「エルロンド、すまないがグロールフィンデルを借りる」 ギル=ガラドはそう言って、グロールフィンデルを連れて行った。 何のために。 それは、彼がここにいる本来の理由。 ギル=ガラドが敵対している連中との紛争に借り出されるのだ。 作戦にはエルロンドも会議に参加し、戦況は常に把握している。 そしてグロールフィンデルは、本来の戦闘能力を充分に発揮し、味方を勝利へ導く。 グロールフィンデルの学習能力は高い。 そして、学ぶことに対して真摯だ。 確かに、エルロンドが知らないことは多いし、 気品高いグロールフィンデルから学ぶことは多い。 それでも、エルロンドが知っていてグロールフィンデルが知らないことも、多かった。 エルロンドは意識して、己の知っていること、 知識をグロールフィンデルに見せることにした。 そうすることで、彼の態度は変わる。 エルロンドは、自分の勉強の資料を屋敷の図書室に求めることが多い。 今までは自分で探していたのだが、 何気なくそれをグロールフィンデルに持ってきてもらえるよう頼んだことがあった。 当然、エルロンドほど図書室を熟知していないグロールフィンデルは、 本を探すことに手間取る。エルロンドは本の整理の仕方をグロールフィンデルに教え、 図書室の本の並べ方を覚えるように指示してみた。 すると、驚くほどの集中力でグロールフィンデルはそれを覚えた。 そうやって、新しいことを覚えたときのグロールフィンデルは、生き生きして見えた。 そうだ。こうやって彼を新しい環境に取り込んでいけばいい。 まったく新しい環境を与えてやれば、過去の呪縛から苦しむことも減るかもしれない。 血なまぐさいことから離れて、新たな環境に身をおけば・・・。 グロールフィンデルの治療のことばかりを考えていたエルロンドは、 ギル=ガラドの言葉にハッとさせられる。 彼から、銃を取り上げることなど、できない。 なぜなら、それが彼がここにいる理由なのだ。 グロールフィンデルは、救済されるためにここにいるわけではない。 ここは、病院でも救世軍でもないのだ。 グロールフィンデルのことを理解する必要はない。彼の動かし方を学べばいい。 ギル=ガラドはそう言っていた。 だが、理解せずにどうやって動かすと言うのだ。 数日して戻ってきたグロールフィンデルは、 その前にエルロンドが散々苦労して和らいだ状態を与えていたのにもかかわらず、 また冷酷で非情な冷たい目の色を取り戻していた。 鈍く輝く瞳を直視したとき、 エルロンドは自分のやっていたことが無駄で無意味なことではないかと思えた。 何かが足りない。 何か、重要なことを見落としている。 夜、グロールフィンデルの部屋に行くと、彼は座ってただ外を眺めていた。 いや、何も眺めてはいない。放心しているように、顔を正面に向けているだけ。 その傍らに、数錠の睡眠薬を置く。 「グロールフィンデル」 エルロンドの声に、反応もしない。エルロンドはため息をついた。 「・・・・・君の、恐れているものは、何だ?」 答えを期待せずに呟く。 数刻の間を置いて、グロールフィンデルは手探りで薬を拾い、 一粒ずつ口に入れて噛み砕いた。 そんな飲み方をしては、だめだ。 薬の効き目が弱まるし、内臓をいためる。 グロールフィンデルは、儀式のように薬を噛み砕く。 薬の効能を期待して飲んでいるわけではない。そうせずにはいられないのだ。 「何が君を怯えさせる」 最後の一粒を噛み砕き、飲み込んだとき、グロールフィンデルは唇を動かした。 「・・・・・・光」 それは、意図して発せられた言葉なのか。 闇ではなく、光。 その光の意味を、エルロンドは問うことができず、その場を去った。 いつもの時間、いつものようにギル=ガラドにコーヒーを運ぶ。 彼は、疲れているように見えた。 そんな時、儀式のように行なわれる行為。 エルロンドは、何も映さないギル=ガラドの瞳を見上げる。 本当は、性欲などないくせに・・・・そうせざるを得ない何かがあるのだ。 頭の中に渦巻いている、あらゆる事象を整理し、ほんの数分でも空っぽにできる。 そのための行為。 ギル=ガラドはグロールフィンデルと同じ世界にいる。 本人の意思とは関係なく、周囲の者が彼を必要とする。 彼を祭り上げる。 そこには、望みも希望もない。 彼が、感情のある人間であることさえ、否定されてしまう。 自我の崩壊。 だが、強い精神力が、彼をそこに留める。 誰にも理解されることなく。 なら、自分がここにいる意味は、何なのだろう? なぜ、彼の心の底辺を見せられるのか。 なぜ彼は、私の前で完璧な指導者のままでいないのか。 受け止められることを 期待しているのだろうか。 彼に、何をしてあげられるのだろう。 ただ黙って、彼の、自分でも認めたがらない欲望を満たしてやることだけなのか。 自分と彼らの違いは・・・・ どこにあるのだろう? ギル=ガラドは、いつものように衣服を整え、冷めたコーヒーを飲み干す。 そして、エルロンドに退室を命じる。 エルロンドは、空いたコーヒーカップを持って、彼の部屋を出る。 自分は、どうあるべきなのか。 夢を見ていた。 夢であることは、わかっていた。 その何もない空間にいる子供は、自分なのだから。 何もない、白い空間。 豊かな光り輝く髪をした女が、前を歩いている。 子供は、必死に母の後を追った。 (そっちに行ってはだめ! お母様! そっちに行ってはだめだ!) 