裂け谷。最後の憩いの館。 その名の通り、実に静かなところである。 こと、宮廷顧問たちは美しく品があり、必要以上に言葉を発しない。寡黙が美とされる。 そんな谷にも、ちょっとした風が吹き込むことがある。 人間や他種族は、雰囲気に圧倒され、ここで馬鹿騒ぎをしたりはしない。 ここを訪れるエルフたちも、また物静かに過す。 一部の例外を除いて。 顧問長のエレストールは頭を抱え、重なった来訪者に挨拶もそこそこ執務室に逃げ込んだ。 きっと、この騒ぎが収まるまで出てこないだろう。 館主エルロンドには、そんな春風を楽しむ余裕がある。 双方ともエルロンドに会いに来たのだから。 「ギルドールさん!」 谷には似つかわしくない、無邪気なエルフは、 来訪が重なったその上のエルフに嬉しそうに駆寄った。 「やあ、レゴラス。久しぶりだねえ」 ギルドールはにこやかに応える。この場合の久しぶりとは、何十年単位である。 ひょっとすると、百年近いかもしれない。 「遊びに来ていたのかい?」 「いいえ、父の使いです」 あたり前だ。闇の森のエルフが、裂け谷に遊びになんか来れる筈もない。 まあそんなこと、ギルドールにはどうでもいいことではあったが。 「ギルドールさんは?」 「旅の報告がてら、遊びにね」 遊びになんか来るな! ギルドールと話をしていたグロールフィンデルは、眉根を寄せた。 グロールフィンデルもエレストール以上に騒がしいのは嫌いであったが、 顧問長に先に逃げられてしまい、仕方なしにこの高貴なエルフの相手をしていたのだ。 「私は先に失礼する。なにか用があったら、私の部屋を訪ねてくれ」 「うん、そうするよ」 英雄グロールフィンデルをこうも容易く扱えるのは、エルフ多しとはいえそうそういない。 それはギルドールの血筋のなせる業だ。 ギルドールは闇の森の王子に向きなおり、ニコニコと笑顔を見せた。 「して、お父上はご健在かね?」 「ええ。おかげさまで毎日飲んだくれてます」 「ははは・・・面白いね、森のエルフって。すっかり同化しちゃって」 「ギルドールさんもウチの森に遊びに来てくださればいいのに!」 「まさか! スランドゥイルが私を森に入れてくれるわけないだろう?」 「それもそうですね」 あははは・・・・・・。と、陽気な笑いをグロールフィンデルは背中で感じる。 あははじゃないっての。緊張感がないのか、こいつらは! シルヴァンの田舎者ならともかく、ギルドールにはフィンロド王家の自覚がないのか? 双肩に疲労を感じ、グロールフィンデルは足早にその場を去った。 グロールフィンデルが去ったあと、ギルドールはそっとレゴラスの肩に触れた。 「エルロンドは優しくしてくれるかい?」 「ええ」 「顧問たちは怖いだろう」 無邪気な森のエルフの表情が、少しだけ翳る。 「・・・そんなこと・・・ないですよ」 「辛い立場だね」 レゴラスは顔をゆがめて応えた。 陽は落ち、谷は夕闇に染まっていた。 「今のエルフの世界の象徴だね。私は、夕日に染まるこの谷が好きだよ」 ベッド脇に施された、優美な曲線を描く彫刻を指で撫でながら、ギルドールは呟いた。 隣の男は、不貞腐れて髪を掻き上げる。 「嫉妬しているのかい?」 「嫉妬?」 「闇の森の王子だよ。あんな子供に」 グロールフィンデルはギルドールを睨み、その視線を窓の外にやった。 「あんな子供に何がわかる。 青二才を使者としてよこすスランドゥイルの気も知れないが、 それを受け入れるエルロンドもどうか」 くすくすとギルドールは笑った。 そうだね、君にしてみれば、エルロンドも子供みたいなものだ。 キアダンやガラドリエルのように種族の誇りを守ることだけに執着せず、 進んで他種族とも交流をする。それどころか、長年の確執のあったスランドゥイルとも。 