あの青年が起き出して来る前に、ギル=ガラドは車に乗り込み、
カランシアの屋敷を後にした。一週間後、彼を出頭させるように言いつけて。

「中毒とは言いませんが、完全な薬物の依存症です。
精神科のカウンセリングが必要でしょう」

 居たたまれなくて、エルロンドは発言した。

 あの状況は、どう見ても異常だった。

 カランシアという男の対応も。

 それでもあの青年を引き取りたがるギル=ガラドが、理解できない。

「エルロンド、ダイヤモンドの特徴を述べなさい」

 唐突な質問に、一瞬言葉に詰まる。

「・・・・・炭素だけからなる鉱物です。
等軸晶系で、多くは正八面体、斜方十二面体をなします。
地球上でもっとも硬度の高い物質と言われ、光に対する屈折率が大きく、
暗所でも幾分かの光輝を発します」

 エルロンドの答えをじっと聞いてから、ギル=ガラドは口を開いた。

「ゴンドリンの貴族は、高貴なダイヤモンドだ。
そう簡単に壊れもしないし、輝きを失うこともない」

 ギル=ガラドがゴンドリンの金華公を探していたことは知っている。
それが、あんな状態であっても・・・?

「ダイヤモンド・・・ですか?」

「ゴンドリンの秘宝だ。君にも今にわかるだろう」

 確かに、鋭利な刃物のような瞳であった。それでいて、虚空。
カランシアという男が言っていたとおり、心のない人形。
エルロンドはそれ以上の反論は控えた。

 

 

 

 一週間後、ギル=ガラドの館に現れたその青年を見て、
エルロンドは目を疑った。

 そこに、狂気の影はなかった。

 まさに、美しく高貴な風貌をしている。

 迎え入れたギル=ガラドは満足げであった。

「君には、私の側近の地位を与える。以後私の命令のもとに働きなさい。
主な任務は、私の護衛である。
しかし、まずはここでの生活に慣れることが先決である。
その上で君に指示を与える。
私は多忙で、慣れるまで君の面倒を見ていることなどできない。
わからないことは、屋敷の者か、・・・そこにいるエルロンドに聞きなさい」

 しわ一つない黒のスーツに身を包んだグロールフィンデルは、
エルロンドをちらりと見やり、頭を下げた。

 

 

 

 グロールフィンデルの態度は、徹底していた。

 初日にまず、屋敷のすべてを頭に入れた。
どこにどんな部屋があるかというだけではなく、その面積や構成まで。
屋敷に従事している人物、人数、それは使用人や調理師、庭師にいたるまで。

 そして、ギル=ガラドの側近の地位を与えられたにもかかわらず、
メイドの一人にまで敬意を表した。

 エルロンドと歩くときには、特に注意が払われているようであった。
グロールフィンデルはエルロンドより背が高い。
姿勢はいいが、常に伏せ目がちで、決してエルロンドを上から見下ろしたりはしない。
それに、必ず一歩後ろを歩いた。

 それは、生まれついた習慣であるかのように。
それでいて、卑屈には見えない。厳しく教育された執事のようである。

 

 半年に一度、ギル=ガラドは新しいスーツを新調する。
エルロンドも必ず新しいものを作られた。
いつものように仕立て屋が採寸に現れたとき、
ギル=ガラドはグロールフィンデルも新しいスーツを作るよう命じた。

 仕立て屋が直接採寸に来るなどという習慣は、
ここに来るまでエルロンドにはもちろんなかった。
はじめは戸惑いもあったが、今ではその習慣に慣れていた。

 同じ部屋で採寸を行なうグロールフィンデルを、観察する。
彼は、そうされることに慣れていた。

「仕上がりに何かご注文はありますか?」

 職人に尋ねられ、グロールフィンデルは採寸表を自ら手にとった。

「肩回りの自由が利くよう、余裕を持たせてください。
それから、ズボンのすそはダブルで、少しゆったりめに。
内ポケットの位置は・・・・・・」

 職人に指示を与えるその青年に、エルロンドは驚きの目を向ける。
彼は、自分にあった服を、完全に理解している。
自分の行動パターンに、服を合わせる術も心得ている。

 仕立ての形や生地の種類を指定した後、
ただ職人に任せっきりにしているエルロンドに、目を向ける。
ゆっくりとエルロンドに近づいてきたグロールフィンデルは、
それまでエルロンドが着ていたジャケットを手に取り、エルロンドに羽織った。

