エルロンドは悩んでいた。

 いや、悩むというほど真剣な悩みではない。

 しかし、考え始めると気になるものだ。

 

 エルロンドはこれまで、何に関しても精力的に取り組んできた。

 この年になって、これだけの仕事量をこなせるというのは、それなりのものだろう。

 それに、ここ最近は若い恋人もでき、公私共に充実している。

 夜の生活だって、手を抜いていない。

 レゴラスを満足させているはずだ。

 

 たぶん。

 

 本当に?

 

 そう、今の悩みは、その「本当に?」なのだ。

 レゴラス本人に尋ねてみても、きっと「満足しています」と微笑んで答えるだろう。

 しかし、それで満足してしまっては、自己満足の域を出ない、
と、エルロンドは考えてしまうのだ。

 

 そこでエルロンドは、仕事の合間を縫って、趣味の世界に没頭した。

 実はエルロンド、無免許の外科医、もとい、
免許こそ持っていないが医者として十分な知識を携えているのだ。
それはギル=ガラドのためであり、彼亡き後はグロールフィンデルのためであった。

 医学の中で、エルロンドが一番興味を引いたのは「薬草学」であった。
これは面白い。医者というより、薬剤師に向いているかもしれない。

 で、その知識を総動員して、エルロンドは己の悩みを解決してくれるものを作り出した。

 簡単に言ってしまえば、「精力剤」だ。

 

 自社ビルの中のプライベートルームの一部を研究室にし、
空いた時間をそこで過ごすエルロンドを、グロールフィンデルは口出しせずに見守ってきた。

 基本、エルロンドの決定には口を出さない。

 よほどの事がない限り。

 

 さて、レゴラスが父親と出張している間の深夜、
エルロンドは自宅にも帰らず薬草で遊んでいた。
医学的な研究も、こんな私情では遊びと同じ。

 たとえ遊びでも、グロールフィンデルはずっとエルロンドにくっついて、
エルロンドが社に泊り込むときは、自分も泊まりこんだ。

 そういう奴である。

 で、その日の深夜、完成した薬品を小瓶に詰め、エルロンドは満足げにそれを眺めた。
それまで文句ひとつ言わなかったグロールフィンデルがコーヒーを持ってくる。

「やっと出来上がったのですね?」

「うむ」

 心なしか、エルロンドの口元も緩む。

「己の体調管理の未熟さと運動不足を補うためのドーピング剤」

 グロールフィンデルの的確なネーミングに、エルロンドの頬がピクリと引きつる。

「もちろん、あなたが何をご使用になろうと、私は口出しはいたしませんが」

 ピクピクとこめかみが引きつる。

 無駄な時間に付き合わされた事に、実はグロールフィンデルはイラついていたのかもしれない。
だったら、付き合わずに帰ればいいものを。
と、普通の人間は思うだろうが、グロールフィンデルはそういう人種ではないのだ。
それは、エルロンドもよくわかっていた。

 よくわかっているゆえ、椅子をくるりと回し、
グロールフィンデルに向き直ったエルロンドは、反撃を開始した。

「どうやら勘違いをしているようだな? 確かにこれは、お前の言うような代物だ。
だが使用するのは私ではない。

 よいか、考えてみろ?

 自分の私的生活のパートナーが、
これまで以上に精力的で積極的になったら・・・
もちろんこれは生理的機能をメインに考えての事だ」

 不満げにしかめていたグロールフィンデルの眉が、興味深げに持ち上がる。

「確かに、レゴラスはそんなものは使用しなくても、常に積極的で精力的ではあるがな。
だが、興味はある。これは基本的に催淫剤の類ではない。
生理的機能を活発にさせるものだ。
常に冷静でありながら、肉体機能が活発であるなら、人はどのような行動を起こすのか」

 想像通りのグロールフィンデルの反応に、エルロンドは満足をする。

 そうだ。グロールフィンデルは化け物的な体力の持ち主だが、
それに付き合わされる方はたまらない。
相手がそれに付き合えるだけの体力を持ち合わせたら・・・。

「まだ人体実験を行ったわけではないから、効力のほどは保障できかねるがな」

 グロールフィンデルが興味を示しているのがよくわかる。
エルロンドは、ふと口元を吊り上げて見せた。

「使用するかどうかは別として、付き合わせた礼にこれをやろう。
仕事で徹夜がわかっている日の夕方に試してみるのもいいかもしれない」

 グロールフィンデルは、無言でクスリを受け取った。








 さて、グロールフィンデルはキッチンで悩んでいた。

 今夜の献立は、ビーフシチュー。もちろん、思い人のリクエストである。

 出張から帰って来る時間を計算して、煮込んである。

 ここまでくると、主婦?!

