「それでね」
 リビングで肘をついて、レゴラスは楽しそうに笑って話をしていた。
「遠方から久しぶりに友人が来て、今夜食事をするんですよ」
 エルロンド邸では馴染みの風景。
 双子は遊びに行っていて留守。
 ということは、
コーヒーを入れるためだけにエルロンドの秘書がいるわけである。
「そういうわけなんで、僕は今夜は外で食事です」
「そうか」
 別に驚く事もないし、とがめる事もない。
双子も夕飯がいらないと言っていたから、
今夜は秘書の作った食事をのんびり一人で食する事になるのだが、
そういうのも嫌いではない。
自分のペースで事が進めるし、空いた時間は、存分に好きな読書に当てられる。
「今夜は遅くなるのか?」
 夫と言うか、娘の父のような少し心配げな口調。
 う〜ん、とレゴラスは首をひねった。
「父さんも一緒だから、父さんが飲みすぎたら、一泊かも」
 そうか。スランドゥイル殿が一緒なら、
ナンパされる心配も浮気の心配もないというわけだ。
「泥酔した父さんを置いて帰ったら、父さんの貞操が危ない」
 がしゃん。
 キッチンから、何かが割れる音。
 ああ、割らないでくれ。
その茶器はガラドリエルからの贈り物なんだ。
エルロンドの脳裏に冷や汗。
「どのような人物なのだね? その、友人と言うのは」
 とりあえず、聞いてみる。
「東方の山間の、デイルという小さな街の領主なんですけどね。
彼が領主になるのに援助したのが父さんなんです」
 聞いた事はある。いろいろあって、多くの血が流れ、
スランドゥイルがそれを鎮めたという話だ。
ガンダルフも一枚噛んでいたらしいが。
 そうか。あの街の領主か。
「そうか。その領主殿に、一度会って見たいな」
 レゴラスは、ちょっと複雑な表情をする。
「いけないかね?」
「…どうでしょう。父さんに相談してみます。
父さんはバルドをかわいがっているから」
 かわいがるとは……いや、スランドゥイルらしい。
 まあ、スランドゥイルにしてみれば、
グロールフィンデルも「かわいがる」部類に入るのだろうが。
 キッチンから出てきたグロールフィンデルが、
眉を寄せてレゴラスを睨んでいる。
その意味をわかってか、レゴラスはニコニコしているが。
「というわけで、バルドが父さんを襲わないように、
見張りに行ってきますね」
「………」
 どこまで本気か。
「レゴラス?」
 あまりグロールフィンデルを挑発するな。
この後、わたしは不機嫌なグロールフィンデルと夜を過ごすのは、
耐えられない。
そんな長いセリフを込めて、レゴラスの手を握る。
 頼むから。
 エルロンドの手を握り返し、レゴラスはぺろりと舌を出す。
「冗談です。バルドは妻子持ちですよ」
 いや、その「妻子持ち」という言葉に、まったく説得力はないから。
レゴラスの目の前の男も「妻子、しかも成人した三人の子持ち」なのだ。



 ホテルのレストランで約束をしていた。
レゴラスが到着した時には、すでにスランドゥイルはワインを1本空けている。
「久しぶり、バルド」
 挨拶にハグと頬にキス。
「レゴラス君、またきれいになったね」
 にっこりと笑う男は、中年にしてはまだ若く、若者と呼ぶには貫禄がある。
粋なスーツを着こなし、身なりはやり手のサラリーマンのようだ。
温和な物腰も、彼を一国の領主には見せない。
だが、彼の目は鋭さがあり、意志の強さとプライドの高さを物語る。
その目つきは、アラゴルンに似ているものがある。
 何かを背負っている者の目だ。
 そして、レゴラスに負けず劣らずな銃の腕を持っている。
 軽い話題を楽しみながら、フルコースの食事を済ませる。
終始スランドゥイルも機嫌がいい。
こと、宝石の話題になると、軽い口調が弾む。
 バルドの国は、有名な原石の産出国に近く、その恩恵を受けている。
 そこで血生臭い事件があった事などには、お互いに触れない。
「このホテルに部屋を取っているのですが、
部屋でゆっくり飲みなおしませんか?」
 スランドゥイルの好きな銘柄のワインも、注文していると言う。
そういう気遣いのできる男だ。
「呼ばれるのは、父さんだけ?」
 意味ありげにレゴラスが訊ねる。
「もちろん、レゴラス君も一緒に」
 バルドはにこやかに答えた。



 ホテルの部屋は、上階のスウィート。
エルロンドなら最上階の更に上のクラス、なのだろうが。
