イムラドリスに緑の風が吹く。

 長い回廊にたたずみ、エレストールは僅かに目を細めた。

 緑色の風が吹いている。

 館主、エルロンドの心を包み込むように。

 それははたして、歓迎されるべきことなのだろうか。

 エレストールは、陰になった館の奥を見、そして、また歩みを進めた。
中庭の、会議の場へ。

 

 エルフとは、本来他の種族との交わりを好まない。

 ロスロリアンでも、灰色港でも、そして、闇の森でも。

 唯一、このイムラドリスだけは他の種族に門戸を開いている。
それは、エルロンドが人間の血を引くためか。否、前王ギル=ガラドの意思のためか。
ギル=ガラドはエルフの王であると同時に、この世界の王でもあった。
人間やドワーフ、その他の数多くの種族の存続にも、責任を荷っていた。
エルロンドはその意思を継いだまでのこと。

 だが、自分はエルフだ。エレストールは思う。
ノルドールの最後の国であるこのイムラドリスの平和に、平和の持続に責任がある。
館主と、館の住人たるエルフたちに対して、彼らを守る義務がある。
そして、生粋のノルドールであるが故、エルフの時代の終焉を見守り、
それが決して冥王の復活によって終らせてはいけないといった責任も感じている。

 イムラドリスの来訪者にとって、自分はきっと、厳しく映るであろう。
親切で優しいエルロンドと違って、堅物のつまらない男に見えるだろう。

 それでも、それが自分の役目なのだ。

 

 緑の風は、最初こそ異質であったが、その独特の物腰は、館のエルフたちを魅了し、
味方につけた。

 何人かいる顧問のうち、エレストールだけは常にその者に厳しい目をむけ続けていた。
それが自分の本音であるのか、義務から来るものなのかは、さだかではなかったが。

「スランドゥイル王は、闇の森へのノルドールの侵入を快く思いません」

 まだ若い王子は、頑なな表情で繰り返した。

「闇の森自身に、その闇の原因があるとしてもか」

 エレストールは厳しい声色で返した。

「それでも、です」

 レゴラスは、同じ厳しさを顧問長に返す。

「ならせめて白の会議への出席を承諾していただき、直接理解を請いたいものだ」

「王はノルドとの同席を認めません」

 いつもこうだ。エレストールは冷静を装いながらも、胸に苛立ちを抱える。
闇の森の王、シンダールでありながらシルヴァンと同化した、かの王とは、
分り合えはしないのだ。三千年以上も前から。否、ノルドがドリアスを滅ぼした時から。

「和解も譲歩も認めぬのなら、闇の森からの使者は何のためにイムラドリスを訪れるのか」

 気丈なレゴラスの瞳が曇る。

 わかっていた。

 頑ななスランドゥイル王を無理矢理説き伏せて、この王子は谷を訪れるのだと。
王子自身は、和解を求めているのだと。
だが、使者としての使命が、王子を頑なにさせざるを得ない。
自分が、どこかでこの若い王子を認めてやりたくても、
それを決して口に出してはならない様に。

「時間が、必要なのだ。焦ってはいけない」

 エルロンドが仲裁に入る。エレストールもレゴラスも、心なしか安堵する。

「闇の森の使者よ、スランドゥイル王の意向は理解しているつもりだ。
今回どうしても承諾していただかなければならないのは、白の会議の開催そのものだ。
出席を無理に求めることはしない。が、その存在を知っていただき、
それが闇の森の南端に関することであることを認めてもらいたい」

 レゴラスは館主に、口元をゆがめて見せた。それは、複雑な心境を物語っている。

「我王国に関することである以上、公に認めることはできません。
王国の貴族たちは、未だノルドへの憎しみを忘れませんが故。
しかし、黙認は致しましょう。私が責任を持って」

 さぞ辛い立場に立たされるであろう。

 それも、この王子の若さゆえか。

 真面目すぎるのだ。
父王を決して蔑むことなく、その意思を完全にこちらに伝えつつも、
己は立場を崩さずに和解の条件を手探りしていく。

 ある意味、自分は彼が答を導くための布石。
王子とは正反対の立場でこちらの条件を突きつける。
そして、館主がその中から求めるべきものを探り出すのだ。

 王子が谷に来るたび、この押し問答は繰り返される。

 うんざりするほどに。

 

 

 

