岩でできた壁は、ひんやりとして心地よい。 稚拙な模倣だと、ガラドリエルは笑うだろう。 それでも、これが自分にできる精一杯なのだ。 自分にできることだけに、目を向けてきた。 せめて、エルフらしい生活を取戻したかった。 それは、歌い、笑い、生まれ出でたことに喜びを表現することだ。 それでもいつかは、再びサウロンと戦うことにあるであろう。 その役目を・・・・最愛の息子が買って出た。 それも、時代の流れなのか。 自分はいつまで、この作り上げた理想郷を守ることができるだろうか。 レゴラスは、自分と同じ地獄を見るのだろうか。 もっともエルフらしく育ててきた、自分の『希望』は・・・ 人間の『希望』に心惹かれている。それが、人間とエルフの結びつきの運命なのか。 強い友情は、その命さえ厭わない。過去の人間とエルフの友情が引起した悲劇は、 たいがいエルフの死によって幕を閉じる。 それでも、彼は友情を捨てることはないだろう。 自分が、そう育ててきたのだ。 もっともエルフらしくあるように。 長い廊下のくぼみに、スランドゥイルは人影を見た。 人間の方が、狡猾だ。それに、成長の度合も、欲望の強さも違う。 レゴラスは、とっくに成人しているとはいえ、スランドゥイルにしてみれば、 まだまだ世間知らずだ。 レゴラスと、鼻先をつき合わせて話をしていたアラゴルンは、 首筋に冷たいものを感じて身を引いた。 「それ以上レゴラスに顔を近づけてみろ。殺すぞ、アラゴルン」 首筋に突きつけられた刃に、アラゴルンは苦笑いをして見せた。 「密談を」 ムッとしている王に、レゴラスが首をかしげる。 「何をお怒りになっているのですか、父上?」 状況のつかめていない息子に、スランドゥイルは肩を落して短剣を収めた。 「ボロミアのことが気になって。父上もお気づきなのでしょう? どうなのでしょうか」 レゴラスの瞳は、いつもまっすぐだ。アラゴルンはスランドゥイルに場所を開けた。 「力の指輪を欲しているのは、なにもあの人間だけではないが、 ・・・あの人間は素直だ。己の欲望のために力を欲しているのではない。 それだけに、難儀だな。わしにできることはない。あの人間の心の強さを信じるだけだ」 レゴラスの表情が沈む。 「私は・・・あの人間が、好きですよ。純粋で。 それだけに、誘惑の力が強く働くのでしょうね。私に、できることがあればいいのに」 「目を離さぬことだ。あと、誘惑に惑わされる時間を与えぬ方がよいだろう。 少なくとも、剣を握っている間は、余計なことを考えないですむ」 それからスランドゥイルは、アラゴルンに視線を向けた。 「おぬしにも、話しておきたいことがある」 レゴラスが、自分は席をはずしたほうがいいかという身振りをすると、 スランドゥイルは片手でそれを否定した。 「皆の手前、ああは言ったが、ガンダルフを失った損失は大きい。 おぬしがこれから先、導き手となるわけだが、それはかなりの重荷であろう。 おぬしは、単独行動には慣れているが、導き手としてはまだまだ不慣れであるからな。 この先、どのような苦難が待ちうけているかはわからぬ。 もし、全面的な戦争になったとしても、わが国からの援軍は期待しないでもらいたい。 理由は、わかるな?」 アラゴルンの表情が変る。眼光鋭い、野伏。 「サウロンが指輪の存在に気付いた以上、全面戦争は避けられぬでしょうな。 真先に狙われるのは、人間の国、ローハンとゴンドール。 エルフの国では、指輪の加護を持たない闇の森・・・」 「そうだ。先の戦争から三千年の長き月日が経っているとはいえ、 あの損失を十分に補えているとは言えぬ。 