお前を受入れることはできぬ。・・・わしは、臆病なのだ」

 なら、なぜ最初に拒絶をしなかった?

 それは、あまりに残酷ではないか。

 否、スランドゥイルはきっと、気付いていなかったのだ。
グロールフィンデルにとって、自分がどれだけ大きな存在であったのかを。

 ただ一度、昔の名残のように体を許せば、
満足させてやれるのだと、思っていたのだろう。

 だから逆に、グロールフィンデルの告白は、彼にとって残酷な宣告になるのだ。

 それを悟ってもなお、グロールフィンデルは言葉の刃を突きつけずにはいられなかった。

 もともと、自分は残虐な性格なのだ。

 求めるものが得られないのであれば、そのものを壊してしまった方がいい。

「あの時・・・・お前は、全てを捨てることができれば、連れて行ってやると言った」

 自分自身の理性さえ。

 グロールフィンデルは、否定の言葉を待った。

 自分が向けたのは、諸刃の剣。

 グロールフィンデルの言葉に、スランドゥイルは目を細めた。
そして笑んだ口元は、慈愛に満ちていた。

「あの時のお前には、守るべき価値のあるものはなかった。
だが今は違う。お前は捨ててはならぬものがたくさんある。
守るべき価値のあるものが。愛すべき生活が」

 向けた刃が、ぼろぼろと崩れ去る。

 そう、今の自分には・・・・・。

「・・・・・昔も今も、私は自分のいる世界を好んでいる。それに変りはない」

 それと同時に、自分を取り撒く世界を構成するものを、今は慈しんでいる。

「今は・・・・そうだ。棄て去ることができぬほど、私の周囲にあるものを愛でている。
世界そのものではなく、それを作り出している一つ一つを・・・・」

「だからお前は、自分の生活を変えるべきではない。
お前は、今のお前は、真に必要とされているのだから」

 結局は、何もかもを満たすことなど不可能なのだ。

 何かを取れば、何かを失う。

 グロールフィンデルは立ち上がった。諦めるなら、早い方がいい。

「帰るのか?」

「スランドゥイル、それでも私はお前を愛している。
自分の傲慢な感情で誰かを傷つけるほど、私は若くはない」

 少し驚いたようにスランドゥイルはその男を見つめ、そしておかしそうに笑った。

「本当に、真直ぐな考え方しかできぬのだな。疲れないか?」

 からかうような口調に、表情が緩む。

「白か黒しか判断ができぬから、そんな堅物になってしまうのだ。
妥協することを覚えろ。しいて言うなら、朝飯くらい作ってから帰れ」

 困惑した表情になるグロールフィンデルに、スランドゥイルはほくそえんだ。

 

 愛とは、何であるのか。

 過去の偉大なる詩人や作家は、言葉の限りを尽してそれを表現しようとした。

 だが、愛なるものを的確に言葉にすることは、不可能だ。
なぜならそれは、もっとも精神的な世界であり、感情そのものなのだから。

 だから、エルロンドと同じ世界で育ったグロールフィンデルにそれを理解すること、
あるいは表現することは不可能に近かった。
エルロンドでさえ、それを言葉であらわすことはできないであろう。
エルロンドにとって、今そばにいる少年の存在そのものが、愛の具現化なのだがら。

 では、どうしたら思いを伝えることができるだろう。

 スランドゥイルの前で、難しい言葉の羅列は無意味だ。
彼は、表面を取繕った言葉の世界など、無関心である。
美しい宝石を、理論的に説明することなどしない。
美しいものを、ただ美しいと言うだけ。

 

 グロールフィンデルは、スランドゥイルの前に跪いた。

 エルロンドは言う。自分に残された膨大な財産も、絶対的な地位も、
愛するもののためになら捨ててもかまわない、と。しかし、それはしない。
なぜなら、レゴラスはそれを望まないからだ。
少年は、エルロンドのことを愛しているから、その生活を守りたいのだと。
だから、エルロンドも今の生活を守る。

 レゴラスは言う。強くなりたい、と。
自分のことで、最愛の父を苦しめたくないから。誰よりも強くなりたい。
自分の存在に、父が安心できるように。

 愛とは、自分のためにあるのではなく、その対象のためにあるのだ。

 

 セックスとは何であるのか。

 愛するがゆえに、体を求める。肉体の結合を欲する。

 しかし、愛などなくとも、セックスはできる。
グロールフィンデルは、今までそんな肉体の結合した経験したことがない。
それは、あくまでも生理現象の解消に過ぎない。
男でも、女でも、欲しい時に欲しい者を抱いた。が、そこに愛情はなかった。
他人の体を使った自慰行為に過ぎない。自分が満足できれば、相手の満足など関係ない。
相手も、わかっていてやっているのだ。それで諍いを起したことはなかった。
肉体の性的欲求を満足させれば、それでよかったのだから。

 

