大学での教育課程をほとんど修了したエルロンドは、
医学部の講義を聴講する他は、ギル=ガラドの補佐として働くようになっていた。

 大学までの送り迎えは、グロールフィンデルが車でしている。

 

 いつものように、夜、ギル=ガラドにコーヒーを運び、
個人的な話し合いや、必要とされれば彼の求めに応じる。

 それはもう、習慣だ。

 必要以上に体力を消耗し、ギル=ガラドの部屋を出る。

 ふと目を上げると、そこにグロールフィンデルが立っている。

 彼は何も言わず、片手を差し出す。
エルロンドは、空のコーヒーカップを彼に手渡す。

 時には、さりげなくエルロンドが歩くのを支える。

 グロールフィンデルがそばにいること。
自分の行動を観察していること、
必要なときには手を出し、必要としないときは黙って後ろにいること。
それが当たり前になっていく。

 ギル=ガラドに対する自尊心から、今まで弱音を吐かなかった。
自分が弱いとも思わなかった。

 今は、真に強くありたいと切に願う。

 強くなれる、と。

 肉体の疲労やストレスから、気分が沈むこともある。
振り向くと、グロールフィンデルがそこにいて、厳しい目で自分を見ている。
演技ではない自分を見抜かれる。

 そう、だから、自分をコントロールすることに全力を捧げる。

 コーヒーカップを片手で器用に持つグロールフィンデルが、エルロンドの腕を支える。

 優しい言葉の一つもなく。

 それでいい。

 

 疲れきったエルロンドを支えるグロールフィンデルが、ふと後ろを振り向く。
ギル=ガラドが、ドアの前に立ち、こちらを見ている。

 グロールフィンデルは目を細め、わずかに頭を下げた。

 

 

 

 ギルドールがギル=ガラドを訪ねるときは、
たいてい多忙なギル=ガラドの食事の時間に合わせていた。
よほどのことがない限り、それ以上ギル=ガラドに手間を取らせることはしない。

 しかし、その日は珍しく午後早くに訪ねてきた。
しばらく屋敷の中を散策した後、
大学から帰ってきたギル=ガラドをアフタヌーンティーに誘った。

 飄々と見えるギルドールだが、礼儀はわきまえている。
ギル=ガラドはギルドールのために時間をとった。

 

「金華公、手に入れたのですね?」

「ああ。君の情報どおり、カランシアの所にいた」

「彼は、よく手放しましたね」

「金華公をもてあましていてね。快く引き渡してくれたよ」

 コーヒーを口に運びながら、ギル=ガラドはほくそえんだ。

「それで、ギル=ガラド卿は金華公を手なずけたのですか」

 カフェオレを手に、ギルドールはギル=ガラドの反応をうかがう。

「今は、エルロンドのものだ」

 驚いたように数秒口をあけたままギル=ガラドを見つめ、
ギルドールはコーヒーカップを置いた。

「・・・・・金華公ともあろう者が、よくあんな若者に従いますね? 
何か魔法でも?」

 ギルドールの意見は、もっともだ。ギル=ガラドの笑みが深まる。

「だからだよ、ギルドール。金華公はトゥアゴン以外の主を認めない。
うわべだけの忠誠は誓ってもだ。それは、私に対しても同じだ。
だから、エルロンドを与えた。
グロールフィンデルは、完成された支配者に満足はしない。
だから、己で納得できるよう、己の支配者を育てるように言いつけたのだ」

 驚きの表情のまま、ギルドールがカフェオレを一口飲む。

「それで?」

「あの二人を見たかね?」

「ええ、先ほど。大学から帰ってくるエルロンドを見ましたよ。
グロールフィンデルがぴったり張り付いていました。
てっきり、あなたが指示したものかと」

「私は今、グロールフィンデルに何の指示も与えていない。
グロールフィンデルには、エルロンドの指示にだけ従うように言いつけたきりだ。
なかなか『様』になってきたと思わないかね?」

 ゆっくりと息を吐きながら、ギルドールはコーヒーカップを置いた。
満足げなギル=ガラドを見つめながら。

「ギルドール、君はエルロンドの成長を確かめに来たのであろう? 
率直な意見を聞かせてもらおうか」

 エルロンドが、以前訪れた時のままなら、
後継者選びのやり直しを進言するつもりでいた。
これは、ギル=ガラドの個人の問題ではない。一族全体の問題なのだ。

「・・・・なるほど」

 椅子の背にもたれ、ギルドールは降参したと言うように両手を広げて見せた。

「正直、驚きましたよ。たった1,2年で、こんなにも変わるものかとね。
なんていうか、自信とか、威厳のようなものが見えてきましたね。
あなたのおっしゃるとおり、
ゴンドリンの貴族を張り付かせたのが正解だったのでしょう。
僕の負けです。エルロンドを、あなたの後継者と認めましょう。金華公付でね」