そのことにグロールフィンデルが苛立つのは、わかる気がする。 「でも、青二才と卑下するのはどうかな。あれでも、シンダールの王子だ」 「子供だと言ったのはお前の方だ」 クスクスとギルドールはまた笑う。 「私が言ったのは、別の意味だよ。彼らは純粋だね。 私たちのように、肉体の快楽を楽しむことを知らない。 うん、そう、そういう意味で、まだ子供なんだ。 私はてっきりエルロンドと寝たものと思っていたが ・・・さすがに手を出していないみたいだ」 「まるで我らが汚れているような言い方だ」 誰とでも寝るというわけではない。 これは愛情表現であるし、ある意味、詩を歌うのに似ている。 「ここのやり方を、お前が教えてやればいい」 夜の楽しみ方を。 「遠慮しておくよ。私はレゴラスと友達でいたいし、まだスランドゥイルに殺されたくない」 口元で笑いながら、それが冗談ではないと視線で示す。 「私たちは黄昏の時を迎えているが、彼らはまだ光を求めている。 レゴラスを見ているとね、私たちは今までいったい何をしてきたのだろうと考えてしまうよ。 暗闇に生まれ、光の導きのままに海を渡り、憎しみを携えて再び戻ってきた。 やがてその時も終り、また約束の地を目指す。 私はね、彼らを羨ましいと思ってしまうんだよ。 私は谷を離れ、放浪の旅を繰り返すが、結局ここに戻ってきてしまう。 ただ歌って楽しんで生きてはゆけない。悲しい業だと思わないかい?」 手をのばしたギルドールは、指先でグロールフィンデルの唇に触れ、 顎の筋を通り、喉元から胸に手を滑らせる。 「思わない。これが、我々の生き方だ」 滑らかな胸をなで、ギルドールはその手を引き戻した。 余韻の残るその感触に、グロールフィンデルは強引にその手首を掴み、 ギルドールの体をベッドに引き倒す。 「・・・やっぱり、嫉妬しているんだ?」 「そうだ。私はミドルアースで生まれたが、幼き日々に憎しみは存在していなかった。 この手を汚すことなく、風に歌うだけで満足できた。肉体の慰めなど、必要とせず。 あれは・・・シンダールの王子は、この谷になど来てはならぬのだ。 森の中で歌っていればいい。我らが忘れ去った、あの日々に暮らしていればよいのだ」 かわいそうに。 ギルドールはグロールフィンデルの頬を撫でる。 「私たちは、いったい何を無くしてしまったのだろうね」 そして・・・エルフの時代は終わる。 憎しみに駆け抜けた、ノルドールの罪は終りを告げる。 「グロールフィンデル」 ほのかに光り輝くエルフの笑みで、ギルドールは囁いた。 「君の歌が聞きたいな」 歌など・・・・・。 ギルドールの手首を離し、体を起したグロールフィンデルはそっと溜息をついた。 「かの地に帰りし時は、歌も歌おう」 ゆっくりと体を起しながら、ギルドールは無邪気にも見える笑みを見せた。 「時が来たら、一緒に帰ろう」 忘れ去った純粋さを、汚したくないと切望してしまう。 だが、時の流れは残酷だ。 いつか、あの王子も憎しみを知るだろう。 その手を血で汚すときが来るだろう。 騒々しい来客が去り、谷にまた静けさが戻る。 「なぜ、闇の森の王子を避ける?」 グロールフィンデルの問いに、エレストールが溜息をつく。 「うるさいのは、嫌いだ」 結局は、同じなのだ。エレストールも、また思い出したくないノスタルジーがある。 「私も、うるさいのは好まない」 そう言って、グロールフィンデルは口元で笑った。 裂け谷。最後の憩いの館。 エルフたちは、今日も静寂を楽しむ。 嵐が近付いていることを、感じながら。 *************************************************************************** サブエルフ同盟様の裂け谷祭に謙譲したものです。