(目を開けて、私を見なさい)

 

 グロールフィンデルは、白い光の中、ぼんやりとその銀色の影を見つめた。

 

(意識して呼吸をするんだ。・・・・・そう、いい子だ)

 

 エクセリオン・・・・・・。

 

(私と呼吸を合わせて)

 

 ゆっくりと胸を上下させ、空気を吸い込む。

 

(感じるだろう? 私の息を、心臓の鼓動を、・・・私の体温を。忘れないでくれ)

 

 息を吸い込み、吐き出す。

 

 わかる。わかるよ、エクセリオン。

 貴方の呼吸も、心臓の音も、温もりも。

 指先の感触、

 肌の滑らかさ、

 声のトーン、

 瞳の色も、髪の色も、

 

 すべて覚えている。

 

(さあ、息をしなさい、グロールフィンデル)

 

 はい・・・・貴方と共に・・・・・

 

(私たちは、一つの命を持つ生きものなのだから)

 

 

 

 

 

 白い光の中、グロールフィンデルは意識的に酸素を取り込もうと息を吸い込んだ。

 不思議な感覚。

 ここは、どこなのだろう?

 何もかも白い。

 視界の端で、銀色に揺らめく影。

 

 消毒液の匂い。

 耳鳴りのするような、機械音。

 

 身体は重く、動かない。

 なのに、頭の中は、ふわふわと浮遊している感じ。

 

 頭痛を増長するような唸るような機械音に混じって、人間の声がする。

 

(頭部の出血が酷く、内蔵もやられています。

 命があるのが奇跡といえるでしょう。

 この酸素マスクを外すことさえ危険なのですよ。

 意識が戻ることを、あまり期待してはいけません)

 

(彼は、特別な訓練を受けているのだ。

 そう簡単に死ぬものか)

 

(そんなことを言われましても、

 現に今、意識不明の状態が続いています)

 

(なんとしても命をつなぎとめるのだ。

 金ならいくらかかってもかまわない。

 強制的に意識を回復させることはできないのか)

 

(無茶を言わないでください)

 

 何を話しているのか、わからない。

 耳の奥がずきずきする。

 

「・・・・・・・エクセリオン」

 どうしたらいい?

 教えてください・・・・。

 

「ドクター!!」

 甲高い女の声が耳元で鳴り、グロールフィンデルは一度目を閉じた。

「患者の意識が!」

 ばたばたという足音が、周囲を取り囲む。

「意識が戻ったのか?! 脳波は? 心音は・・・・」

 忙しない雑音に取り囲まれながらも、自分の置かれている状況が理解できない。

 

 寒い

 寒いんだ・・・・

 エクセリオン、もっと静かな、

 暖かなところはないのですか?

 

 震える手が、何かを求めて宙を彷徨う。

 

 しかし、そこには何もない。

 

 どこに行ってしまった?

 

「エクセリオンは死んだ」

 低い声が、力を込めて言った。

「ゴンドリンは陥落したのだよ。トゥアゴンも亡くなられた。
貴族で生き残ったのは、君だけだ」

 

 サムイ・・・・・

 

 サムイ

 

「・・・・・・・・・・・」

 

 喉の奥から、まるで業火のような奇声が溢れ出る。

 

「!」

 カッと目を見開き、グロールフィンデルは酸素マスクも、
己の体中に刺さっていたチューブも、全て剥ぎ取ってベッドから飛び降りた。

「患者を押えて!」

 誰かが叫ぶ。

 カーテンの揺れる窓枠に手をかけ、身を乗り出すと、
何人もの男たちがその身体を掴んで引き戻し、床に押さえつける。

「・・・・・・・・!」

 悲鳴がほとばしる。暴れる身体を押えようとする何人かを、
グロールフィンデルは押しのけ、蹴り上げた。

「何て力だ・・!」

「鎮静剤を! 早く!」

 看護婦が手にした注射器に目を止めると、
グロールフィンデルはそこに突進して注射器を奪い、
手で握り潰して己の喉につきたてようとする。

「やめてぇーー!」

 背後から男がグロールフィンデルを羽交い絞めにし、別の者が針を叩き落とす。

「別の薬を!」

 今度は男が注射器を持ってきて、暴れる腕に突き刺した。

「・・・・・」

 誰もが一瞬気を抜く。

 その隙にグロールフィンデルは注射器を持っていた男を殴り倒した。

「ばかな・・・・!」

「もう一本だ!」

 壁際にへばりついた看護婦は、頭を振り乱して首を横に振った。

「いけません! 身体に負担がかかりすぎます! 植物状態に陥るかも・・・」

 明かに医者とは違うスーツを着た男が、看護婦に怒鳴った。

「殺されたくなければ、早く行け! こいつは、バルログをも仕留めたのだぞ!」

 蒼白になって看護婦が走っていく。

「落ち着け! グロールフィンデル! 敵はもういない!」

 スーツの男が馬乗りになってグロールフィンデルの肩を押さえ込む。

「ここは病院だ!」

 

 混乱したグロールフィンデルの頭の中には、

 たった一つの事実。

 

 エクセリオンは死んだのだ。

 目の前で。

 

