続き 長い口付けの後、 「会社に帰らなければ」 残念そうに呟く。 「そうだな」 その男は笑って、 ダッシュボードに投げ出してあった携帯を掴むと、車を出て行った。 ドアを閉める前、 「電話に出ろ」 そう言うと、 「努力する」 そう言って、悪戯っぽく笑ってみせる。 ドアが閉められると、グロールフィンデルはエンジンをふかした。 (君を抱いていいの 好きになってもいいの 君を抱いていいの 心は今どこにあるの) 気持ちよく鼻歌を歌いながら、レゴラスはバイクを走らせていた。 (ほらまた笑うんだね ふざけているみたいに いま きみの 匂いがしてる) バックミラーに小さな光点が現れたかと思うと、 爆音と共にものすごい勢いのスポーツカーがみるみる迫り、 タイヤをきしませながらレゴラスのバイクを追い越して、急停車した。 「あらあら」 呑気に呟き、後輪をスリップさせながら、レゴラスも急停車する。 「乱暴だなぁ」 前方で停まった銀のフェラーリから、長身の男が降りてくる。 その男はレゴラスを真っ直ぐ見据え、自分の頭部を指差して、 ヘルメットを脱ぐようゼスチャーする。 「もう」 話なら、後でもいいのに。 唇を尖らせ、ヘルメットを取る。 「タイヤ、傷みますよ」 開口一番そう言う。 じっとレゴラスを見つめたまま、 グロールフィンデルはゆっくりと歩み寄ってくる。 その表情は、なんとも微妙だ。 「……先に、帰ったのではないのか」 「先に帰ったじゃないですか。見てのとおり、先走ってたし」 疑わしげに目を細めるグロールフィンデルに、 レゴラスは両手を広げて見せる。 「グロールフィンデルさんが早すぎるんですよぉ。 いったい何キロ出るんですか? その車。 僕のバイクだって、そこそこ早いんだけどなぁ」 「レゴラス」 名前を呼ばれて、肩をすくめる。 「………いつから、知ってた?」 「うーん、だいぶ、前、かな」 所在なさ気にヘルメットのベルトを指でもてあそぶ。 「匂い、がね」 「匂い?」 「父さんから、あなたの匂いが、してたもの」 それだけ言うと、レゴラスはまたヘルメットをかぶり、 「じゃ、会社で」 と、手を振って走り出した。 「………」 走り去るバイクのテールランプを見つめる。 その赤い点が見えなくなると、 グロールフィンデルは車に戻ってエンジンをかけた。 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 エンジンの回転数を上げる。 「いけ」 小さく呟いて、ブレーキペダルを放す。 銀の跳馬は、空を翔るように走り出した。 レゴラスがエルロンドの会社に着くと、 グロールフィンデルはもう、 何食わぬ顔でエルロンドにコーヒーを入れていた。 「遅かったな」 エルロンドの言葉に、レゴラスは拗ねた笑みを作る。 「遅くないですよ。 グロールフィンデルさんが異様に早いんです! だって、一緒に出たのに」 くすり、とエルロンドが笑う。 「そうだな。グロールフィンデルの運転は、普通じゃない。 タイヤの交換率はレーサー並だからな」 当のグロールフィンデルは、我関せずで秘書室に戻る。 「もうすぐ終る。先に帰っていなさい」 ヘルメットを片手にぶら下げたまま、 エルロンドに近寄り、頬にキスをする。 「僕が先に出ても、グロールフィンデルさんの運転じゃ、 エルロンド様の方が先に着くかもしれないですね」 「あの暴走運転の助手席は、勘弁願いたい。 それに、私は自分の運転で帰る」 「そうですか」 鼻先をつき合わせて、とろけるように微笑み、 レゴラスは体を離した。 「では、先に帰ってますね」 にこっと笑い、鼻歌を歌いながら出て行く。 パソコンがどうの、タブレットがどうのとぼやいていたが、 機嫌は直ったらしい。 さて、原因は何だか。 秘書室のグロールフィンデルを呼ぶ。 「で、何があった?」 平然と「何も」と応えても、 エルロンドは「そうか」とは言わないだろう。 グロールフィンデルは、視線を漂わせ、困惑を表す。 「……エルロンド、わたしは、匂う、か?」 たどたどしい言葉に、エルロンドが面食らう。 