 会議は彼を消耗させる。

 使者としての役目を終えたレゴラスは、今ごろエルロンドと語らいを持っているだろう。
レゴラスは館主を好いていたし、館主もあの若い王子を気に入っていた。

 エレストールは、緑色の風が、早く吹き過ぎて行く事を願った。

 あの王子を嫌っているわけではない。ただ、自分を苛立たせ、疲れさせるのだ。

「毎回毎回、よく飽きぬものだ」

 ポーチで風にあたっていたエレストールは、嫌味な声に視線を向けた。

 この男、この男も、谷では異質に見える。
なぜなら、ノルドは本来黒髪を持っているはずなのに、
どこかでテルリの血が混じっているのか、輝く黄金の髪を持っている。

 そして、彼はイムラドリスのナンバー2の異名を取る。

 何故か。

 グロールフィンデルは、ゴンドリンの英雄であり、
マンドスから再生された数少ないエルフの一人なのである。

「闇の森の王子を責めるのが、よほど好きなのだな」

「これも仕事だ」

 普段無口であるグロールフィンデルも、
同じ地位にあるエレストールには時として饒舌になる。
そう、顧問長などという名前は、彼が受けてもよかったのだ。
が、グロールフィンデルはそれに適さぬとエルロンドは判断し、
本人もそんな気はないと辞退した。

 グロールフィンデルの名声は、戦士としてのそれである。

 彼は戦う者であり、住処を守る者ではない。

「機嫌が悪いようだ。闇の森の王子は好かぬか」

「好かぬ。スランドゥイル王と同じようにな。
グロールフィンデル、君もあの王子を好かぬのであろう」

「シンダールはノルドールを苛立たせる。それは、上古の昔から変らないこと。
だが、お前のように毎度同じような口論を繰り返すのは、物好きだと思う」

 エレストールは溜息をついて肩を落した。

「なら、グロールフィンデル、君が私の代りに会議に出席して王子と対決するがいい」

 グロールフィンデルは、軽く鼻で笑った。

「それは、私の仕事ではない。私が出るときは」

 身をかがめて、エレストールと視線をあわせる。

 グロールフィンデルの、そんなときの目の色は、ぞっとするほど冷たい。

「闇の森の王を殺し、森を強制的に我らのものとするときだ」

 あのバルログをただ一人で仕留めた、英雄。

「グロールフィンデル、君はマンドスに良心を置いてきたのかね」

「そうかもしれぬ」

 背を伸ばし、グロールフィンデルは皮肉に唇をつり上げた。

「ゴンドリンが滅んだときに、私の故郷は失われた。
この身を再生されても、魂は故郷とともにある。今はただ、我主エルロンド卿に従うのみ」

「悲しいな」

 グロールフィンデルは、ほくそえんでみせた。

 彼の再生は、彼の意図したものではないのかもしれない。

「して、グロールフィンデル。私に何か用があったのではないかね? 
ただ嫌味を言いに来たのではあるまい」

 まるでことの顛末を楽しむように、グロールフィンデルは目を細めた。

「お前の機嫌が、なお悪くなる知らせを持ってきた」

「これ以上気分を害することはない」

 それはどうかな。グロールフィンデルは、明かに楽しんでいるようだった。

「ギルドールが帰ってくる」

 エレストールは一瞬息を飲み、またがっくりと肩を落した。

 なるほど、最悪な気分だ。

「いつだ?」

「斥候の知らせによると、5日以内であろう。
それまでに、闇の森の王子は谷を去るだろうがな」

「ああ、せめてもの慰めだ」

 自分を苛立たせるものが、この平穏な谷に二人もいるのは耐えられない。



 

 緑の風は、吹き去っていった。

 

 

 

 エルフとは、本来自由と平穏を好む種族である。

 決して好戦的ではないはずだったのに、
いつから戦いに明け暮れるようになってしまったのだろう。
答えは、エルフの歴史の最初から、である。
悪意の塊、モルゴスがノルドールの宝を奪い、そして、永久に終ることのない戦いは始った。

 宝が消え去った今でも、憎しみ続ける理由はどこにあるのだろうか。

 約束の地を与えられながらも、この地で戦い続ける理由が、どこにあるのだろうか。

 繁栄と衰退をくり返し。

 エルフの時代は、もうじき終る。

 その時、エルフたちは約束の地へと帰っていく。

 今の現し身は、エルフの仮の姿なのだろうか。

 海が心を誘う。

 けれど・・・・・

 けれど、自分は、ミドルアースを愛している。

 

 心が夢を彷徨う。エルフの安らかなる眠り。

 エレストールは、夢の世界から現し身へと戻ってきた。

 誰かに知らせられなくても、わかる。

 あの男が、帰って来た。