「これも、そちらで作ったものですか?」

 職人が、びくりと身を震わせる。

「・・・・・はい」

 エルロンドのスーツの、襟の裏まで指を走らせ、隅々まで確かめる。
それから、グロールフィンデルは職人に向き直った。

「エルロンド殿はそれほど肩幅がないので、
襟の形をもう少し変えた方がよいでしょう。
それから、細身のスーツは若々しく見えますが、
ギル=ガラド卿のおそばに仕えることを考えますと、
若すぎては軽蔑の対象にもなりかねません。
もっとオーソドックスで古風なデザインを薦めます。
生地ももっと光沢を抑えて。ボタンもです。
これでは、裕福な学生にしか見えません」

 驚くエルロンドと、視線を合わせる。
それは、自分の服の選び方も知らないのかと非難しているようにも見えた。

「それとも、これはあなたのご趣味ですか?」

「・・・・・・・いいえ。いつも、任せていたもので」

 そう応えるエルロンドは、気恥ずかしささえ感じる。

「では、もう少し自覚をお持ちになった方がよろしいでしょう」

 それは、酷い侮辱だった。

 エルロンドは、彼の偉大さを思い知らされた。

 ギル=ガラドは言った。ゴンドリンの貴族はダイヤモンドだと。

 彼は、生まれながらの貴族なのだ。

 自分とは違う。

「失言をお許しください」

 呆然とするエルロンドに、グロールフィンデルは深く頭を下げた。

 とても、同年代の青年とは思えない。

 

 ダイヤモンドは、そう簡単に輝きを失うことはない。

 

 ギル=ガラドの言うとおりだ。

 これほど美しく完璧な貴族を従えたトゥアゴンとは、
どのような人物であったのか。
ゴンドリンとは、どれだけ壮健な街であったのか。
どれだけ大きな損失を被ったのか。

 今は、記録の中でしか知る由がない。

 

 その夜、グロールフィンデルはギル=ガラドの元を訪れ、
服を新調してもらえる礼を言った。

「もしお許しがいただけるのでしたら、もう何着か作っていただきたいのですが」

 ギル=ガラドは驚きもしない。

「今までの服が、窮屈になってきたもので」

 グロールフィンデルは、短くなりかけている袖を掲げて見せた。

「君は成長が早いようだ。これからもっと背が伸びるだろう。
よろしい。必要なだけ注文しなさい。
エルロンド、業者の連絡先を教えてあげなさい。
身に付けるものの選び方など、君も参考にするとよい」

 エルロンドも、了承を示すように頭を下げた。

 グロールフィンデルと言う青年。自分とは格が違う。
ギル=ガラドと立ち並ぶだけの気品を持っている。

 これが、あの屋敷で大量に安定剤を飲んで眠っていた青年なのか。

「エルロンド」

 気後れを感じるエルロンドの心情を読むように、ギル=ガラドはその名を呼んだ。

「君が彼から学ぶことは多い。わかるね?」

「はい・・・」

 一歩後ろに立つグロールフィンデルを横目で見る。

 ギル=ガラドが欲していた、金華公。

 これほどまでのものであったとは・・・・。

「お言葉ですが、ギル=ガラド卿、私はただ主に仕えるだけの身です。
何かを教えることなどできません」

 きっぱりと言い切るグロールフィンデルに、ギル=ガラドは細く笑った。

「私はよいものを手に入れた」

 

 

 

 一旦部屋に戻り、いつもの時間にコーヒーを持っていく。

 大学での一般教養は、ほとんど単位を取り終えていた。
今は、医学部の講義を聴講している。
それに関しては、ギル=ガラドから教えを請う事はない。
それでも、彼から直接学ぶ帝王学にはきりがなかった。

 ギル=ガラドからもろもろの学問を学ぶことは、エルロンドの喜びでもあった。
学ぶと言う行為そのものが、好きだった。

 少しでも彼に近づければ。

 しかし、グロールフィンデルが来てから、
エルロンドには心に陰りを感じていた。
それは、決定的な差、である。
エルロンドは確かに天才的であったが、
生まれながらに厳しい躾を叩き込まれ、
貴族としての習慣を身に付けているグロールフィンデルとは、
別世界の人間のように思えるのである。
ギル=ガラドも、そちら側の人間だ。