いやいや、あの男、スランドゥイルがらみの時は、 グロールフィンデルは普通じゃないのだ。 「そうだな。一般的な同年齢の男性と比べれば、 …無臭に近いと思う。 アルコール、ニコチン、整髪料、洗剤………どれも感じない グロールフィンデルの手を取り、指を握って鼻先に持っていく。 「今は少し、コーヒーの香りがするな。 それと、会社で使っている紙の匂い」 それから、にやり、と笑う。 「ガソリンの匂い」 グロールフィンデルは、エルロンドの手を、そっと振り払う。 「なぜだ?」 「レゴラスに、私の匂いがする、と」 どこから?! その言葉を飲み込み、ぐっと言葉を脳内にめぐらせる。 だれから?! で、それにはどう応えるべきか? 数秒思い悩んだ末、 「ああ」 エルロンドは思い出したように、 グロールフィンデルの腕を掴んで、 そのうなじに鼻を近づけた。 「この匂い、だな」 「?」 グロールフィンデルは身をよじるが、 エルロンドは腕をがっちりと掴んだまま、 そのうなじの香りを吸った。 「……匂い、というより、印象、だな。 華の香、だ。 栄華を極めた貴族の持つ、優雅な華の香」 首筋に息がかかり、 グロールフィンデルは眉を寄せて、エルロンドを押し戻した。 エルロンドにしてみれば、何気ない動作のつもりだったが、 こうも振り払われてはどうにも心外だ。 指でそっとグロールフィンデルの首筋を撫でてみる。 グロールフィンデルはそれから逃れようとする。 「やめてください。私はレゴラスではありません」 うむ。昔はどこをどう触っても、なんともなかったのにな。 「よかったな、不感症が治って」 ムッとするグロールフィンデル背を向け、 エルロンドは帰り支度を始めた。 「己の体臭は、己では気づかぬものだ。 特に、ベッドなどではな。 レゴラスが寝ていた場所は、いつまでもあの子の匂いがしている。 ………ああ、お前のうなじな、スランドゥイル殿の香りがするぞ。 レゴラスに似た、森の匂いだ。それに」 振り向いてニヤリと笑い、自分の首筋を指差してみせる。 「キスマークがついてる」 グロールフィンデルの顔が、滑稽なほど引きつり、首に手を当てる。 「冗談だ」 エルロンドは、肩を震わせて笑った。 面白い。 まだまだ遊べるな。 「お休み」 呆然とするグロールフィンデルを置いて、エルロンドは帰路についた。 深夜。 スランドゥイル邸。 案の定、スマホは投げ出され、本人はワイン片手に雑誌をめくっている。 (君を抱いていいの 好きになってもいいの 君を抱いていいの 心は 今何処にあるの ことばがもどかしくて うまくいえないけど 君のことばかり 気になる ほらまた 笑うんだね ふざけているみたいに 今 君の 匂いがしてる………) スランドゥイルは、機嫌よく鼻歌を歌っている。 「スマホは使えるようになったのか?」 「さっき、電話したろう?」 テーブルに足を投げ出し、横暴な態度で顔も上げずに言う。 グロールフィンデルは、ため息をつく。 スランドゥイルは飲み終わったワインのビンをテーブルに置き、 のっそりと立ち上がると、グロールフィンデルの胸を片手で叩いた。 「良い子は寝る時間だ。わしはベッドに入る」 良い子か。 投げ出されたままのスマホを手に取り、 グロールフィンデルはついて行った。 ベッドの上で、程よく疲れた体を横たえる。 (父さんにスマホの使い方を教えてやって) レゴラスの言葉に責められるように、 グロールフィンデルは体を起こしてスランドゥイルのスマホを立ち上げた。 機種が違えば操作も違う。それに、アプリのダウンロードが必要不可欠。 タッチ画面から基本設定を選んで読んでいると、 にゅっと手が伸びてきて、グロールフィンデルからスマホを取り上げた。 背を向けて眠り込んでると思われたスランドゥイルは、 鳴れた手つきで画面をタップしている。 ひとしきりいじり終わると、自分のスマホをグロールフィンデルに投げ返す。 「女の電話番号は全て消去した。これでいいだろう?」 別に女性関係を調べようとしていたわけではないのだが。 「浮気はしない。だからもう、怒るな」 「………怒ってなど、いない」 「じゃあ、拗ねるな」 子ども扱いか。