 とまあ、そんな感じで、シチューの鍋の前で悩んでいるのである。

 出来上がるまでの間、思い人はリビングで、
これまた用意してあったワインを飲んでいる。

 何に悩んでいるかといえば、そう、先日入手した怪しいクスリ。

 エルロンドはマッドサイエンティストの類ではない。
なので、怪しいといっても体に害のあるものではないだろう。
グロールフィンデルは100パーセントエルロンドを信頼しているので、
これがヤバイものではないと信じている。

 ただ、それを使うという事に躊躇しているのである。

 相手に了承を得ずにドーピングするというのは、どうなのだろう?

 しかし、了承など得られるはずもない。

 小瓶のふたを開けてはみたものの、手が止まる。

「何やってんだ?」

 突然背後から声をかけられ、
グロールフィンデルは柄にもなくビクンと肩を振るわせた。

「・・・・今、用意している」

「そうか。ワインがもう終っちまった」

 スランドゥイルの手には、空になったワインのビン。
グロールフィンデルは、唇を吊り上げて苦笑して見せた。

「飲みすぎだ」

「仕事の後の酒は、美味いよなあ」

 そういって笑って見せるスランドゥイルの表情は、屈託のないレゴラスに似ている。

「今食事を持っていくので、座って待っていてくれ。新しいワインも開けよう」

 スランドゥイルは、「早くな」と言って戻って行った。

 思い人が去ったキッチンで、大きくため息をつく。
そして、無意識に小瓶を傾けてしまっていた自分に気付く。

「・・・・・・」

 とりあえず、2,3滴から試してみてくれ、そう言われていたが・・・・
シチューの鍋には小瓶の半分ほどが注がれてしまっていた。

「・・・・・・」

 まあ、ワイングラスに数滴・・・が、シチューの鍋に変わったのだ。
量的にはたいした事はあるまい。

 グロールフィンデルは自分にそう言い聞かせた。

 

 さて、その問題のビーフシチュー。
グロールフィンデルの思いに反して、スランドゥイルの食べる事食べる事。
自分が食べるのは、確かに躊躇していたが、
スランドゥイルはグロールフィンデルの分まで食べつくしてしまった。

「・・・そんなに・・・空腹だったのか?」

「ああ? イギリスって、あんまり美味いものがないんだよな。
やっぱ、お前の料理は美味いな」

 出張中、ろくなものを食べていなかったらしい。
料理を褒められ、嬉しくはあるのだが・・・。

「デザートまで、たどり着けないか」

 ちゃんとデザートまで用意してあるところがグロールフィンデル。

「なんだ?」

「ガナッシュだ。以前美味しいと言っていたので」

 スランドゥイルの目がきらりと輝く。そういうところは、本当に息子と似ている。

「あの、ブランデーをたっぷり入れた奴だな?」

「そうだ。それにバニラアイスと生クリームを添えようと思っている」

 たらふく食べたはずのスランドゥイルは、ニコニコと笑う。
そういう子供っぽい表情に弱い。

「コーヒーと紅茶、どちらがよい?」

「アイリッシュコーヒーだな」

「わかった」

 グロールフィンデルは立ち上がると、ウキウキとキッチンに向かった。

 

