胸の上に重圧を感じ、グロールフィンデルは目を開けた。 「!!」 思わず悲鳴をあげそうになり、飛び起きると、胸の上の少年は転がり落ちた。 「痛――い! 急に起きないでよ!」 腰に手を当て、レゴラスが起こった素振りを見せる。 「あ・・・・・」 グロールフィンデルは、ただ口をパクパクと動かすだけ。 それを無視して、レゴラスは眠っている父親の髪を引っ張った。 「起きてよ、父さん! また携帯の電源切ってたね? 連絡つかないと、必ず僕のところに電話が来るんだから!」 もそもそと動いて、スランドゥイルは起き上がった。 「あー? そうだったか?」 「寝ぼけてるんじゃないの! もう10時だよ!」 唖然としていたグロールフィンデルが、蒼白になる。 「出社!!」 子供のように叫んでベッドから降りると、それをレゴラスは引き止めた。 「あ、グロールフィンデルさんは寝てていいですよ。 エルロンド様は自力で出社しましたから。今日は病欠扱いにするそうです。 昨夜具合が悪かったんですって? エルロンド様、心配してました」 目をぱちくりさせてレゴラスを見る。レゴラスはにっこりと笑った。 「じゃ、おやすみ」 また毛布をかぶるスランドゥイルを、ダイブして引き起こす。 「父さんは仕事! 安心して。僕が添い寝しててあげるから」 そこでやっとグロールフィンデルは我に返った。 ああ、服を着ていてよかった。 それから、レゴラスをそっと押しのけて起き、 上着の携帯電話を取ってエルロンドにかける。 これから出社する、と。 エルロンドは休んでろとかナントカ言ったが、休む気にはなれない。 社長のスケジュール管理ができるのは、自分だけなのだ。 「ねえ、ちゃんと看病してあげたの?」 「うるさいなあ。奴はあのとおり元気だし、 ちゃんと添い寝しててやったろう?」 「添い寝してもらってたのは、父さんの方でしょう?」 相変わらずの親子喧嘩に、口元がほころぶ。 いや、まて。この状況をすんなり受け入れてしまうのか? それって、関係がバレバレってことか? くるりとグロールフィンデルに向きなおったレゴラスは、 ぺこりと頭を下げた。 「父さんが迷惑をかけてごめんなさい。 具合悪いのに送ってもらったり、朝までつき合わせちゃって。 迷惑なら、いつでも断っていいですから」 迷惑じゃない、と、言おうとすると、 スランドゥイルは後ろから思いっきりレゴラスのほっぺたをつねった。 「誰が迷惑だ! 誰が!」 「痛い痛い!」 子犬みたいにじゃれあう親子。そんな情景を眺めているのは、好きだ。 グロールフィンデルは、二人を放っておいて身支度を済ませた。 「先に出る」 いつまでもふざけあってる親子に声をかけると、 二人は同時に、にこやかに手を振った。 「おう、いつでもメシ作りに来い」 「エルロンド様に、家で大人しく待ってますと伝えてください」 それから、またなんだかんだ口論をはじめる親子。 スランドゥイルも仕事に行かなきゃいけないのではなかったか? そうも思うが、グロールフィンデルは、とりあえず放っておくことにした。 スランドゥイルもレゴラスも言っていたとおり、 社長室で顔を合わせると、エルロンドはじつに気遣わしげな表情をしていた。 なぜだろう。今まで以上に、エルロンドのことがわかる気がする。 「ご心配をおかけしました」 「大丈夫なのか」 はい、と短く答える。 エルロンドが心配していたのは、 レゴラスがグロールフィンデルの記憶の端を引っ張り出したからだ。 昔なら・・・・グロールフィンデルの肉体は、 記憶を探られることに酷い拒否反応を起こした。 だから、夜遅くにスランドゥイルに電話をかけた。 案の定、頭痛を訴えたと言う。 エルロンドは、スランドゥイルに、事情をすべて話した。 グロールフィンデルの個人的なことを他人に教えると言うのには、抵抗があるし、 エルロンドがずっと知られないように守ってきたことでもあった。 