グロールフィンデルは、スマホをサイドテーブルに置いた。 「使えるではないか」 「あ?」 「スマホ」 「ああ、一度説明されればわかる」 では、使い方はわかっていたわけだ。 わかってて、電話に出なかったし、電話をしてこなかった。 「私を、試したのか」 「違う」 寝転がったまま振り向き、 スランドゥイルは眠たげな目でニヤリとわたった。 「意地悪をしてやったのさ」 (Yes−No/オフコース) 後日談 エルロンド邸。 昼食前の、まったりとした優雅なひと時。 エルロンドはリビングでお気に入りの本を広げ、 レゴラスはお気に入りのタブレットで遊び、 グロールフィンデルは二人に飲み物を運んできた。 静寂を破ったのは、激しく鳴る玄関の呼び鈴。 グロールフィンデルが出ると、 スランドゥイルが不機嫌な顔をして、どかどかと入り込んできた。 「レゴラス! この馬鹿息子!」 いつもの口調。レゴラスはタブレットを膝の上からどけた。 「今日の午前中までに、書類に目を通しておけと言っただろうが! 午後一で先方に届けるんだぞ!」 「ああ、そうだっけ。忘れてた」 レゴラスはにっこりけろり。 スランドゥイルはリビングのテーブルに書類を広げる。 それを拾って読むレゴラスの表情は、真面目そのものだ。 エルロンドもグロールフィンデルも、微笑ましげに見守る。 「スランドゥイル殿、よろしければ昼食をご一緒にいかがですか? これから作らせますが」 エルロンドの口調は、突然来訪した妻の父親を歓迎するもの。 「ああ、悪いな。先約があるんだ。 馬鹿息子のおかげでもう30分の遅刻だ」 「それは残念です」 そんな会話をしているうちに、 レゴラスはあっという間に書類をチェックし終え、 気になるところに書き込みをしている。 「…いいんじゃない? 一昨日の打ち合わせどおりだよ。 日程だけ、社長の都合に合わせてもらえば、それでオーケイ。 社長の来週の予定だけど…」 言いかけて書類から顔を上げると、 スランドゥイルは誰かに電話をかけていた。 「………悪い、ちょっと待ってくれ。仕事なんだ。 ………ああ? 浮気? 馬鹿なこと言うな。 こんな昼真っから浮気なんかするか。 ………フランソワ、頼むからいい子でホテルで待っててくれ。 ………もちろん、愛してる……すぐ行くから」 電話を切って書類をかき集め、鞄に詰め込む。 「父さん…女の子のアドレス、 全部消去したんじゃなかったの?」 「したさ。お前にも2回消されただろうが。 でもな、かかってきちまう分には仕方がない」 にやり、と笑う。 「騒がせて悪かったな」 慌しくスランドゥイルは出て行った。 呆然としているエルロンドとグロールフィンデル。 すると、レゴラスの携帯が鳴る。 レゴラスは立ち上がって通話ボタンをタップする。 「アラゴルン、何か用? ………ええ? 知らないよ。自分で何とかしなよ。 ……仕方ないなあ。今回だけだよ? ………うん。 ……じゃあねえ、15分でそっち行くから。 お昼はおごりね。 ………ばあか。君の口からアイなんて言葉、聞きたくもない」 悪態をつきながらも、どこか楽しそう。 画面をタップして電話を切ると、 レゴラスは申し訳なさそうにエルロンドを見上げた。 「すみません、アラゴルンが困ってるんで、 ちょっと助けに行ってきます」 エルロンドは無言で頷く。 「夜には戻りますから!」 ウキウキとした足取りで、自分の部屋に駆け上がると、 バイクのヘルメットを持って駆け下りてくる。 そして、エルロンドの頬にキスをしてから、鼻歌交じりに出て行った。 「お昼は牛丼! お昼は牛丼!」 変な歌だが。 嵐が過ぎ去り、しんと静まり返るエルロンド邸のリビング。 「娘婿に嫁を寝取られないように、お気をつけください」 ぼそり、と言うグロールフィンデルに、ギン、とエルロンドが睨みをきかせる。 「八つ当たりをするな」 ほほう? いい大人が、冷たい火花を散らす。 そこへ。 何も知らずに帰宅した、双子。 「ただいま。昼飯だけどさ」 リビングに入った双子は、 そのただならぬ北極並みの冷たい空気に、 帰宅した事を全身全霊で後悔した。