 ギル=ガラドが満足気に唇を吊り上げる。

「二つほど、意見を申し上げたいのですが、よろしいですかな?」

「どうぞ」

 ギルドールは一寸だけ肩をすくめた。

「エルロンドは、あなたの血筋ではない。他の生き方をも選べたはず。
なのに、あなたが彼を選んでこの道に引き止めた。
ギル=ガラド卿、あなたの後継者ということは、
エルロンドのこれからの人生を、あなたが奪うことになるのですよ。
あなたから引き継ぐ遺産は、あまりに大きく、エルロンドの負担となるでしょう。
あなたの敵も、あなたの業も、すべてエルロンドのものになる。
あなたがエルロンドを好いているのなら、
あまり賢い選択であったとは言いがたくはないですか?」

 ギルドールの指摘されるとおりだ。
自分の遺産は、決して喜ばしいものではないだろう。
いつか、その代償としての罰を、エルロンドは受けるかもしれない。
己か、あるいは、身近な者の不幸、悪くすれば、非業の死を迎えるかもしれない。

「もうひとつは、何だね?」

「金華公です。私は、陥落前のゴンドリンを訪れました。
そこで、まだ訓練中のグロールフィンデルを見ましたよ。
トゥアゴン殿が、余興を見せてくださいましてね。
泉家の宗主との演舞でした。それはすばらしかった。まさに、一対の翼。
思い出しただけでも感動が蘇ります。
・・・・・あの時のグロールフィンデルは・・・・
今とはまったく違っていました」

「グロールフィンデルは、ゴンドリンの記憶を無くしている」

「それはきっと、幸いでしょう。
彼を育てたのは、泉家のエクセリオンです。お会いになったことは?」

「ない。噂は耳にしているが」

「それは不幸ですね。彼ほど高貴な者はいないでしょう。
まさに、ゴンドリンの秘宝、ダイヤモンドでした。
私はエクセリオンと話をしましたよ。
エクセリオンは、グロールフィンデルはまだ未完成なのだと言っていました。
人間としての当然の感情、喜びや安らぎ・・・
そういったものをまだ教えていないと。
今の金華公を見る限りでは、エクセリオンが教えられなかったことを、
彼は完全に捨て去ったようです。
金華公はエルロンドのよき右腕となるでしょう。
しかし、そこに幸福があるとは思えません」

 じっと聞き入っていたギル=ガラドは、ふとため息をついた。

「相変わらず、痛いところをつくな」

「僕は憎まれ役ですから」

 ギルドールは苦笑した。

「では、私の意見を言おう」

 ギル=ガラドはコーヒーを一口飲むと、両の指を胸の前で組んだ。

「ギルドール、確かに君の言うとおりだ。
だがな、私は希望を捨ててはいない。
いつしか、エルロンドも、グロールフィンデルも、
己の業を乗り越えられる時が来るだろう。10年先か、50年先か。
グロールフィンデルはエルロンドを支え、エルロンドはグロールフィンデルを導く。
私は、私のなし得なかったことをエルロンドに期待している。
それができると信じている。だから私は、私のすべてをエルロンドに託す。
ギルドール、君が思うほど、エルロンドは弱くはない。
金華公が、唯一主と認めた男なのだからな」

 ギル=ガラドの言葉に、ギルドールはうなだれて首を横に振り、顔を上げて微笑んだ。

「・・・あなたを、信じましょう」

 

 

 

 ギル=ガラドの屋敷を出るギルドールを、
エルロンドとグロールフィンデルが見送りに出てきた。
ギルドールは2言3言エルロンドに話し掛け、
ちらりとグロールフィンデルを見る。
エルロンドの数歩後ろで、グロールフィンデルは頭を下げる。

「グロールフィンデル、私を覚えているかね?」

 ためしに、そんなことを聞いてみる。案の定、グロールフィンデルは無表情のまま

「申しわけありませんが」

 とだけ、答えた。

 

 帰りの車の中、ギルドールは後部席で目を閉じた。

(エクセリオン殿と話をしてもよろしいですか?)

 トゥアゴンに申し出たときのことを思い出す。

(もちろんですよ。では、街を案内させましょう)

 背の高いエクセリオンと並んで歩きながら、
ギルドールは先ほどの演舞のことを褒め称えた。

(ありがたいお言葉ですが、ギルドール様、所詮は演舞です。
あの程度の技術なら、誰にでも習得できます)

(そうは思えませんよ。
息もぴったり合っていて、・・・本当に、まるでひとつの生き物のようでした。
グロールフィンデル、でしたね? 金華家の宗主として十分ふさわしいようです。
まさに、ゴンドリンの双璧ですね)

 エクセリオンは苦笑した。

(いいえ。まだまだ・・・。彼にはまだ、技術面しか教えていません。
本当はもっと、大切なことを教えなければならないのですが・・・・
このような時勢ですから、どうしても後回しになってしまって。
それが、私は心残りでなりません)

(大切なこと・・・とは?)