だが・・・・。 彼には話しても大丈夫だろうし、話すべきだろうとも思った。 グロールフィンデルのことを、理解していてもらいたいと。 グロールフィンデルを救えるのは、たぶん彼だけだ。 「社長、大切なお話が」 神妙な面持ちで、グロールフィンデルは口を開いた。 彼の告白を、驚きをもって聞く。 記憶を、取り戻したと。 スランドゥイルと何があったのかは、聞かない。 それでも、グロールフィンデルは己を取り戻した。 何の混乱も無く。 「体調は?」 「なんともありません。・・・・・多少、寝不足ではありますが」 ふと笑うグロールフィンデルを、不思議に見つめる。 穏やかな表情。 少し、瞼が腫れぼったいようだ。 悲しみを訴える相手が、見つかったのだな。 「・・・・よかった。そうか」 「今まで、本当にありがとうございました。 エルロンド卿に守られていることも、忘れていました」 そんな風に、考えるようになったのか。 今までなら、それが当然という顔をしていた。 「いや。だが、これでお前は自由になった。 私がお前を引き止めておく理由も無い。 今までよく私に尽くしてくれた。礼を言う。 本当の、お前の生きたい人生を歩むがいい」 「私を、解雇なさりますか?」 複雑に、エルロンドは口元を歪める。 「お止めになった方がいい。 私なしで社長の仕事が円滑に進むとは思えません。 私を雇っていたままの方が、社長のためです」 ニヤリ、とグロールフィンデルは笑った。 そんな冗談めかした笑いは、見たことが無い。 そうか、感情を取り戻したのだな。 エルロンドは、同じように笑って見せた。 「私の補佐をしていては、恋人を作る暇も無いだろう。 伴侶を世話して欲しいなら、エレストールが飛び上がって喜ぶが」 「ご心配には及びません」 エルロンドの言葉に、いつもは無表情で答えていたが、 今は狡猾そうに笑んでいる。 「レゴラスが、今朝父親を訪ねると言っていたが?」 「ええ、現れましたよ。私に乗っかって起こされました」 「では、もう公認なのだな」 「どうでしょう」 おかしそうに笑うエルロンドに、グロールフィンデルも笑って見せる。 「いいかげん秘密主義はやめてくれ。私の胃がもたない」 「胃の調子がお悪いのでしたら、胃カメラをお勧めします。」 何かを言われて、さらりと受け流すのがグロールフィンデルの定石だ。 嫌味を含めて。 性格は変わっていない。 エルロンドは苦笑した。 「確かに、お前がいなくては、私は何もできない。 午前中の仕事が溜まっている。急いで頼む」 「わかりました」 何があろうと、結局はもう、グロールフィンデルのいない生活などありえない。 「昼休みにちょっと出かけてくる」 「どこですか? 車を出しますが」 「いや、一人でいい」 早速書類を手に取るエルロンドに、グロールフィンデルは片眉を上げる。 今までなら、はいそうですか、で済んだ。 「誰かと密会なさるのでしたら、レゴラスに報告しますよ」 突っ込むか? 書類から目を上げたエルロンドは、顔をしかめる。 「お前は、私とレゴラス、どちらが大切なのだ?」 「彼の息子を擁護します」 はあぁぁ・・・・・。エルロンドは深くため息をついた。 自覚ができたのはいいが、とんでもない執着ぶりだ。 そうだよな。惚れた相手のために自分を殺そうとするような奴だ。 これからが面倒だ。レゴラスに何かしたら、スランドゥイルにではなく、 こいつに殺されるだろう。 「銀行だ。個人的な用でな」 もちろん、 グロールフィンデルだってエルロンドが浮気をするような男でないことは重々承知だ。 かまをかけてエルロンドの行き先を聞き出したに過ぎない。 ああ、今まで以上に厄介だ。 「仕事に戻ります」 何事も無かったかのように、グロールフィンデルは秘書室に戻っていった。 