 約束していたとおり、部屋には冷えたワインと果物、軽食が用意されている。
「用意周到だな」
 スランドウィルは、ワインクーラーに刺さったワインを持ち上げ、銘柄を確認する。
「疲れたら、ベッドにどうぞ。あちにゲストルームもあります」
 示された扉を、レゴラスは開けてみる。
「立派なゲストルームだね。シングルのベッドが一つ」
 そして、戻ってきて主寝室も覗く。
「こっちはキングサイズのベッドが一つ。
三人でベッドが二つって、これは、確信犯だね?」
 にっこりと笑って見せる。バルドも笑い返す。
「私はレゴラス君と寝ても良いのですが」
「そんなこと、許されると思ってか?」
 鼻先をひくつかせるスランドゥイルは、もうワインの封を切っている。
「だよね。じゃ、僕はゲストルームに行くよ。オモチャも持参したし」
「オモチャ?」
 バルドの問いに、お気に入りのipadを掲げて見せる。それに、イヤホン。
「ネット環境、あるんでしょ?」
「もちろん」
 それじゃあ、とレゴラスはゲストルームに入っていく。
「もう少し、一緒に飲まない?」
 バルドの言葉に、レゴラスは戻ってきて、
コークのビンと軽食の皿を手にした。
「向こうで勝手にやらせてもらうよ。
久しぶりなんだし、バルドは父さんとゆっくりどうぞ。
政治の話は、僕は好きじゃないんだ」
 バルドはスランドゥイルを見やり、
スランドゥイルは肩をすくめて見せる。
 ホテルの部屋に入るなり、早々に引っ込むなんて、
なら何故ついて来たのかと聞きたいところだ。
 ゲストルームに飲み物と食料を持ち込み、ネット環境の確認をし、
モバイルを立ち上げ、イヤホンを挿す。
それを耳に入れる前に、レゴラスは「そうそう、」と戻ってきた。
「バルド、入れちゃ、だめだからね」
 バルドもスランドゥイルも、何の事かとレゴラスを凝視する。
レゴラスは意味深にニヤリと笑う。
「………それは…入れなければ、何をしても良いということかな?」
「う〜ん…でも、父さんの悲鳴聞こえたら、すぐ飛んで行くからね」
 何の事かと呆然としていたスランドゥイルは、
やっと意味を悟り、近くにあったソファのクッションを投げ付けた。
「馬鹿か! バルド! お前も下世話な話に乗るんじゃない!」
「あれ、レゴラス君の許可も取れたのに?」
 ああ? ガン垂れる不良がごとく、スランドゥイルが睨みつける。
「まあまあ、とりあえず、どうぞ」
 ワインをグラスにたっぷりと注ぎ、スランドゥイルに手渡す。
 レゴラスは、ぺろりと舌を出して、部屋に引っ込んだ。
 ベッドに腰を下ろし、ipadを膝に乗せ、笑みを消して耳を澄ませる。
バルドとスランドゥイルが、真面目な政治情勢の話をしているのが聞こえる。
 それは、楽観的で楽しい話ではない。
 スランドウィルは、息子の前でそういう話はしたがらない。
 バルドも、レゴラスの前で己の国の裏話など、したくはないだろう。
 レゴラスは、イヤホンを耳に突っ込んで、ごろりとベッドに横になった。

 これは愚痴でしかないのだ、と、バルドはわかっていた。
 それでも、スランドゥイルはそれをずっと聞いていてくれる。
 これは、
 甘えなのだろう。
 ワインのビンが空になり、日付が変る。
スランドゥイルはおもむろに立ち上がると、ゲストルームのドアを開けた。
中では、明かりをつけたままレゴラスが眠っている。
「私は、今になってやっと、あなたの言葉の、本当の意味がわかりました」
 スランドゥイルの姿を目で追いながら、バルドが言う。
「あなたは、金のためになど、戦うなと。
街の者たちの復讐という理由さえ、あなたは否定された」
 レゴラスはイヤホンを耳に突っ込んだまま、毛布の上で寝息を立てている。
「妻と子を持ち、私にもやっとその意味がわかりましたよ。
本当に守りたいもの、守るべき者のためには、プライドも捨てる。
勝者となって失うことより、敗者と呼ばれても守りきる事の方が、大切なのだと」
 スランドゥイルは、レゴラスの上に屈みこみ、そのイヤホンをそっと抜く。
「こんなものをつけて寝たら、耳が悪くなる」
 耳もとで囁くと、レゴラスは薄目を開けてスランドゥイルを見、
その手からイヤホンを取り戻す。
「…父さんと、バルドの会話を、聞きたくないから」
「聞かれて困ることなど、ない。内緒話はしない」
「…父さんはね。でも、バルドは内緒話をしたいんじゃない? 
