秘書室で猛烈な仕事をこなしながら、グロールフィンデルはふと手を止めた。  完全に密閉された部屋、完璧な空調。  背後の窓ガラスははめ殺しで、開けることはできず、常にブラインドを下ろして日光さえろくに差し込まない。  パソコンのキーボードを叩く手が、また動き出す。  せわしなくキーボードの上を指が這い回りながら、 (桜は咲いたか)  そんな言葉が思い浮かぶ。  視線が、パソコンのモニターの右端に行く。 (こんな時間か)  今日は珍しく来客が少なく、会議も午前中のみだった。  パソコンをシャットダウンしながら立ち上がり、秘書室の隅に据え付けられている給湯コーナーに向かう。  コーヒー好きのエルロンドのために、ここで湯を沸かし、コーヒーを煎れることができる。  コーヒーメーカーなど使わない。  コーヒー豆も、グロールフィンデルが自ら選んでくる。来客用に砂糖とミルクもあるが、エルロンドはブラックだ。  慣れた手つきでコーヒーを煎れると、グロールフィンデルはノックを一度だけして、社長室に入る。 エルロンドも、(もうそんな時間か)という顔をする。 「少し、空気を入れ替えましょう」  そう言って、グロールフィンデルは社長室の窓を少し開けた。  春の暖かい風が吹き込んでくる。  そんな何気ないグロールフィンデルの行動に、エルロンドは微笑む。 「なんですか?」  頬を緩ませるエルロンドに、グロールフィンデルは不愉快そうに眉を寄せる。 「いいや、何でもない」  そう答えて、エルロンドはコーヒーに口をつける。  空気を入れ替える、なんて、昔のグロールフィンデルなら、思いつきもしなかっただろう。  空気を入れ替える必要などない。ここの空調は完璧なのだ。  グロールフィンデルは、窓辺で外の匂いを嗅いでいる。 (春の香りだ) 「春のにおいがする」  その男は、そう言って風を大きく吸い込んだ。 「春のにおい、とは?」  グロールフィンデルは首をかしげる。  春のにおい、とは何だろう。花の匂いだろうか。確かに、この季節、匂いのする花が咲きだす。 「春のにおい、とは、花の匂いでしょうか」  男は振り向いて笑う。 「そうだね、花の匂い、若葉の匂い、土の匂い、地から這いだす虫の匂い、発情する動物たちの匂い…」  グロールフィンデルはつと眉根を寄せる。 「花と若葉と土まではわかりますが…」 「春は発情の季節だよ。なんだか体がむずむずしないかい?」 「わかりません」  冗談だというように、その男はくすくすと笑う。 「はいでは問題。このにおいの成分を挙げなさい」  はっとグロールフィンデルは表情を崩し、あちこちに顔を向ける。 「花の種類、草の種類、虫の種類、一時間後にリビングでお茶を飲みながら報告を聞こう」  くるりと背を向け、男は屋敷に向かって歩き出す。  丘の上に一人残されたグロールフィンデルは、なぜか不安(と恐怖)を感じ、彼の名を呼ぶ。 (待ってください、私を、置いて行かないでください) 「グロールフィンデル」  その男は振り向き、笑う。 「私は、きみを置いて行きはしないよ。待っている。ちゃんと、待っているよ」   「エクセリオン」 「グロールフィンデル」  不意に肩を掴まれ、グロールフィンデルは我に返る。  彼の、名を呟いていたという意識はない。 「何でしょう、エルロンド卿?」  エルロンドは一瞬厳しい目でグロールフィンデルを見たが、すぐに視線を外した。 「公園の桜が咲きだしたようだな。レゴラスがはしゃいでいた」 「そうですか」 「花見宴会だそうだ」  グロールフィンデルは肩をすくめる。 「この季節に合う酒は何だと思う?」 「唐突な質問ですね」 「スランドゥイルの機嫌を取っておきたいのでね」 「わかりました。調べてみましょう」  秘書室に戻ろうとするグロールフィンデルを、もう一度呼び止める。 「窓を閉めて行ってくれないか。埃が入る」 「そうですね、申し訳ありません」  戻ってきたグロールフィンデルは、ぴたりと窓を閉めた。  わずかに、春の残り香が鼻腔をくすぐる。花の香りのする指先を差し出すスランドゥイルの幻影。 (春の匂い? ああ、いろんなもんがごちゃ混ぜになって、この匂いになるんだ。特に、雨上りの春の匂いは、いいぞ)  思い出して、背中をぞくりと震わせる。  今すぐ、彼を抱きたい。 「今日は早く帰りたいな」  同じことを思うのか、エルロンドが呟く。 「同感です。今日は早く終わらせましょう」  グロールフィンデルは秘書室に戻ると、ものすごい集中力で仕事を片付けていった。