ギルドールの一行を歓迎する会食の席に、エレストールは出席しなかった。 それは、公務ではなく、顧問といえど強制はされなかったからである。 ただし、この後開かれる会議には出なければならない。 それは、明かに職務だからだ。 エレストールは、ひとり書斎に閉じこもっていた。 仕事はいくらでもあったが、手は止ったままだ。 思考が、目の前の書類から遠く離れたところを彷徨っている。 ギルドールの存在には、心乱される。 闇の森の王子とは、別の意味で。 自分は・・・ なにも自分が顧問長など引き受けなくてもよかったのだと思えてしまう。 たとえば、高貴な血筋であるギルドールや、 英雄の名をもつグロールフィンデルなどでも。 確かにエレストールは、エルロンドとともにギル=ガラドに仕えてきた。 純粋なノルドでもあるし、エルロンドより年上でもある。 責任感も強く、政治的能力も高い。だから、適任であることには間違いはない。 それでも ギルドールを前にすると、谷の外の薫りに心乱される。 自分は、いったいどれくらい谷を出ていないのだろうと。 無論、それは強制されたことではない。もし、そう申し出れば、 エルロンドはエレストールが谷を出ることを止めないだろう。止める権利はない。 自分は自分の仕事に誇りを持っている。 自ら望んで、この役職を引きうけている。 それでも もうどれくらい、外の風にあたっていないのだろう。 「私は、歓迎されていないようだね」 エレストールは、止ったままの羽ペンを握りなおした。 せめて、仕事をしているふりだけでもしたかった。 「そんなことはない」 目の前に立つエルフに、真顔を向ける。仕事中だ、邪魔をするなという表情を作る。 「ここに座っても?」 目の前の椅子を指差され、断る口実が思い浮ばない。 ギルドールは、返事を待たずに腰をおろした。 「どうだい、谷の様子は?」 「エルロンド卿のおっしゃるとおりだ」 「・・・私は、君の意見を聞いているのだよ? エレストール。顧問長としてね」 エレストールは溜息をついて、仕事をしているふりをやめた。 そんな小細工など、利くはずもないのだ。 「あの人間、エステルと言ったね? 彼は本物だと思うかい?」 今谷で擁護している人間の子供。 今までもイシルドゥアの血を引く者を保護してきた。 だが、彼らは新たな王を産出すための準備にすぎなかった。 その血筋を絶やさないための。 今いる子供は・・・果して本物の王となるべき人間なのか。 「それは、私の判断するべきことではない」 「しかし、今新たな王が見出されなければ、手遅れになってしまうかもしれない」 ハッとして、エレストールはギルドールを凝視した。 黒い噂も情報も、次々と入ってくる。 が、そんなに緊迫しているとは思っていなかった。 「エレストール、外の世界は刻々と変りつつあるんだよ。 実感していないんだね? ここでは・・・谷では時間が止ってしまっているから。 エレストール、君がひとつ溜息をつく間に、 谷の外ではひとつの季節が過ぎ去っていく。 花は枯れ、種子を落し、新たな芽を出す。 エルフがひとつの詩を歌っている間に、小さな木の芽が巨木になるんだ。 ここではそれが感じられないだろうけど」 そんなこと・・・言われなくてもわかっている。それを目にすることはないけれど。 「あの子供は、本物だと思うかい?」 まだ十の春を数えたばかりの子供を、思う。 予感は、ある。 「私が不確かなことを口にするわけにはいかない。顧問長として」 「では、友人として聞こう」 やわらかな笑みを作るギルドールに、エレストールは目眩さえ感じる。 彼は、そうやって笑う。外の風が感じられる笑みは、闇の森の王子と同じだ。 だから、気に食わないのだ。 「私にはわからない。が、闇の森の王子は子供を気に入っている」 「レゴラス!」 ギルドールの表情が、若々しげに輝く。 「つい先日まで谷に滞在していたんだってね! 会いたかったな」 「闇の森に足を運べば、会える」 「スランドゥイルが私を宮殿に入れてくれるはずがなかろう。 私は、ノルドールだからね。ああそうだ、ロリアンには行って来たよ。 ケレボルンとね、話をしたんだ。 きっと、スランドゥイルを真に説得できるのはケレボルンだけだろう。 彼は、シンゴル王家のエルフだから」 それを言ったら、エルロンドはシンゴルの直系だ。 もっとも、彼はシンダールとしての生き方をしてこなかったが。 「まあそれは、先の話だけどね。それで、レゴラスはなんて?」 「闇の森の王子は、私と個人的な話はしない」 「個人的な話なら、エルロンドに聞くよ。彼はレゴラスと仲がいいから。 君は客観的に見てどうなんだい?」 闇の森の王子を想う。彼がエステルに向ける視線の意味を。 