もともと、エルロンドたちのように戦う事に慣れた者たちで構成されてはおらぬからだ。 シンダールの兵は数少なく、シルヴァンエルフは戦うより隠れることを望む。 攻めに転じることは難しく、少しの兵を割く事も難しい。 そうでなくとも、本来わが軍の指揮をとるべき、もっとも優秀な射主を おぬしらに託しておるのだ。そのことを理解してもらいたい」 スランドゥイルの視線に、レゴラスが唇を結ぶ。 「本当なら、エルロンドには他のエルフを選んでもらいたかった。 裂け谷には、屈強な兵はたくさんおるのでな。だが、レゴラス本人が望んだことだ。 もう、異論は言うまい」 「・・・ありがとうございます、父上」 「よいわ。おぬしが抜けた分、わしも頭を働かせねばならぬな。 久しぶりにケレボルンと話し合いを持つ必要も出てくるだろう」 アラゴルンは、闇の森の王に深く頭を下げた。 「・・・レゴラスは、この命に代えても守ります」 「馬鹿をぬかせ」 頭を下げるアラゴルンの肩を、ぐいと押し戻し、スランドゥイルは口元を引き上げた。 「本来の目的を忘れるな。おぬしの旅が失敗すれば、わが国も滅ぶ。 わしはおぬしに託しておるのだ。息子も、この国の運命も。 よいか、必ず生きて帰れ。わしはもう、愛する者を失いたくはないし、 レゴラスにも同じ思いをさせたくはない。おぬしは『希望』なのであろう」 一瞬だけ、神妙に王を見つめ、アラゴルンはにやりと笑った。 「必ず。王を失望させはしません」 王も同じ笑みを返し、アラゴルンの肩をぎゅっと握った。 そして、そこを軽く叩いて手を離した。 「もう寝ろ。人間には睡眠が必要だ。レゴラスの部屋には行くなよ。 わしの目の届くところで息子に触れたら、モルドールに向う前にその首を落してくれるわ」 緊張を解いた笑みをレゴラスに向け、アラゴルンはお休みの挨拶をして背を向けた。 きょとんとしたレゴラスが、それを見送る。 「お前も休め、レゴラス。どうせ、平気な顔をして無理をしてきたのだろう? 自分の国にいるときくらい、体を横たえろ」 レゴラスは、父親に向き直った。 「アラゴルンの感情を、理解しているか?」 「なんとなく。ただ、彼の成長の早さに追いつけないだけです」 「許すつもりか」 「・・・・・・」 少し考え、視線を床に落す。 「・・・友情を、壊すつもりはありません。彼も、わかっているはずです。 私はきっと、彼が結婚をし、年老いて死ぬまでそばにいるでしょう。 それが、私にとっての喜びですから」 スランドゥイルは、小さなため息をついた。 「ところで父上」 ぱっと顔を上げたレゴラスは、話題を変えるように笑んでいた。 「今宵は、父上の部屋で休んでもよろしいですか?」 スランドゥイルが顔をしかめる。 「どういう風の吹き回しだ? 見納めのつもりか」 「とんでもない! 私は必ず、森に戻ってきますよ。 光ある森を、この目で見なければ! 私のわがままなのはわかっています。 でも、どうしても私はサウロンと対決しなければなりません。 この旅は、アラゴルンやフロドのためだけに志願したわけではありませんから」 「魔王を滅ぼして、わしの無念を晴らすか?」 にっこり笑って父親を見る息子に、スランドゥイルは複雑に目を細めた。 「それより、そばで歌っていてくれた方が、わしは嬉しいがな」 「私は、母上ではありませんから」 寄り沿い、付従い、王の心を慰めるためだけに歌声を尽した、美しいシルヴァンエルフ。 スランドゥイルは、レゴラスの髪に触れ、その肩を抱いて部屋に戻る廊下を歩き始めた。 旅の仲間は三日ほど闇の森の城に滞在し、肉体的精神的疲労を癒した。 ここは、エルロンドの館のように静かではなく、毎晩のように宴が催され、 特にホビット達を楽しませた。 