 主婦の喜びをかみしめながら、デザートを作り始める。
生クリームにもリキュールがたっぷり入って、大人の味だ。

 どこぞの高級レストランのように、きれいに皿に盛り付け、
アイリッシュコーヒーと共にトレーに載せて運ぶ。

 リビングに戻ってきたグロールフィンデルは、愕然と足を止めた。

「・・・・・・・・」

 とっさに言葉が出ない。

 そこにいるはずの思い人の姿はなく・・・・代わりに、
レゴラスより同じか若干年下と思われる少年がそこに座っていた。

 小柄なせいで、服はだぶだぶで、少年も呆然と自分の手のひらを眺めている。

「・・・・・・・・」

 少年は、顔を上げてグロールフィンデルを見た。

 グロールフィンデルは、思わず息を呑む。

 それは、美しい少年だった。

 たしかに、レゴラスもきれいな顔立ちをしているが、
それとはまた違った美しさがある。

 レゴラスの、早春の若葉のようなナチュラルで透明感のある雰囲気ではない。
むしろ、王宮の奥の隠された秘宝のような輝かしさ。
黄金の髪の色は濃く、サファイヤのような瞳は光を反射し、
滑らかな白い肌は大理石のようだ。

 古の王宮で、神に仕えていた純粋で純朴な少年たちを髣髴させる。

「これは・・・・どういうことだ?」

 少年の声は、まだ声変わりをしておらず、
聖堂に響き渡るボーイソプラノのようだった。

「・・・・・・・・」

 グロールフィンデルも、呆然としたまま動けない。
否、少年に見惚れていると言った方が正しいかもしれない。

「おい、番犬!」

 その言い回しに、グロールフィンデルがハッとする。

 グロールフィンデルを「番犬」だの「狂犬」だの呼ぶのは、スランドゥイルだけだ。

「・・・スランドゥイル・・・?」

「ばか者!! わし以外に誰がいるというのだ?!」

 ボーイソプラノで叱咤され、グロールフィンデルは、クスリの効力を知った。

(・・・失敗です、エルロンド)

 あのクスリは失敗作です。肉体そのものを変えてしまうなど・・・。

 グロールフィンデルの頭の中で、もう一人の自分がガンガン非難していた。

 そしてまた、別の自分が

(すばらしいクスリですよ)

 と、目の前の少年を褒め称えてもいた。





「これはどういうことか、説明してもらおう」

 体は小さくなっても、態度は大きいままのスランドゥイル。

 説明も何も、状況理解できないのはグロールフィンデルも同じ。
デザートの皿を持ったまま、立ち尽くしている。というか、少年に見惚れている。

 らちのあかない状況に、スランドゥイルはイライラと足を揺らし、
大きく息を吸い込むと、びしっとグロールフィンデルを指差した。

「その前にケーキだ! アイスクリームが溶ける!」

 ハッと我に返ったグロールフィンデルは、デザートの皿を少年の前に置いた。
不満げな表情のままケーキを口に入れるが、
スランドゥイル少年は顔をしかめてフォークを置いた。

「アルコール、効きすぎ」

 どうやら味覚も子供に戻ってしまったようだ。

「・・・・すまない」

 とりあえず謝るグロールフィンデル。肩を落してスランドゥイルの前に座る。

「で、お前、こうなってしまった事に、身に覚えはあるのか? ないのか?」

 的確な質問。

「・・・・確信はないが、原因はあるかもしれない」

 煮え切らない返答に、スランドゥイル少年の頬が引きつる。

「もういい! お前の飼い主に聞いてやる!」

 そう、飼い犬の失敗はすべて飼い主の責任というわけだ。
スランドゥイル少年は携帯電話を開いた。

「あ・・・今電話しても・・・・」

 ためらいがちに片手をあげるグロールフィンデルを無視して、暗記している番号を押す。

『・・・・おかけになった電話番号は、電源が入っていないか・・・・』

 形式ばった女性の声。

「無駄だと・・・・」

 スランドゥイル少年は、怒りに肩を震わせて携帯電話を閉じた。

 

 ちなみにその頃のエルロンド。

 久々恋人との再会に、携帯電話の電源を切ってベッドルームで楽しんでいた。

 