聞いてあげなよ。せっかくなんだから」
 そう言って、イヤホンをまた耳に入れる。
 スランドゥイルはため息をつき、
毛布を引っ張りあげて、レゴラスにかけてやる。
レゴラスは、また目を閉じた。
 毛布を肩までかけてやってから、
スランドゥイルはゲストルームのドアをきっちりと閉め、戻ってきた。
「わしはな、臆病なだけだ。
もう、何も失いたくないし、息子にも、何も失わせたくない」
 手酌でワインを注ぎ、一気に飲み干す。
「息子は違う。
愛する者のプライドのためには、命を捧げてもいいと思っている。
だが、それでいい。奴には奴の生き方がある」
「もっと大人になれば、レゴラス君にもわかりますよ。
自分が生き抜くことが、結局は愛する者のためになるのだということが」
 ふふ、とスランドゥイルは鼻で笑う。
「酒がなくなる」
「持って来させましょうか?」
「いや、いい。寝よう」
 空になったビンをテーブルに置き、スランドゥイルはベッドに向かった。
腰を下ろし、靴を脱ぐ。
「どうぞ、おくつろぎください」
 立ったまま、バルドは笑んで見せる。
「うん?」
 スランドゥイルは首を傾げてみせる。
「私は、ソファーで寝ますから」
「なんだ、わしは家主を追い出すというわけか」
 ため息のような笑みを零し、
バルドは予備の毛布を出してきてソファーに運ぶ。
「……私は…いつから、こんなに偉くなってしまったのかと、
そう思うときがあるんです」
 クッションの位置を変え、眠れるように整える。
「昔は、ソファーでも床の上でも眠れたのに、
今は豪奢なベッドに眠っている。
自分はいったい、何様のつもりなのかと」
「お前が己の手で勝ち得た地位だ。遠慮する事はない。
天蓋付きの絹と羽毛のベッドで、惰眠を貪ればいい。
民は、主が床の上で眠る事など、望みはしない。
主は気高くなければならないのだ。崇拝する象徴としてな」
 スランドゥイルの元に戻ってきたバルドは、その足元に跪いた。
「わかっています。そうしていますよ。自分が選んだ道です。
私は、自分がデイルを統べる事を選んだ。後悔はありません。
デイルの発展は、私の望みであり、喜びであります。
そのために、生涯を尽くします。ただ」
 ただ、と、頭を垂れる。
「あなたの前でだけは、ソファーで眠る謙虚な男でありたいのです」
 スランドゥイルはバルドの頬に触れ、顎を持ち上げて上を向かせる。
「お前の謙虚さは、もはや嫌味だな」
「私を、軽蔑しますか?」
 勇者の眼光を持つ男は、わずかに眉を寄せてスランドゥイルを見上げる。
「好きにすればいい。
だがな、バルド、お前がそうやってわしをヘンに崇拝している限り、
わしは自分の鎧を脱ぐことはできないわけだ。
それはそれで、わしが疲れる。わかるか? 
