帝王学というものを、ヒトがヒトの上に立つ上で必要不可欠な人間学、ととらえるならば、 そこはそれを学ぶのに最適な場所であった。 なぜなら、ギル=ガラドは地位も権力も財力もあり、 一大派閥を率いる指導者だったからである。 幼くして両親を失ったエルロンドは、彼の元に引き取られた。 エルロンドの双子の兄弟は、それを拒絶した。 エルロスは、人間らしい生き方を望んだのだ。 かくしてエルロンドは、結婚もしていないギル=ガラドの養子として、 彼の跡を継ぐべく、そこで徹底的に帝王学を学ばされた。 そしていつしか、本に囲まれ、あらゆる知識をその身の糧とする勉学が、 彼自身のものとなっていった。 何の疑いもなく。 静かに過すこと、感情をむやみと表さないこと、優雅な身のこなし、 それらが、何の苦もなく自然に身に付く。 エルロンドは、ギル=ガラドの選んだ後継者だった。 「まことしやかに噂が囁かれていたが、そのほとんどは真実だった」 エルロンドは、後に自分の分身たる秘書に、そう告白した。 「知識と言う高潔な繋がり以上の関係が、私とギル=ガラドの間にはあった。 たぶん、彼の失われた人間性の、底辺の感情の吐け口が私だったのだ」 昔を懐かしんで、ほくそえむ。 「そう、私は、毎夜彼に抱かれたのだよ。それが生活の一部だった。 私はきっと、彼を愛していたのだと思う。だが今となっては定かではない。 なぜなら、愛などという不確かな感情を、当時は否定していたからだ」 うつろいやすい愛情など、知識の壁の前では無力だ。 ギル=ガラドは「愛」の対象ではなく「絶対」なのであった。 「あの麻薬戦争で負傷したギル=ガラドは、最後に私に言った。 結婚して家庭を持ちなさい、と。違う世界を生きなさい。そして」 (私は少し疲れたようだ。眠らせてくれないか) それが、彼の最後の言葉だった。 「ギル=ガラド殿のことは、よく覚えています」 グロールフィンデルは応えて言った。 「あの戦いの前、私はあの方に言われたのです。エルロンドを守れ、と。 何があっても、彼を死なせてはならない。彼の命は、私のそれより優先する。 そうギル=ガラド殿は言ったのです」 エルロンドは、深く溜息をついた。 彼は、生れながらの「王」であった。その宿命を背負っていた。 そして、彼だからこそ、それがまっとうできた。 当時、我等には力があった。己が正しいのだと、 己が一番正しいのだという確信があった。 だからこそ、その前に立ふさがろうとするものを排除することに、 何の抵抗も感じなかった。シンゴルは、滅ぼされるべき人物であったのだ。 シンゴル亡き後、逃げるように姿を消したオロフェアたちを、敗北者と呼んだ。 同情など、ない。 しかし。 しかし、我等は本当に正しかったのか。 ギル=ガラドの生き方は、間違っていなかったのか。 「ケレボルンの娘は、以前から顔見知りであった。ガラドリエルの娘だ。 美しく、しとやかで、完璧な女性だと思った。 結婚をするなら、彼女しかない、と。 そして、ケレブリアンはその通りの完璧な女性であった。 私にとって。彼女を愛していた。そこに偽りはない。それでも・・・それでもだよ」 エルロンドの瞳が愁いを帯びる。 「彼女との結婚、それ自体にギル=ガラドの意志が絡んでいたのだと、 そう思うことをぬぐえない。 私は、最も敬愛していた師の呪縛から、逃れられないのだ」 ソファーから立ち上がったグロールフィンデルは、空調のリモコンに手をのばした。 「少し、暑いようです」と。 「気がつくと、私は私の自宅の書斎を、かの部屋に模倣していた。わかるか? 夜中に仕事をしていて、ふと目を上げると、そこに我師がいるように思えるのだ」 「わかります。私はギル=ガラド殿の書斎は一度しか見ておりませんが・・・・ それは今のエルロンド卿の部屋、そのものです。 しかし、それが育った環境なら、そこにいることを望むのは、本能ではないでしょうか」 「私はそれが、恐ろしく思えることがあるのだよ」 ほくそえんで、グラスに注がれたミネラルウォーターを飲む。 「今の私が、ギル=ガラドの意志そのものであるなら、 本来あるべき人の姿に、別の生き方に憧れていたのではあるまいか。 それは、神が人間を創りたもうた、最初の姿に。 知恵の実を食べる前の、純朴な生き方に」 グロールフィンデルは、我主をじっと見据えた。 「そう、志を捨てたオロフェアの生き方こそ、正しかったのではないかと思えてしまう」 エルロンドは、水の入ったグラスの向うに、何を見つめているのか。 「私たちはな、グロールフィンデル、もっと自由になるべきなのではないだろうか」 「私は今が不自由だとは思っていません」 「それに気付かないだけだ」 グロールフィンデルが眉根を寄せる。 エルロンドの言う、自由とは何であるのか。 窓の外に広がるネオンの海に目をやり、その地上の星たちをぼんやりと眺める。 都会的なマンション。ハイテクノロジーの空間。 「・・・・・」 ふ、とグロールフィンデルは、その中に緑のものを見た気がした。 「昔・・・・・」 ぽつりと呟く。 「何かの切抜きか絵葉書か、とにかく、捨てられない写真がありました。 たぶんあれは・・・子供の頃」 グロールフィンデルが、自ら自分のことを語るのは珍しい。 「緑色の写真でした。 ぼやけた木々に囲まれて、白い猫が背を向け、顔だけをこちらに向けているのです。 猫の愛らしい媚びた顔つきではなく、気高くこちらを・・・ 真青な目をこちらに向けている。その目の青さは、森の中の湖か何かのように。 たぶん私は、あの青い目の中に、解放を感じていたのだと思います」 そうか そういうことか わきあがってくるものを、グロールフィンデルは隠すことを忘れた。 エルロンドの視線を感じ、そちらに目を向ける。 「私は、スランドゥイルの眼の中に、あの解放感を感じた」 そして、それを欲したのだ。 エルロンドは目を閉じ、口元で笑んで目を開けた。 「私たちは、もう過去の呪縛から解放されてもいいのではないかと思う。 私が選んだ愛すべき対象は、背徳的な存在だ。 私の地位で、私の立場で、選んではならぬ相手。 だが、私は彼を愛しているのだと思う。ギル=ガラドの残した遺産を、 全て手放してもいいと思っている。それこそが、私の自由だとね」 エルロンドが自ら選んだ相手は・・・・自由を求めたかの人物の孫である。 「私たちは、同じものに惹かれるのだよ、グロールフィンデル。 同じ道を歩んできたのだから」 どうあがこうと。 結局は、あの写真の猫の蒼い瞳の向うを。 「あなたは、今が幸福であると・・・?」 「そうだ。そして私は、いつかお前のことも解放してやりたいと願っている。 お前をこの世界に繋ぎ止めたのが私である以上」 「・・・いいえ、エルロンド卿。私は自ら望んでここにいるのです。 卿には感謝しております」 エルロンドの導きがなければ、自分は路頭に迷っていただろうから。 「グロールフィンデル」 エルロンドは、優しさのこもった瞳で、その男を見た。 いつかきっと、彼も気付くであろう。解放の喜びを。 そして、その意味を知るであろう。