そして、エステルが王子になつく訳を。 「エルフと人間の盟約については、たぶん別のところにあるだろう。 闇の森の王子は変り者だ。単に人間の子供に興味があるだけかもしれない。 しかし・・・・」 思いをめぐらせるエレストールの表情を、ギルドールはじっと見つめる。 その表情の奥を読むように。 「しかし、そこに友情という結びつきができるのだとしたら、 エステルは本物だろう。エルフを魅了できる人間など、そういるものではない。 そして・・・それは悲劇に他ならない」 過去の歴史からして。人間に魅了されたエルフは、 その使命の為にミドルアースでの肉体を棄てることさえ厭わない。 「エレストール、君はレゴラスが好きなのかい?」 好き? むっとしてギルドールを睨む。ギルドールはそれに笑顔で対応した。 「君は、レゴラスがエステルのために命をかけることを恐れている?」 「そんなことは・・・ない」 たとえそうなったとしても、闇の森の王子がどうなろうと、 自分には関係のないことだ。 ギルドールは意味ありげにクスクスと笑い、エレストールの神経を逆なでする。 「私の意見を言わせてもらうなら、 過去の悲劇とレゴラスの運命は重ならないと思うね。 エステルが本物であったなら、ね。 なぜなら、レゴラスは人間との盟約とは無関係だ。 むしろ、人間に命を捧げるのは他にいるだろう。 それはまだ、誰かはわからないけど。エルロンドともその話をしたんだよ。 エルロンドも、君と同じ事を恐れている。 だとすると、やはりエステルは本物なのだろうね」 エステルが本物なのだとすれば、時間の流れは急変する。 いかにヌメノールとはいえ、その寿命は二百年もないのだ。 ともすると、この先百年足らずで歴史が大きく動くことになる。 百年。 それは、エルフにとって瞬く間でしかない。 つまり、エルフがミドルアースで残された時間も、それくらいしかないということだ。 黄昏の時代と、わかってはいても。 「そうならば、私は貴方とくだらないおしゃべりをしている時間はない。ギルドール」 「私はそうとう嫌われているようだね」 ギルドールは立上がった。 「私がノルドとしての役割を放棄したから? 君に押付けて」 「・・・・・」 はっきりと言われて、胸が痛む。 本当に自分はそんなことを考えているのだろうかと。 「残された時間が少ないからこそ、私は世界を逍遥したい。 このミドルアースを見ておきたい。エレストール、君は知っているかい? 春に芽吹く若葉の輝きを。秋に色付く木の葉の彩りを。 それとも、忘れてしまった? ヴァラールが我々に与えてくださった恩恵を」 「シンダールのようなことを言う」 「そうだね。君の嫌いなシンダール。私は尊敬しているけど」 エレストールは頭を振った。 ギルドールは流れる風のように動きでエレストールに歩み寄り、 そっとその肩に触れた。 「エレストール、私は君に感謝している。 結局、私の帰る場所を守ってくれているのだから。 この谷があるから、私は自由に歩き回れるのだよ」 「情報収集という役割と引きかえに、だ」 「それでもかまわない」 ギルドールは、エレストールの髪に唇を寄せ、大地の薫りの残るキスをした。 「・・・用がないのなら、出て行ってくれないか」 「つれないね」 笑みを残して、ギルドールは静かに背を向けた。 ギルドールが書斎のドアのところで立ち止る。 エレストールがもう一度顔を上げると、そこにグロールフィンデルが立っていた。 「密談か?」 相変わらずとげのある口調。 「そうだよ」 ギルドールは、悪びれもせず微笑む。 「グロールフィンデル、何か?」 事務的な口調で問う。目の前で口論はされたくない。 「会議の時間だ」 エレストールは溜息混じりに立ちあがった。 「グロールフィンデル、君は相変わらず固いね」 「ギルドール、貴方が軽薄なのだ」 ギルドールはクスクスと笑いながら「先に行ってる」と言残して出て行った。 グロールフィンデルはそれを見送り、エレストールに視線を戻す。 「心労が絶えないようだな」 ほくそえむグロールフィンデルに、エレストールはまた溜息をついた。 「アマンに旅立った時には、ゆっくり休ませてもらおう」 エレストールはグロールフィンデルの脇を抜け、会議の場へと向った。 自分は、頑なでつまらない男に見えるだろう。 それでもよい。 今はまだ、守らなければならないものがある。 エルロンドが安心して世界の動向を考えられる場所。 グロールフィンデルや、他のエルフたちの住まう場所。 ギルドールの帰ってくる場所。 最後の憩いの場所。 エレストールは、谷川に面した回廊で立ち止り、その風を感じる。 この谷を守ること。それは最高の名誉だ。