(真の忠誠心。それと、己を保つ方法です。
主を愛していなければ、心からの忠誠は誓えません。
愛情のかけ方を、彼はまだ知りません。
それに、人生を楽しむ方法も。光と闇は表裏一体です。
自分に厳しくあることは教えましたが、自分に優しくすることは教えていません。
何かを楽しむことを知らなければ、神経は常に緊張し続けて、
最もよい状態に自分を保っていることができなくなります。
・・・簡単に言ってしまえば、笑うこと、です。
もっとも、私とて自分に厳しくあり続けました。泉家の宗主として。
その責任だけを全うしてきました。
他者から見てこうあるべき自分というものを、自分で作ってきました。
しかし・・・正直な話、グロールフィンデルを育てているうちに、
その自分の落とし穴に気がついたのです。
自分の欠けている部分を、グロールフィンデルの内に見てしまったのです。
先ほどギルドール様は、ひとつの生き物のようだとおっしゃってくださいましたね? 
まさにそのとおりです。
私は、グロールフィンデルといると、本来の自分になれる気がするのです。

グロールフィンデルの内に、喜びを感じるのです。

ギルドール様は、ご自分の感情や行動、なすべきことをよく理解し、
うまくコントロールなさっています。それほどまでの人格に、私はまだなれません)

(金華家の、あの少年となら、本当の自分の理想とする人間になれる、と?)

(そうです)

 それほどまでの、愛の告白を、耳にしたことがあったであろうか。

 ギルドールは、こんな暗黒の時代、
迫り来る破滅の恐怖の中にあっても、そこにダイヤモンドの輝きを見た気がした。
暗闇でも光を発する、ダイヤモンドの。

(すばらしいパートナーを、お見つけになられたのですね)

(彼は、私自身です)

 

 ギルドールは、ふと目を開けて窓の外を見た。

「僕も、希望を抱くようにしよう。ギル=ガラド。
そうでもしなければ、哀しすぎる。
エルロンドも、グロールフィンデルも・・・・あなたも」 

 

  

 

 ギル=ガラドは、いつもの夜の時間、エルロンドと向き合った。

「グロールフィンデルとは、上手くやっているかね?」

「はい」

 エルロンドは自信たっぷりに答えた。上手くやっている。
もちろん、不安がないわけではない。だが、彼を導けるのは自分だけだと思う。
もっと時間はかかるかもしれない。
でも、彼には自分が必要で、自分は彼なしにやってはいけない。

「グロールフィンデルを、理解できたか?」

「すべてを理解することは不可能です。
資料ではなく、実際彼がどんな人生を歩んできたのか、
どんな環境にいたのか、本人が押し殺していることを垣間見ることは不可能です。
しかし、彼が過去に怯えていることは知っています。
ならば、私は彼をそこから引き離してやるだけです」

 ギル=ガラドは、ギルドールとの会話を反芻していた。
グロールフィンデルの過去を、ほんのわずかでも知っているのは、
ギルドールだけだ。そして、それを教えてくれた。

 たぶん、一番重要なことだ。

「グロールフィンデルを教育したのは、エクセリオンという男だ。
泉家の資料は読んだね?」

 エルロンドがうなずく。

 ギル=ガラドは、机の引き出しから、
隠し持っていた小さな箱を取り出して、エルロンドの前に置き、ふたを開けた。

 そこに入っているのは、あの指輪。

「カランシアは、これがグロールフィンデルの唯一の所持品だと言っていた。
そしてこれは、エクセリオンのものだ。その意味がわかるか」

 指輪をじっと見つめて、エルロンドが息を飲む。

 あの時はたいして気にしなかったが・・・。

「想像する以上のことはできない。だが、わかるな? 
グロールフィンデルの狂気の源は、ここにある。
これは、彼の命、そのものだ。これは君に預ける。
今のグロールフィンデルは、これを必要としない。
これからもずっと、必要としないかもしれない。
だが、いつしか・・・グロールフィンデルが己と向き合うときが来たら、
君がこれを彼に返してあげなさい。もしくは、処分しなさい。
君はこれから、私の後を継いで、多くの者の命を預かる。
これは、その最初の命だ。それが、君に負わされる責任だ」

 そっと指をのばして、指輪に触れる。
グロールフィンデルが封じ込めている光。それが、これ。

 ぱたりとふたを閉じ、エルロンドは箱を引き寄せた。

「確かに、お預かりしました」

 

 

 

 ギル=ガラドの後を継いで、その地位に立つ。

 多くの者の命を預かる。

「私に、その資格があると思うか」

 エルロンドの脱いだスーツを受け取りながら、
グロールフィンデルはにこりともせずに言った。

「他者がどう思うかではなく、己にその自覚があるかどうか、ではないでしょうか」

「厳しいな」

 エルロンドは口元をゆがめた。

「甘やかされたいのでしたら、側近は別の者をお選びください」

 脱いだシャツをグロールフィンデルに渡して、エルロンドは小さく笑った。

「私に必要なのは、お前だ。グロールフィンデル」

 お互いにお互いを支える。傷の舐め合いは、決してしない。

「お前の命は、私が預かっている」

 

 いつか、この指輪を返せるときが来ることを、祈ろう。

 お前が、笑える日が来ることを。