お前がソファーで寝るのは勝手だが、わしは偉ぶっていなきゃならん。
優越感に浸るために、夜を共にするわけじゃない」
 ふとゲストルームの方に目をやる。
「息子はわしを牽制している。
お前の情に流されて、一線を越えないように見張っているつもりだ。
まったく、やっかいな息子だ」
 バルドもそちらに目をやり、唇を吊り上げる。
「いい子ですよ」
「とにかく、わしは夜を楽しみたい。やっぱり酒を持って来させろ。
ルームサービスの時間は過ぎているが、チップを弾めば、誰かが買ってくるだろう」
 おかしそうに笑いながら、バルドは立ち上がった。
「あなたらしい。そんなあなたが、愛しくてたまらない。
断られたら、私が買いに出ます。あなたのためなら」
「わしのためなら、フロントに電話するだけで、ここにいろ。
お前は多忙だからな。共に過ごす時間は、貴重だ」
 一度だけ、軽く唇を重ねてから、バルドは電話機に向かった。



「レゴラス君」
 耳もとで名前を呼ばれて、レゴラスは眠たげな目を開けた。
イヤホンはとうに外れてる。
「おはよう、バルド」
「おはよう」
 きちんとスーツを着込み、髪も整え、さわやかな笑顔でバルドは言った。
「私は、午前中の飛行機に乗らなければならないんだ。
支払いとチェックアウトは済ませておくから、君たちはゆっくり休んで」
 のそっと体を起き上がらせ、レゴラスは周囲を見回す。
「父さんは?」
「まだ寝ているよ」
「何時まで飲んでたの?」
「う〜ん」
 バルドはわざとらしく首をひねる。
「さっきまで、かな」
 バルドを見つめ、レゴラスはため息をつく。
「タフだね」
「ストレス発散、かな。久しぶりに楽しかった。
君からもスランドゥイル殿にお礼を言っておいて。
近々、スランドゥイル殿の好きなワインを送るよ」
「僕には?」
「何が欲しい?」
 ちょいちょいと手招きして、レゴラスはバルドに顔を近づけた。
「……ねえ、領主になったこと、後悔してる?」
「してないよ。私が自分で選んだのだから。後悔しているように見える?」
 じっと瞳の奥を見つめ合い。レゴラスは首を横に振った。
「僕は、バルドの事が好きだよ。
ずっと、僕の好きなバルドでいて欲しい。
僕の欲しいものはね、君が人生を謳歌する事」
「大人な事を言うね」
 レゴラスは微笑んだ。
「キス、してよ」
 ゆっくりと顔を寄せる。
 と、
 ばすっ
 背後から飛んできたクッションがバルドの後頭部に命中する。
「こら! 息子に手を出すな!」
 バスローブを羽織っただけのスランドゥイルが、
眠たげな目をして立っている。
「早く行け! タクシーが来ちまうぞ!」
「父さん、起きてたの?」
「寝とらんわ!」
 さっきまで飲んでいたというのは、あながち間違ってはいないらしい。
 肩をすくめたバルドは、レゴラスの頬にキスをし、
用意してあったスーツケースを手にした。
「先に失礼します、スランドゥイル殿」
「ああ、またいつでも来い」
 軽いハグと頬にキスをしただけで、バルドは笑みを残して出て行った。
「忙しいヒト」
 レゴラスはベッドから起き上がると、愛用のモバイルを片付け始める。
「僕は着替えて帰るけど、父さんは寝なおすの?」
「年を取ると、寝不足がキツイ。一時間ほど寝てから出社する」
「飲みすぎだよ」
 くすくす笑って、レゴラスは父の首に絡みつく。
「ちゃんとシャワー浴びてから出社してよね。酷く寝乱れてるみたいだから」
 わかったわかった、と、息子を引っぺがして、ベッドに戻る。
「父さん」
「うん?」
「バルドと、したの?」
 ベッドに横になりながら、スランドゥイルはソファーを指差す。
そこには、たたまれた毛布が置かれている。
「朝方まで飲んで、2時間くらい奴はソファーで寝た」
「ベッド、取っちゃったんだ?」
「ソファーで寝たいんだと」
 確かに寝た形跡のあるソファーに座ってみて、
レゴラスはスランドゥイルが横になっているベッドに目をやった。
「ふうん。純愛だねえ」
 


 その夜。エルロンド邸。
「ご友人は帰られたのか」
「忙しい人ですから」
 レゴラスはグロールフィンデルの作った夕飯を、美味しそうに食べている。
つまり、双子は今夜も留守。
「朝まで飲むって、父さんの肝臓は鋼鉄製ですよ、もう」
 そういうレゴラスは楽しそう。
 グロールフィンデルはエルロンドに食後のコーヒーを運んでくる。
「もっとも、ホントに飲んでいただけかは知らないですけどね」
 がしゃん
 食器の破壊音に、エルロンドの顔が引きつる。
だから、それはガラドリエルからの贈り物なのだ。あとで同じものを買って返せよ。
「レゴラス?」
 もうやめてくれ。
そう言いたげに手を握ってくるエルロンドに、レゴラスはぺろりと舌を出して見せた。
「冗談です」