「ああああ・・・・・・!」

 叫びをあげて、自分に乗りかかる男に爪を立てる。男は悲鳴を上げて転がった。

「捕まえろ! 舌をかませるな!」

 いっせいに何人かが飛び掛ってきて、グロールフィンデルの口の中にガーゼを詰め込む。

 腕を振り回して男たちを払いのけ、立ち上がる。

「!」

 その時、グロールフィンデルの動きが急に止り、ばたり、と床に倒れた。

 その背後には、注射器を持った看護婦が震えながら立っていた。

「信じられない・・・・瀕死の状態なのに」

 医者が、呆然としながら額の汗をぬぐう。

 スーツの男も立ち上がり、看護婦の持ってきたタオルで顔を押えた。

「これは、金華家の宗主だ。普通の少年ではない」

 医者と看護婦がグロールフィンデルをベッドに持ち上げ、また点滴を差し込む。

「一時的な混乱・・・・ならよいのですが」 

 

 

 

 寒い

 寒いよ

 エクセリオン

 貴方の体温が、失われていく

 

 

 

 夢と現の狭間を、いつまでも漂い続ける。

 何も考えられないし、何もわからない。

 自分が、起きているのか眠っているのかさえ。

「目が覚めましたか?」

 年配の看護婦が、おずおずと顔を覗き込む。

「鎮静剤が効いているのです。ゆっくりお休みください。・・・・・体温を測りますね」

 だらりと投げ出された腕を少し持ち上げ、看護婦は脇の下に水銀計を差し込んだ。

「話ができますか? 気分は?」

「・・・・・・・」

 グロールフィンデルはうつろに天井を見上げているだけで、何の反応もしない。
小さく溜息をついて。看護婦はボードに視線を落として何か書き始める。

 看護婦が目を離した瞬間、グロールフィンデルは素早く水銀計を己の口に入れ、噛み砕いた。

「きゃあぁ!」

 看護婦が悲鳴をあげて口をこじ開けようとする。

「ドクターを呼んで! 誰か、早くドクターを!!」

 二人の医者と看護士が駆け込んできて、
グロールフィンデルをうつぶせて口に指を入れて吐き出させようとする。

「飲み込んだか?」

「わかりません!」

「胃洗浄の用意だ! 急げ!」

 糸の切れた人形のように、グロールフィンデルはただぐったりとなされるがままになっていた。

 

 その日から、かなりの量の鎮静剤の他に、グロールフィンデルは両手をベッドに拘束された。

 

 それでも、時々驚くほどの力で暴れ、どうやったのか点滴の針を抜いてしまうこともあった。

 

 一週間が過ぎる頃、担当医は疲れきっていた。

 少年の身元引受人であるスーツの男は、毎日訪れ、様子を聞いていく。
担当医は自分の机に向かい、片手で頭を押えた。

「私は外科医です。最善を尽しています。
彼の出身地が悪い連中に滅ぼされたのは聞き知っていますし、
そこでどれほどの精神的ダメージを受けたのか、想像することもできます。
・・・・・精神科に移すことを勧めます。というより、その手続きを明日にでも取ります。
ここで、彼の治療を続けることは不可能です」

 スーツの男は、苦虫を噛むような表情をする。

 金華家のグロールフィンデル、彼の精神は死んでしまったのか。

 生きている彼を見つけたとき、どんなに喜んだか。貴重な存在だ。
今ではフィンウェの家系に従属する貴族は少なく、
しかも、ゴンドリンの泉家や金華家ほど気高く訓練された完璧な貴族は類を見ない。

 少しくらいおかしくなっていてもかまわない、というのが本音だ。

 彼は、使える。

「・・・・・・わかりました。致し方ありません。
明日までに回復の兆しが見られなければ、そちらのいいように措置なさってください」

 男は頭を下げて立ち上がった。

 もし本当に役に立たないのであれば・・・・・必要ない。

 ギル=ガラドに教えてやろう。
奴なら、ゴンドリンの生き残りを、たとえ精神を病んでいても、
喜んで引き取り保護するであろう。実父の敵であるバルログを殲滅させたのが、
このグロールフィンデルとエクセリオンなのだから。

 

 

 

 目を開けているのか、閉じているのかさえわからない。

 窓辺から銀色の光が差し込んでいる。

 手をのばそうとしても、動かない。

 届かない。

 全てが失われていく。

 何も見えない。

 

 何も聞えない。

 

 どうして、貴方の隣に行くことができないのだろう?

 

 貴方に、話さなければならないことがあるのです。

 とても、大事なことなのです。

 

 貴方の体温が、消えていく。

 

 ここは、何て寒いんだ・・・・・・。

 

「聞えているか、金華家のグロールフィンデル」

 黒い影が、視界の端に入る。

 その男は、グロールフィンデルの手の拘束を解いた。

「君は気高きゴンドリンの貴族の宗主だ。
普通の人間には想像もできないほどの訓練に耐え、己を磨いてきたはずだ。
金華家の宗主として。そして、君自身が身につけたものが、君の命を救った。

 だが、生きることを否定しているのでは、今の君に何の価値も無い。

 君を教え導いた者の努力も、水の泡と化したわけだ。

 そんな無駄な死を迎えたいのであれば、好きにするといい。

 君の指導者は、君が馬鹿な死を選ぶことを嘆くであろう」

 男は小さな塊を、そっとグロールフィンデルの手のひらに乗せた。

「君のしていた指輪だ。ゴンドリンの貴族の証。だがこれは、泉家の紋章が入っている」

 うつろに天井を眺めたまま、グロールフィンデルの指が、ゆっくりと指輪を握る。

「夜明けまでに君が目覚めなければ、君は永遠に地獄を彷徨うことになるだろう。
死ぬことも生きることもできず、自分を責め苦しみ続ける。選ぶがいい。
生きるか、死ぬか、逃げ続けるか」

 男は病室を出て行き、

 薄暗い闇の中にグロールフィンデルは一人取り残された。