 スランドゥイルの膝に手を置き、彼の性的部分を求めて唇を寄せる。

「・・・・何を・・・・」

 そんな求め方ははじめてであったので、
スランドゥイルは当惑してグロールフィンデルの髪を後に引っぱった。
その手を、優しく振り解く。

「お前が、欲しい」

「だったら、こんなところじゃなく・・・ベッドで・・・・」

 言いかけて、言葉を詰らせる。
グロールフィンデルは優雅な手つきで彼自身を探り出し、口膣に含んだ。

「やめ・・・・」

「迷惑か」

 見上げると、その男は僅かに頬を紅潮させた。

「すまない。初めてなので、うまくできないかもしれない」

 最初に謝って、またはじめる。
スランドゥイルは明かに動揺しているようだが、それ以上阻止しようとはしなかった。

 相手を満足させることで、自分が満足する。それが愛情なのだろう。そう思う。
やがて、愛している男の口から、僅かな吐息が漏れ出す。それは全身を刺激した。

「・・・・もう・・・いいから・・・・やめろ」

 初めて聞く、うわずった声。

「こんなことをしなくても・・・・・いつものように・・・・」

「ただ、お前の体を貫けと? それを、望むのか」

「別に・・・望みはしないが・・・・・」

「なら、させて欲しい。私は、まだ一度もお前を満足させたことがない」

 口でするという行為は、考えていたよりずっと自分を興奮させる。
相手の肉体の変化を舌先で感じる。
暴力的に組敷くより、ずっと相手を支配している気分にさせられる。

 早く達して欲しいと願いながら、いつまでも味わっていたいと切望する。

 愛のあるセックスに慣れ親しんだその体は、うしろを攻めるより官能を示す。
きっとこの男は、遊びのセックスでさえ、ベッドの中の女を愛したのだろう。
早急な欲求の解消ではなく、愛撫を、肉体の触れ合いを楽しむのだろう。

 せめて、そんな女たちと同等には、自分は愛されるであろうか。
お互いに満足のいくセックスができるであろうか。

 歯を立てないように慎重に、唇と舌で扱いていく。
彼の荒くなっていく息を、耳に感じる。

「・・・・・だ・・・・だめだ」

 悲鳴にも似た声で、グロールフィンデルの頭を押し戻そうとする。
が、実際、力では自分の方が勝っていた。その手を無理矢理引き剥がして、続ける。

 と、スランドゥイルは最も官能的な声を、押し殺せずに吐いた。

 口の中に、苦味がひろがる。

 はじめて味わう、媚薬。魅惑的な体液。

 ねっとりとしたその体液を、ゆっくりと飲干す。

 その男を見上げると、彼は透明な表情でソファーにもたれかかっていた。

 

 言葉では言い表せない、満足感。

 

 何度か荒く深呼吸して、スランドゥイルはばっと体を起した。

「どこでそんなことを覚えた!」

「私とて、少しは学習する。どうしても、お前をイかせたかった」

 困惑したままの表情で、スランドゥイルは頭を横に振った。

「間違っていたか? 不快、だったか?」

 不安げな瞳をみせるグロールフィンデルに、スランドゥイルはまた溜息をついた。

「・・・・ふざけたことを・・・・言わせるな。わしとて、羞恥というものはある」

 顔を赤らめる男に、口元がほころぶ。

 これが、セックスの喜びと言うものか。

「思いつきや道楽でかまはない。触れることを許して欲しい」

「気が向いたらな」

 相変わらずの悪態に、肩を震わせて笑う。
緊張のない喜びの表情に、スランドゥイルは口元を吊り上げて見せた。

 

 

 

 朝。

 目覚めたスランドゥイルは乱れた服のままキッチンに降りてきた。

 そこには、理想的な朝食が用意されていた。

 ちゃんと着替えもせずに、生あくびをしながら食卓に着く男を見て、
グロールフィンデルは小さく笑った。レゴラスと似ている。
二人の生活は、どんなものだったのだろう? 不器用でがさつな男所帯。
彼の妻だった女は、そんな自然な態度に愛情を感じたのだろう。

「早いな」

 すでに身支度を整えている男に、スランドゥイルは言う。

「一度マンションに戻って、支度を整えてから社長を迎えに行く」

「忙しいことだ」

「後片付けは・・・・」

「10時にはメイドが来る」

 まだ時間はあるが、きっとこの男は自分で朝食の後始末などしないであろう。

「朝からこんな立派な食事は、久しいな」

「こんなものでよければ、いつでも作ってやる」

 スランドゥイルはニッと笑った。美味しい食事を前にみせる、レゴラスの笑顔と一緒だ。

「ああ、また、作りに来い」

 

 グロールフィンデルは、スランドゥイルの家を出た。

 お互いの生活のため、常に共にいることは不可能だが、たまには悪くない。

 グロールフィンデルは、そこに妥協点を見つけた気がした。