 なら、なぜ遅いスタートを切った自分が、
ギル=ガラドの一番近い位置に置かれるのであろう? 
エルロンドの複雑な血筋は別として、
少なくとも貴族としての育てられ方はしてこなかった。
本来なら、ギル=ガラドの後継者として育てられるのは、
グロールフィンデルのような人物であろう。

「グロールフィンデルに、嫉妬を感じているのかね?」

「いえ・・・・・」

 唐突な問いに、とっさにそう答え、しばらく考えてから、

「はい」

 と、訂正した。

「私は、決してダイヤモンドなどではありません」

 ギル=ガラドは予測していたように、さもおかしげに鼻先で笑った。

「エルロンド、人がなぜ石を磨くのか、
炭素の塊に輝きを与えようとするのか、わかるかね?」

「?」

 返答につまり、小首を傾げる。

「それは、己の身を飾るためだ。どんなに磨かれた宝石も、
それ単体では意味をなさない。主を飾ってこその輝きなのだよ。
それを持つ者に価値を与える。いいかね、君の考えていることはわかる。
だが、グロールフィンデルは人の上に立つ存在ではない。
本人も自覚しているように、主に価値を与えるための存在だ。
彼に、帝王学などは必要ない。
彼に必要なのは、主に恥をかかせない存在たる自分を作ることだ。
衣服ひとつとってもそうだ。決して、みっともない姿はできないのだよ。
そういう意味で、彼は完璧に磨かれたダイヤモンドなのだ」

 宝飾品としての存在・・・・。

「彼の主たる人物になるには、それを使いこなせるだけの器量が必要になる。
宝石の価値のわからない者がどんな高級品を身につけても、意味がないようにね。
たとえば、カランシアなどはそうだ。金華公の本当の価値を理解していない。
その一部分だけを見て、それを利用していたに過ぎない。
結局はもてあましてしまう」

 開いていた本を閉じ、ギル=ガラドはエルロンドの首筋に手をかけた。

「・・・・・ギル=ガラド卿・・・・」

 そう、あの宝石を使いこなすのだ。

 

 最後の戦いの前に・・・・・。

 

 エルロンドは、ギル=ガラドを見据えていた瞳を閉じた。

 

 

 

 椅子にもたれかかり、浅い息を整えていたエルロンドも前に、
一枚のメモが差し出された。

「衣服や靴などの発注先だ。これからグロールフィンデルに渡しに行きなさい。
自分で好きなものを必要なだけ発注するように。
もしこの業者で納得がいかないのなら、別のところに注文して、
領収書を回してくれてもかまわない。
自分で納得のできる環境を、自分で作るよう、伝えなさい」

 メモを受け取ったエルロンドは、もう一度息を整えようと深呼吸をした。

「・・・・・今から、ですか? こんな時間に・・・・」

「従者たる者は、主の生活時間に合わせるのだ。
私が必要とするなら、夜中でも早朝でも馳せ参じなければならない」

 あの公子を、そのように扱うのか。それが、主たるギル=ガラドの威厳。 

「メモを渡した後、君は休みなさい、エルロンド」

 それが、エルロンドに対する特別扱いになる。

「わかりました」

 メモを握って、エルロンドは立ち上がった。

 

 

 

 グロールフィンデルの部屋の前で立ち止まり、
ふと自分の衣服は乱れていないか、気になった。
こんな時間に、誰かに会うなど、予想外だ。
ましてや・・・・・ギル=ガラドとの私的な時間を過ごした後に。

 大丈夫だ。

 自分に言い聞かせて、ドアを叩く。

 返事がない。眠っているのか・・・。もう、12時を過ぎている。

 もう一度ドアを叩いて、エルロンドはいやな予感を感じた。
初めてあの屋敷で彼を見たときのことを思い出す。

 

 まさか・・・。

 