エルロンドは椅子にもたれて、天井を見上げた。 本来のグロールフィンデルは、頭がよくて機転が利く以上に、姑息かもしれない。 エクセリオンという男を想像する。きっと、とんでもない男だったに違いない。 一番古くから取引のある銀行の、貸し金庫の鍵を受け取る。 エルロンドはその部屋に入り、小ぶりの箱を数分間見つめたままでいた。 そこには、財産とは関係が無く、 それでいてエルロンドにとって重要なものがしまわれている。 前にそれを開けたのは、いつだったか。 いつだって、この箱を前にすると感傷的になる。 ふたを開け、中を見る。 期待して盗んだ者は、がっかりするだろう。 中には、一見ガラクタと思えるものが陳列されている。 たとえば、数通の手紙。 あれから、エルロスと何度か手紙のやり取りをしたが、 現在に至るまで顔をあわせることは無かった。 その兄弟も、今はもういない。 壊れて動かなくなった腕時計。 それを手にとり、感慨深げに文字盤をなぞる。 自分は、やっぱりギル=ガラドを愛していたのだと思う。 肉体的な接触に、喜びを感じていた。自分だけが、彼を救えるのだと。 それらの品物を片側に寄せ、一番奥から古びた小さな箱を取り出す。 ふたを開けると、汚れた指輪が入っている。 汚れている。 紋章は欠け、血や泥などがこびりつき、指輪本来の美しさは損なわれている。 欠けていてもそれが何を意味する紋章であるのか、一族の者はすぐにわかる。 誰の持ち物であったのか。 欠けた部分や汚れなど、これを受け取ったときには気にならなかった。 誰の持ち物であったのかが重要で、 それがどんな状態であるのかは問題ではなかった。 今改めて汚れが気になるのは、レゴラスの影響だ。 ケレブリアンの指輪を目にしたとき、レゴラスは泣いたという。 後から本人の口から聞いた。 それを指にはめていた人が、どんな酷い目にあったのか・・・・。 それを思うと胸が痛む、と。それが誰であっても。 この指輪を見たら、レゴラスはやはり同じ事をいうだろう。 エクセリオンは、どんな死に方をしたのだろう。 ふたを閉め、箱をスーツのポケットにしまう。 部屋を出て、銀行をあとにする。 グロールフィンデルに、これを返す時が来たのだ。 社長室に戻り、グロールフィンデルに指輪を差し出したとき、 エルロンドはそうしたことを後悔した。 グロールフィンデルの表情は、悲痛だった。 しばらく指輪に触れることもできず、やっとそれを手にしたとき、 きつく唇をかみ締めていた。 泣いているのだ、と、思った。 指輪を握り締め、何度も息を飲み込む。 「・・・・・エクセリオンは・・・・バルログと相打ちして死にました。 彼は・・・・片腕とわき腹をえぐられて・・・・ 私に、『生きろ』、と・・・・。 私は、エクセリオンの指からこれを抜き取り、 ・・・・・彼の意思と共に、バルログに向かった。 エクセリオンと、同じ死を・・・・望んでいました」 もし、目の前にいるのが自分ではなくあの男だったら・・・・・ グロールフィンデルは泣き崩れていただろう。 ケレブリアンが死んだとき、悲観にくれるエルロンドのそばに、 グロールフィンデルはずっといた。慰めの言葉をかけるでもなく。 エルロンドが立ち直るのを、辛抱強く待っていた。 今自分にできることは、それと同じだ。 悲しみに震えるグロールフィンデルが、落ち着くのをじっと待つ。 突然、エルロンドの携帯がメールの着信を伝えた。音は消してある。 エルロンドはそっと携帯を開いて見る。レゴラスからだ。 『結局、父さんと一緒に仕事に来ちゃいました。でも、今夜は早く帰ります』 エルロンドの緊張が解ける。 間髪入れず、グロールフィンデルの携帯も鳴る。 エルロンドが顔を上げて見ると、 グロールフィンデルはそのメールに見入っていた。 表情が、変わる。 