ボロミアは物思いに耽っていることが多かったが、メリーとピピンに誘われれば、 嫌な顔もせずに宴会に参加した。宴会は夜通し続き、 朝方になってそれぞれは眠りについた。 そんな折、静かな朝食のあと、ボロミアはレゴラスを呼びとめた。 「レゴラス殿、貴方に少し伺いたいことがある」 二人きりになれる場所を選んで、レゴラスはボロミアに向き直った。 「貴方は何故、旅の仲間に志願したのですかな? 会議では、エルロンド卿の決定だからと申しておったが、 貴方本人は、どうお考えなのだ? 貴方も、指輪の力を以て国を守りたいという考えは愚かだとお思いか? もし・・・・会議の決定が違っていたら、貴方はそれに従いましたか?」 ボロミアの質問を、一つ一つ頭に入れ、レゴラスはその真意を思い巡らせた。 そして、静かに答える。 「力の指輪は、私の国を守ってはくれません。そのために私は弓の腕を磨くのです。 私は私の生まれたこの国が、光溢れる緑の森だった頃を知りませんが、 自分の国を愛しています。まやかしの力で、まやかしの光を取戻そうとは思いません。 それが、王の意思でもありますから。」 言葉を区切りながら、ボロミアの瞳を見つめる。 「もし、会議の決定が違ったものであったなら、私は退席し、 以後裂け谷との交流は絶つでしょう。エルロンド卿は偉大なお方ではありますが、 私は卿に従う義務はありませんから。 エルフの歴史を貴方がどれだけご存知かはわかりませんが、 私の国と裂け谷は、友好関係にありません。 私は、エルロンド卿が正しいと思うから従うのであって、 私の意志に反すれば、従うつもりはありません」 ボロミアは、意外だという表情をした。 「友好関係でない、と? アラゴルン殿とレゴラス殿は、旧知の仲ではあらぬのか?」 「それは個人的なこと。私は私の国の使者として、度々裂け谷を訪れていました。 それで・・・人間でいえば・・・昔からアラゴルンを知っているだけです」 ボロミアが想像していた答とは、明かに違っていたらしい。 驚きの表情をするボロミアに、レゴラスはクスリと笑って見せた。 「むしろ、私の立場は貴方に近いでしょう。 私の国も、モルドールの恐怖に曝されているのですから。 ですから私は、指輪を滅ぼす旅に志願しました。貴方とは正反対の考えです。 指輪を滅しなければ、私の国はサウロンに滅ぼされてしまうかもしれない」 「なら尚更力を・・・」 「私は」 レゴラスは、顔を近づけて、ボロミアの瞳の奥を覗き込んだ。 「貴方と同じ『戦う者』です。まやかしの力は信用しません」 人間とは違う、その端正な顔立ちに、ボロミアは怯んで一歩引いた。 その反応が、レゴラスにはおかしかったようだ。 もしアラゴルンに同じ事をしたら・・・・。 「・・・それで、国が攻め入られても・・・?」 「たとえそれで犠牲をはらっても、王は国を立直すでしょう。何度でも。 たとえ王が倒れても、誰かが意思を継ぎます。 祖父が討死しても、父がその志を継いだように。 シンダールの過ちは、己の誘惑に打ち勝てなかったことです。 王が王でいる限り、民はついてゆきます」 「よほど・・・ここの王は信頼されているのですな」 「貴方の国は・・・貴方のお父上は違うのですか?」 ボロミアは瞳の色を曇らせ、僅かに首を横に振った。 「わが父は、王ではありませぬゆえ・・・・」 レゴラスは、危く昔アラゴルンから聞いたゴンドールの執政の事を口にしそうになり、 言葉を止めた。アラゴルンはデネソール候を知っている。 あえてそれをボロミアに話していないのなら、 アラゴルンにはアラゴルンの考えがあるのだろう。 