「グロールフィンデル殿、ギル=ガラド卿より伝言があります」

 声をかけてから、ドアを開く。鍵はかかっていない。

「グロールフィンデル・・・・・」

 部屋に入り、周囲を見回す。バスルームから水音が聞こえる。
シャワーを浴びているのか。
安堵のため息をつき、出てくるのを待とうと近くにあった椅子を引き寄せる。

「・・・・・・」

 部屋は閑散としている。
エルロンドが机やベッドの上に本を置きっぱなしにしてしまうように、
物騒な銃火器が平然と置かれている。

 何種類かのハンドガンを眺めながら、
ああ、スーツにゆとりを持たせるのはこれらを装備するためなのだと納得する。

 それにしても・・・・なぜ安全な屋敷内でも武器を手放さないのだろう。

「・・・・・・・」

 何か異様さを感じ、エルロンドは立ち上がってバスルームに向かった。

「グロールフィンデル殿?」

 洗面所のドアを開けて、息を呑み、次には彼の名を叫んだ。

 グロールフィンデルは、服を着たままびしょ濡れて、そこにうずくまっていた。

 彼の足元に、空になった薬ビンが落ちている。

「!」

 腕を掴んで上を向かせる。脈を計り、瞳孔を調べる。

 いったい、どれくらいの量の薬を飲んだのか。

 引きずるようにバスルームに押し込み、うつむかせて口をこじ開ける。

「吐きなさい! 吐くんだ!!」

 熱い湯気の中で、咽かえる。

 グロールフィンデルは胃液を吐き出した。夕食は一緒にとったのだ。
なのに胃液を吐くとは・・・・もう、一度もどしてしまっているのか。

 エルロンドは自分が濡れるのも気にせず、
ぐったりとしているグロールフィンデルの服をむしり取って、
温度を調節したシャワーをかけた。

 

 お湯を止め、乾いたタオルで包み込んでベッドまで引きずっていき、
そこでやっと深呼吸をする。体力はある方だが、筋肉質の彼は、重い。
それに、今夜はもう疲れていた。

 もう一度脈などを計る。

 飲んだのは睡眠薬と頭痛薬。量はわからない。
本当なら、すぐにでも胃洗浄をしたいくらいだ。
入院させて、検査をし、精神科のカウンセリングを受けさせて薬をやめさせる。

 部屋の中をうろうろ歩きながら、そんなことを考える。

「早くお着替えになってください。体が冷えます」

 思いがけない冷静な声に、エルロンドはビクリと飛び上がった。

 今、意識は混濁していたのに?

「グロールフィンデル殿・・・・?」

 ベッドから降りたグロールフィンデルは、
確かな足取りでタオルを取りに行き、エルロンドに手渡した。

「・・・大丈夫、なのか?」

「何がですか?」

 どうなっているんだ? 

 タオルを受け取りながらも、転がっている薬ビンに目をやる。
グロールフィンデルは、エルロンドのその視線に気がついた。

「頭痛がしたので、薬を少し」

 少し?

「大量に摂取しましたね? 意識を失っていたので、吐かせたのですよ」

 平然としているグロールフィンデルに、苛立ちを感じる。
そんなエルロンドに、グロールフィンデルは挑戦的な眼差しをむけた。

「それは、申しわけありませんでした」

「あなたは、死にたいのですか!」

 怒りを表すエルロンドの声色に、
グロールフィンデルはくるりと背を向け、
自分のシャツを取り出して袖を通した。

「そのようなつもりはありません。ご迷惑をおかけしました。
それで、私になにか用だったのですか」

 ハッと気づいて、エルロンドはスーツの胸ポケットを探る。
ギル=ガラドに渡されたメモは、びしょびしょに濡れてインクがにじみ、
もう読めなくなっていた。

 仕方がない。ため息をつく。

「何か、書くものはありますか?」

 グロールフィンデルは、机の引き出しから紙とペンを出した。

 ペンを受け取ると、エルロンドはそこに電話番号と業者の名前を書いた。
さっき一度見ただけで、それらは暗記されていた。

「衣服や靴など、必要なものは必要なだけ注文するようにと、
ギル=ガラド卿からの伝言です」

 メモを受け取ったグロールフィンデルは、
「ありがとうございます」と頭を下げた。

「エルロンド殿、早くお戻りになり、体を温めてお休みください」

 それは、早く出て行け、ということか。

 エルロンドは肩を落として頭を横に振った。

 

 とても、普通ではない。

 

 だが、何を言っても無駄だろう。

 独りにするのは不安だ。まだ、どれくらい薬を隠し持っているのだろう?

 それでも、他者の前では平然としていられる。

 それは、精神力の強さか。

「わかりました。でも、くれぐれも薬の摂取にはお気をつけなさい」

「ご心配は無用です」

 ギル=ガラドが、「ギル=ガラド」という人物を演じているように、
彼もまた、己を演じているのか。

 

 彼の救いは、どこにあるのだろう・・・。

 

 エルロンドは、グロールフィンデルの部屋を出た。