グロールフィンデルの力が抜けるのを、見て取れる。 エルロンドはさっと立ち上がり、 グロールフィンデルを残して社長室を出ると、レゴラスに電話をした。 「今、グロールフィンデルにメールを送ったか?」 と。 『あ、わかっちゃいました? 仕事中ごめんなさい。 社長が会議中居眠りをしてたんで、社員皆で写真撮って回してたんです。 それでついでに』 レゴラスが父親を社長と呼ぶのは、まだ会社内にいる証拠だ。 どう発言してよいか、エルロンドは苦笑する。 なんて、タイミングのよい・・・。 「お前の会社は、そんなことばかりしているのか」 『前にグロールフィンデルさんに写真送ったときにも言われました』 悪びれない、嬉々とした声。っていうか、前にも送っていたのか。 『社長は僕たちのアイドルですから』 アイドル? その言葉に失笑する。 スランドゥイルは、周囲に愛されている。 エルロンドの率いる者たちとの関係とは、まったく違う。 『こら! レゴラス! トイレにこもって何してやがる!!』 電話の向こうで、叫び声が聞こえる。 『あ、社長、起きたの?』 『やかましいわ! どうせまた奴にでも電話してるんだろう!』 自分の会社にいるときは、 スランドゥイルも極力エルロンドの名前は口にしない。 『放っておいてよね!』 電話の向こうで親子喧嘩、というのも、珍しくはない。 『ちょっと貸せ』 どうやらスランドゥイルが電話を取り上げたらしい。 『おい、聞いてるか?』 「聞こえている」 エルロンドは笑いをこらえて答える。 『番犬、元気にやってるか?』 スランドゥイルも、心配していたのだな。 「今、ちょっとナーバスになっている」 『あんまりこき使うなよ』 この私に進言するとは。エルロンドは鼻で笑った。 『それからなあ、番犬に伝えておけ。 貴様のせいでスタミナ切れだ。責任とって栄養のあるもん作りに来いと』 スランドゥイルの後ろで、ずるいのなんのとレゴラスが叫んでいる。 ふと、エルロンドは気配を感じて振り向いた。 音も立てずに近づいてきたグロールフィンデルが、 エルロンドの携帯を取り上げる。 「すまなかった」 そう言うグロールフィンデルは、いつもの表情に戻っている。 『肉だ肉! 肉とワイン持って来い!』 「わかった。仕事が終わり次第」 『早く来いよ! でないと寝ちまうからな!』 言い捨てて、スランドゥイルは携帯をレゴラスに返したらしい。 『すみません。無視していいです』 笑いながらレゴラスは言った。 「かまわない」 いつもの冷静さで言って、 グロールフィンデルも携帯をエルロンドに返した。 「社長」 携帯を持ったまま、エルロンドが口元を引きつらせる。 「無駄話は早く終わらせてください。 今日の分の書類が溜まっています」 本当に、仕事を早く終わらせるつもりだ。 「レゴラス、私も仕事を早く片付けて、家に帰ろう」 『僕も早く帰ります!』 簡単な挨拶をして、エルロンドは携帯を切った。 振り返ると、グロールフィンデルは握っていた手を開き、 指輪をスーツの胸ポケットに入れた。 「グロールフィンデル・・・」 「大丈夫です」 強い口調で言って、 グロールフィンデルは手元の書類をエルロンドに差し出した。 「早く片付けてしまいましょう」 書類を受け取ると、エルロンドは静かに笑って見せた。 「ああ、そうだな」 社長室に戻るとき、エルロンドの背後で、グロールフィンデルは呟いた。 「生きろと、言ってくれたエクセリオンに、感謝しています。 私を生かしてくれた、貴方にも」 振り向いたエルロンドは、微笑んで見せた。 「お前がいなければ、私は与えられた重責に耐えられなかった。 今までも、これからもだ」 目が合い、お互い、その奥に真意を確かめる。 それから、グロールフィンデルは書類に視線を落とし、 エルロンドは社長室に戻って行った。