「・・・難しい立場なのですね」 無難な言葉を選ぶレゴラスに、ボロミアは無理に笑って見せようとし、 顔をゆがめた。 「私が思うには、ボロミア、貴方は国の明暗のすべてを、一人で抱え込もうとしすぎです。 人間であれ、エルフであれ、ひとりでできることには限界があります」 そう言いながら、人間の未来を背負うアラゴルンを思う。 『希望』と名づけられ、生まれた時から運命付けられた宿命。 逃げることは、許されない。 「いっそ、誰かに弱音を吐いて甘えてみては?」 冗談ぽく聞えたのだろう、ボロミアは僅かに頬を紅潮させ、 冗談は好かないと吐き捨てた。 ボロミアの髪を撫でようと、上げた手を止め、レゴラスは小さく笑った。 「すみません。冗談です」 わかっている。自分は、これ以上誰かを支えきれない。 自分は、アラゴルンの『支え』であるから。 「指輪の誘惑は、弱き心につけ込みます。危険に直面したとき、 どうしてもフロドが指輪をはめずにいられなくなるのは、そのため。 現実から逃避したくなるほど苦しいとき、私は愛する者を思います。 父を、国を・・・・」 アラゴルンのことも。 「私は、どうしようもなく疲れたときは、父に甘えるんですよ」 苦笑いをしてみせると、ボロミアはまた意外だという顔をした。 「実は、私は最愛の父の意思に背いて、旅の仲間に志願しました。 それが、私には大切なことだと思ったからです」 「・・・・それで、スランドゥイル王は怒っておられたのですな」 旅の仲間が最初に王に接見したときのことを思い出す。レゴラスはくすくすと笑った。 「ゴンドールの執政殿は、指輪の本当の恐ろしさを知らない。 貴方は、お父上を裏切ってでも、真の目的を果すべきです。 ・・・・ああ、貴方の質問から離れてしまいましたね」 にっこりと微笑むと、ボロミアもつられたように表情を緩めた。 「その顔! メリーやピピンとふざけているときの貴方の笑顔! 私は好きです。それが貴方の真実だと感じます。 それこそが、目に見える信頼ではないでしょうか? 彼らを守るのは、貴方の剣と盾であって、力の指輪ではありません。 そういえば、わかってもらえるでしょうか」 ちょうどいい間合で、ホビット達が駆込んできた。 「ボロミアさん! 探したんですよ! すごいものを発見したんです!」 「そう、すごい宝石!!」 メリーとピピンが交互に叫ぶ。 「王様が特別に見せてくださるって! 見に行きましょうよ!」 ボロミアは二人に笑って見せ、レゴラスを見る。 「ひとつ、くすねようなんて思わない方がいいですよ。 宝石を取られた王はスマウグより怖いですからね!」 レゴラスは、そう言って笑った。そして、そっとボロミアの背を押す。 「私は、父のように地獄を見てきていませんから、難しいことはわかりません。 ただ、この腕で愛する者を守りたいだけ。それは、貴方も同じでしょう?」 囁くように耳元で呟く。ボロミアが返答する前に、 彼は両腕をホビット達にひっぱられて出て行った。 ボロミアの姿が消えると、物陰からアラゴルンが姿をあらわした。 「もし、お前がボロミアに触れていたら、俺はボロミアの首を締めるところだったぞ」 「父みたいなこと、言わないでください」 とっくに気付いていたレゴラスが、おかしそうに笑う。 「・・・ボロミアが笑みを見せるのは、私にではなく、あの小さき人たちにですよ」 アラゴルンは、レゴラスの背後から抱きつき、その髪に頬を埋めた。 「父に見られたら、首を切られますよ?」 「かまわないさ」 ふとため息をつき、レゴラスはそっとアラゴルンの髪にキスをした。 「今夜は、貴方の部屋に行ってあげる。エステル・・・少し、休むといい」