「あの丘の向こうがドリアス。シンゴルの都だ」

 助手席に座るエクセリオンは、丘陵の向こうを指し示した。

 所用で遠出をした帰り、グロールフィンデルはエクセリオンの車を運転していた。

 双方を丘に囲まれた舗装されていない一本道。

 運転の練習のため、グロールフィンデルはハンドルを握らされていた。

「貴族の娘メリアンがシンゴルに惚れ、メリアンの財力で都を築いたという噂だ。
芸術の都と呼ばれている。だが、シンゴルも年をとり、だいぶ偏屈になってきたようでな、
ノルドの一派と諍いを起こしているらしい」

「我々もノルドですが」

 緊張気味にフロントを凝視しているグロールフィンデルに、エクセリオンは苦笑する。

「トゥアゴン殿はいい意味で芸術に無関心だからな。
我々には関係のない内輪もめみたいなものだ」

 エクセリオンは突然眉を寄せると、

「車を止めろ」

 と、きつい口調で言った。

「え?」

 とっさに反応できないグロールフィンデルの代わりに、
サイドブレーキを引いて、車を急停止させる。
と、次の瞬間、右側の丘から一台の自転車が滑り落ちてきて、
停車したエクセリオンの車の前を横切り、反対側の丘の途中で転がった。

