「お母様、蝶が」 ひらり、と、蝶が風に舞う。 「あら本当。海の上に蝶が飛ぶなんて、珍しいわね」 「捕まえて、お母様」 「無理よ、エルロンド」 記憶の中のその女性は、少し悲しげに微笑んだ。 小さな港町。 母親と幼い双子の息子たちは、ひっそりと暮らしていた。 まるで何かから隠れるような生活を、息子たちは疑問に思うことはなかった。 「お母様は、鳥になりたいんだ」 エルロスは言った。 「どうして?」 「だって、鳥になれば海を渡ってお父様のところに行けるもの」 二人の父は、海に出たきり、もうずっと戻ってこない。 エアレンディルの船は船大工キアダンの作ったもので、嵐にも耐えられるものだった。 なのに、父は戻ってこない。 エルウィングは、港で毎日夫の帰りを待ちわびていた。 もう、帰ってこないことを感じながら。 「あ、ほら、蝶が港に戻ってきたよ」 幼子が指差す先、エルウィングは息を飲んだ。 そこには、幾人もの港の男でない男たちが、こちらに向っていた。 もともと白い母の顔が、蒼白になる。 「エルロンド、エルロス、お家に帰りなさい。さあ、部屋に戻っているのよ。 お母様が迎えに行くまで、出てはだめよ」 不思議がる子供たちの背を押す。子供らは従順であった。 何度も何度も振り返りながら、家に入って行った。 「エルウィング」 男の一人が、声をかける。エルウィングは息を飲み、唇を結んだ。 「キアダンに、何度も書状を出したのだ。一度も返事をもらえなかったが。 ・・・・アレを、返してもらいに来た」 何のことか、すぐにわかる。エルウィングは、首から下げた飾りを握り締めた。 「・・・・マエズロス・・・でしたわね? ギル=ガラドがあなたたちをよこしたのかしら?」 「我主君は知らぬところ」 一歩、エルウィングが後退る。マエズロスに、彼に似た男が何か耳打ちをする。 二人は心苦しげに囁きあい、エルウィングに片手を出した。 「我らは、我らの所業を悔いている。もう、無駄な血は流したくない」 「でも、これを欲しているのでしょう?」 手が真っ白になるほど、飾りを握り締める。 「エルウィング、頼む、返してくれ」 果して、諸悪の根源は何であったのか。 今ではもう、何もわからない。 「これで終りにしたいのだ」 終り・・・・終りに・・・・。 鳥になりたいわ。鳥になって、海原を旅する貴方の帆先をいつも照らしていたい。 「ええ、そうね。もう、終りにしましょう。憎しみも、悲しみも」 エルロンドとエルロスは、二階にある自分たちの部屋から海を眺めていた。 岸壁に、母と、あの知らない男たちがいる。 「何を話しているのかな?」 エルロスは窓枠にかじりつくように外を見ている。 その隣で、やはりエルロンドも窓にしがみついていた。 ・・・・・・・終りにしましょう・・・・・・ 突然、窓の外を海鳥たちが掠めていった。 白い鳥たちが飛び去ると、視界から母の姿も消えていた。 「・・・・お母様・・・鳥になっちゃった」 エルロスの呟きに、エルロンドは必死になって港に母の姿を探す。 あの男たちは、右往左往しながら、何かを叫んでいた。 一人が海に飛び込み、しばらくして一人で上がってきた。 びしょぬれの男が、エルロンドたちのいる窓を見上げる。 海の水か、涙か、わからない水滴が男の頬を濡らしていた。 「お母様、鳥になっちゃった」 エルロスは繰り返し、ぺたりと座り込んだ。 鳥になって、お父様のところに行ったんだ。 エルロンドがエルロスの肩を抱く。 「うん・・・・お母様、鳥になれたんだね」 それはきっと、彼女がずっと望んでいたこと。 ばたばたという足音と共に、激しくドアが開かれる。息を切らしたずぶぬれの男。 エルロンドとエルロスは、その男を見つめた。 なんて、悲しそうな顔をしているのだろう? 男は唇を震わせ、双子を抱き寄せた。 「・・・・・エルウィングは・・・・・君たちのお母さんは・・・・・」 「鳥に、なったんでしょう?」 エルロスがそう言って、首を傾げる。 「お父様のところに、飛んでいってしまったんでしょう?」 エルロンドが言葉を続ける。 男は表情をくしゃくしゃに歪めた。 男は、否定することができなかった。 子供たちの母親が、海に身を投げたなど。 「・・・・・私はマグロール。私と一緒に行こう」 その男は、もう一度子供たちを抱きしめた。 マグロールと名乗る男に手を引かれ、エルロンドとエルロスは、 育った港の小さな家を出た。 「あ、蝶」 エルロンドは、港に舞う蝶を指差した。 「おじさん、蝶、採って」 マグロールは肯き、蝶を追うが、その指先をひらりひらりと蝶はかわしていった。 「すまない・・・捕まえられなくて・・・・」 困惑した表情の男を見つめ、少年は乾いた唇を開いた。 「嘘だよ。いらないよ、蝶なんて」 何かが頬を濡らす。 少年は、自分が泣いていることにも気付かなかった。 「いらないよ。何の役にもたたないもの」 何もいらないよ。 だってみんな、どこかに行ってしまうもの。 エルロンドは、一人書斎で静かに本を読んでいた。 心安らぐ、愛すべき時間。 開け放した窓から、風に舞うように蝶が迷い込んできた。 ふと本から顔を上げ、その行く先を見る。 エルロンドの目の前で、蝶は机の端にとまって羽を休めた。 指をのばすこともせず、エルロンドは蝶を見つめる。 やがて、静かなノックの音と共に、書斎のドアが開かれた。 「エルロンド様、コーヒーを入れたので、一休みしませんか」 金色の髪の少年が入ってくる。 レゴラスは蝶に目を止めると、そっと近付いて両手で優しく包み込んだ。 それを窓から外に放す。蝶は、また風に舞ってどこかに行ってしまった。 驚いたように見つめるエルロンドに、レゴラスが苦笑する。 「いけませんでしたか?」 「・・・・いや」 蝶を捕まえる事のできる指先。 エルロンドはレゴラスの指を握り、そっと口づけた。 愛なんて不確かなもの。 まるで、風に舞う蝶。 そんなものを、今は切実に欲しいと思う。 レゴラスをそっと抱き寄せ、エルロンドはその耳元で囁いた。 愛している。