光り輝く靄が、足に絡み付いて上手く走れない。 (お母様!) 女が、靄の中にゆっくりと沈んでいく。 沈んでいく。 白く細い指が、波間を漂う蝶のように、見え隠れする。 (お母様! ・・・・お母様が沈んでしまう! 助けて! エルロス、早くお母様を・・・!) 振り向くと、そこにいるはずの兄弟の姿がない。 (エルロス?) あんなにいつも一緒にいたのに。いつもお互いを支えあっていたのに・・・。 (どこに行ったんだ? エルロス!) 支えてくれる肉親を探して、同じところをくるくると回る。 (エルロンド) 耳元で、懐かしい声がする。 (エルロス? どこにいるんだ?) (エルロンド、お母様は殺された) (エルロス・・・・違う・・・) (殺されたんだ) (違う! 出てきて! ここに来て!) もがけばもがくほど、靄が足に絡み付いて、動けない。 (エルロンド、誰も俺たちを、お前を、愛してなんかいない) (マグロールは愛してくれている) (愛してなんかいない。罪の意識が、奴にそうさせているだけだ。 己の罪の深さに・・・ほら、お前だって見ていただろう? 奴の表情を。 俺たちを愛しているんじゃない。罪の償いを、ほんのわずかでもしたかっただけ) (エルロス・・・) (お前は、自ら祭壇に上がった。生贄を捧げる祭壇に。お前は、奴らの生贄なんだよ) (違う) (奴は、お前に何を与えた? お前を飾り立て、後継者と言う名の祭壇にお前を縛りつけ、お前を食らい尽くす。 骨まで食われて、お前は苦しみ続けるんだ) (違う・・・エルロス、お願いだから、ここに来て) (かわいそうなエルロンド。お前は自分を捧げて、奴らの人形になる) (違う! エルロス!) 動かない体から、いっぱいに手を伸ばす。 何もない空間を掻き毟り、救いを求める。 (エルロス・・・僕をひとりにしないで・・・・・) ここにいる ふわりとした光の粒が、エルロンドを包んで、伸ばした指を強く握った。 「!」 エルロンドは飛び起きた。 「・・・・・・あ」 顔にかかる、光のような金色の髪。 「グロールフィンデル?」 その青年は、じっとエルロンドを覗き込んでいた。 「うなされて・・・おられました」 静かな声が、そう囁く。 「手を、お放しください」 エルロンドは、自分が握っていたのが彼の手であったことに気がついた。 慌てて離すと、グロールフィンデルは体を起こした。 「どうして・・・?」 「起床の時間です」 荒げた息のまま、時計を探す。時刻は6時きっかりだった。 何度か大きく深呼吸をして息を整える。 グロールフィンデルは、エルロンドの衣服を揃えていた。 「・・・・冷たい、指だな」 「体温が低いのです」 そうだった。彼の平熱は、異常なほど低い。 夢の欠片を追い払うように、額の汗をぬぐう。 すると、目の前に水の入ったグラスが差し出された。 「お飲みください。落ち着きます」 水を受け取り、グロールフィンデルを見る。 彼は、また自分の作業を続けていた。エルロンドのスーツにブラシをかける。 透明な水を一口飲むと、悪夢がすうっと引いていった。 そうか。そういうことか。 グロールフィンデルが濡らしたタオルを差し出す。 「ご自分でお拭きになりますか?」 他人に体を触られることを、 エルロンドが嫌がっていることをグロールフィンデルは覚えていた。 「いや、シャワーを浴びる」 起き出してバスルームに行き、エルロンドは汗をかいた体を洗い流した。 グロールフィンデルから新しいタオルを受け取り、体を拭く。 「お座りください。髪を乾かします」 言われるままに椅子に座ると、 グロールフィンデルは慣れた手つきでエルロンドの髪にドライヤーを当てた。 いったい、誰にそうしてきたのだ? お前は、いったい、誰にかしずいてきたのだ? 誰のために腕を磨き、 誰のために勉強をし、 誰のために料理を覚え、 誰の髪を乾かしてやったのだ? 誰のための、命なのだ? 「・・・お前の言っていた、光の意味がわかった」 エルロンドは、静かに言って振り向いた。 「それは、人間の、最も人間らしい感情。 悲しみ、絶望、不安、孤独、喪失感・・・。 あるいは、執着、渇望、慈しみ、快楽、愛情・・・。 お前が恐れているのは、お前の感情そのものだ」 ドライヤーやブラシを片付け、エルロンドに白いシャツを差し出す。 エルロンドは立ち上がってそれを受け取ると、袖を通した。 「お前はそれを封じ込め、思い出すことを恐れている。 お前の感情が、お前を殺す。・・・・だがな、私はそれを恐れない。 母の死を認め、そう仕向けた男に許しを与える。 私から離れていった唯一の肉親を、羨まない。追わない。 私は逃げない。甘えない。私は自分の意志でここにいる。 ギル=ガラド卿の影響力に流されない。 私は自らの力で、私の道を切り開く。自分の足で歩く。 グロールフィンデル、お前は私の作った道を歩けばいい。 お前を守ろう。 私にはお前が必要だ。 感情を殺したお前が、感情に迷った私を導くだろう。 お前は、私の手を絶対に離すな」 グロールフィンデルは、エルロンドを凝視したまま立ちすくんだ。 じっと見つめ合う。 エルロンドが、すっと右手を差し出す。 グロールフィンデルは跪き、その薬指に唇を寄せた。 エルロンドは知っていた。ゴンドリンの資料を熟読していたから。 それは、貴族が襲名を受けたとき、その主に忠誠を誓う姿勢だった。