「運転するときは、周囲をよく見るのだな」

 ニッと笑うと、突然のことに呆然としているグロールフィンデルの髪を撫で、
エクセリオンは車を降りた。

 自転車のそばに転がっている少年を見に行く。

「キミ、大丈夫かい?」

 顔を上げたのは、グロールフィンデルより少し幼いくらいの少年だった。
明るい金髪と空のように青い瞳が目を引く。

「すみません! 車、傷つけませんでしたか!」

 少年の慌てぶりに、エクセリオンはクスリと笑った。

「大丈夫だよ」

「ああー、よかった!」

 心底ホッとしたように、少年は一度大の字に寝転がる。
それから、また慌てて起き上がった。

「近道をしようとしたんだけど、急にブレーキが効かなくなって」

 落ち着いたグロールフィンデルも、車外に出てきた。

「グロールフィンデル、自転車を見てあげなさい」

 はい、と返事をして、グロールフィンデルが自転車を起こす。

「あ、大丈夫ですから! 
そいつ、汚れてるから、手とか服とか汚しちゃいますから!」

「彼は私の助手でね、今、色々勉強させているんだよ。
車の運転も、下手で申し訳なかった。
驚かせてしまったお詫びに、自転車を直させてやってくれないか」

「いや、そんな・・・・こっちが悪いんですから」

 少年は困ったようにおろおろしている。
エクセリオンは、そんな少年の顔についた泥を親指でぬぐってやりながら、
その瞳を覗き込んだ。

「キミ、ドリアスの学生だね?」

 そこではじめて、少年はエクセリオンの指にはまった指輪を見た。
驚きに目を見開き、後ろに飛びのく。

 指輪を見ただけでどこの人間かわかるなんて、それなりに地位のある子供か。

 少年は自分の担いでいたリュックをおろすと、
中をかき回して一輪の小さな花を取り出した。

 勿忘草だ。

 手をズボンにこすりつけて汚れを落とし、
落ち着くように深呼吸をしてから、
少年は青い可憐な花をエクセリオンに差し出して膝をつき、頭をたれた。

「申し遅れました。私はドリアスのスランドゥイル。ご無礼をお許しください」

 ドリアス流の挨拶か。

 エクセリオンは花を受け取り、身をかがめて少年の顎に触れた。

「私はゴンドリンのエクセリオン。顔を上げなさい、スランドゥイル。
花を差し出すのは、女性に対しての挨拶ではなかったかね? これでも私は男だ」

 とたんに少年の顔が真っ赤になる。エクセリオンはくすくすと笑った。

「面白いね、キミ」

 青い花を指でもてあそぶエクセリオンに、少年は引きつって笑うしかない。

「キミのかばんには、花が詰まっているのかな?」

「この先に勿忘草の群生があって・・・・
お屋敷から出て来られないメリアン様とガラドリエル様にお見せしたくて」

 それは、高貴な女性の名前だ。側近の息子か何かかもしれない。
粗野だが、光り輝くきれいな目をしている。

「終わりました」

 そばで自転車の修理をしていたグロールフィンデルが、冷淡な口調で告げる。
この百面相の少年に比べると、グロールフィンデルの表情はないに等しい。

「育て方を誤ったかな」

 ボソリとエクセリオンはつぶやいた。

「ボルトが緩んでいただけです。
あと、ハンドルが曲がっていたので直しておきました」

 スランドゥイル少年はグロールフィンデルに駆け寄ると、
両手でしっかりとその手を握った。

「ありがとう! ありがとう! すごいね! 天才じゃないのか!」

 そんな大げさな。グロールフィンデルの方が困って体を引く。

 グロールフィンデルには、同世代の友人などいない。

 しっかりと手を掴まれて、ぶんぶん振られ、
グロールフィンデルは助けを求めるようにエクセリオンを見る。

 エクセリオンは、グロールフィンデルの困った顔を見るのも好きだ。

 なかなかいい取り合わせではないか。

「・・・・・・いや、たいしたこと、ないですから」

「車も運転できて、自転車も直せて、すごい! 
ゴンドリンって、英才教育なのかな」

 何か違う気もするけど。

 スランドゥイルがやっと手を離してくれて、
グロールフィンデルは顔をゆがめて自分の両手の平を見る。
さっきより汚れてしまった。

「あー! ごめん!」

 スランドゥイルはかばんから水の入ったビンと、
ズボンのポケットからぐしゃぐしゃになったハンカチを取り出す。

 それから、ビンの水をグロールフィンデルの手にかけ、
きれいなのか汚いのかわからないハンカチでごしごし拭いた。

「とりあえず」

 そして、ニッと笑う。

 グロールフィンデルは、どう反応してよいのかわからない。

「気を、悪くした?」

 眉を寄せて申し訳なさそうに首を傾げるスランドゥイルに、
グロールフィンデルは頬を染めて

「いいえ」

 とだけ応えた。

 それからスランドゥイルは、またかばんをあさり、何やら小さな塊を取り出す。

「すみません、お礼が何もできなくて」

 そう言って差し出された手のひらに乗っていたのは、
小さなトパーズと水晶の原石。

「ホント、キミのかばんは何でも入っているね。
これもご婦人方へのプレゼントだったのではないかね?」

「いいえ、これは趣味で集めている石です。高価なものじゃないですけど」

 エクセリオンは石を受け取り、トパーズの方をグロールフィンデルに渡した。

「ありがたく受け取ろう」

 少年の顔がうれしそうに輝く。

 人を魅了するその表情は、いつか人を導く存在になるだろう。

 

  少年と別れたあと、今度はエクセリオンがハンドルを握った。
理由は簡単。グロールフィンデルの手が汚れているからだ。

「面白い子だったな」

 楽しそうにエクセリオンが言う。
グロールフィンデルは、小さなトパーズを光にかざした。

「お前の瞳の色によく合う。
偶然持ち合わせていたのか、彼が選んだのか」

 宝石などに興味のないグロールフィンデルは、
何も応えず石をポケットに入れた。

「不機嫌かな?」

「・・・・早く、手が洗いたいです」

 ふふ、とエクセリオンは笑い、アクセルを踏んだ。

 こういう出会いも、グロールフィンデルにはいい刺激になるだろう。
なにせグロールフィンデルは純粋培養だから。

「私はあの子、好きだなあ」

 とたんにグロールフィンデルは「キッ」とエクセリオンを睨んだ。

「私は嫌いです」

 おやおや。

「でも大丈夫、グロールフィンデル。私はキミを一番愛しているからね。
そんなに怒らなくていいよ」

 ぱっと頬を染めて、グロールフィンデルは視線を外した。

「キミはかわいいなあ。帰ったら、めいっぱいかわいがってあげるからね」

 エクセリオンのかわいがるは、どれだけ過酷な訓練を与えられることか。

 それでもグロールフィンデルは、口元をほころばせる程度に微笑んだ。