「どーゆーことだーー?」

 盛大に顔を歪ませるスランドゥイル少年に、
しっぽを丸めたグロールフィンデルは、しぶしぶ説明を始めた。 

 ようは、エルロンドの作った「精力剤」の失敗である。

 スランドゥイル少年は、大きくため息をついた。

「ったく、お前らはろくな事をしない」

 グロールフィンデルは、大きな体を小さくしているだけ。

「そういえば、お前に初めて会ったのも、これくらいの年齢だったな」

 物思いに耽るように、スランドゥイル少年が窓の外に目をやる。
グロールフィンデルのマンションは、天空にそびえ立つ。
地上が遠い代わりに、星空に近い。

「ガキの頃なんて・・・・いやな事ばかり思い出す」

 顔を上げたグロールフィンデルは、スランドゥイルを見つめた。

「酷いことを・・・したと思っている」

 グロールフィンデルも、子供だった。

「お前にされた事もそうだが・・・。いや、あれでわしは生かされたのだからな」

 そっと席を移し、グロールフィンデルはスランドゥイルの隣に座った。

 ぼんやりと窓の外を見るスランドゥイルの瞳が、悲しげに細まる。
指を握り締めるスランドゥイルの手を、グロールフィンデルはそっと握った。

 ぎゅっと唇を結んだスランドゥイルの瞳が、うっすらと潤む。

「スランドゥイル」

 名前を呼ばれ、振り向いたスランドゥイルの瞳から、銀色の水滴が零れ落ちた。

「・・・・」

 驚いたように見つめるグロールフィンデルに、
スランドゥイルはわずかに唇を開き、目の前の男が何に驚いているのか、悟った。

 自分が泣いている事に、スランドゥイルは気付いた。

「あ・・・・」

 泣いた事など、なかった。あの、辛く苦しい日々に。

 押しつぶされるような不安と、恐怖。絶望。
それがどっと押し寄せてきて、大粒の涙が頬を伝う。

 頼るものなど、何もない。

 強くなければならなかった。

 弱音など、気付かないふりをするしかなかった。

 大きなグロールフィンデルの腕に包まれ、少年は嗚咽を漏らして泣いた。

 

 

 

「国を捨てます」

 メリアンの言葉は、絶望だった。

「皆、国を捨て、信じるものを捨て、生き延びなさい」

 気丈に振舞う女主人に、民衆がどよめく。

「メリアン様」

 誰よりメリアンを崇拝し、愛していたガラドリエルが、涙を零してその手を握る。

「行きなさい、ガラドリエル。愛している人と共に。
ギル=ガラドに会い、保護を受けなさい。あなたは生きなければ」

「メリアン様、どうか一緒に」

「私は、この国と共に、シンゴルと共にあります。この命も、この肉体も滅ぶまで」

 追いすがろうとするガラドリエルの肩を抱き、ケレボルンが大きく一礼をして出て行く。

「後のことは、頼みましたよ」

 オロフェアは胸に手を当て、頭を下げた。そして、まだ幼さの残る息子を手招く。

 どうしようもない不安な泥沼の中で、スランドゥイルは一輪の花をメリアンに差し出した。

 メリアンは、その小さな青い花を、少年の手と一緒に優しく握り、悲しげな微笑を見せた。

「ありがとう。オロフェアの息子、スランドゥイル。あなたの事は、忘れません。
皆の事も。この国の事も。私の愛した、全ての事を。私は忘れません。
さあ、行ってください。そして、生きてください」

 勿忘草。

 唇をかみ締めた少年は、敬愛するメリアンに背を向けた。 




 それでも、生きていて欲しかったから

 

 

 

 

 透明な男の声色に、スランドゥイルは顔を上げた。

「今、何か言ったか?」

 そう問う自分の声に驚く。泣きじゃくった後の、鼻声。
いつしかスランドゥイル少年は、グロールフィンデルの腕の中で号泣していたのだ。

 顔を上げて、目が合う。グロールフィンデルは、少し首を傾げた。

(ああ、お前じゃないんだな)

 そう直感する。

 あの声は、お前のものじゃない。お前の発したものではなく、お前に向けられたものだ。

 泣いていた自分に気付き、
スランドゥイルは頬を赤らめてグロールフィンデルの腕を振り解いた。
そして、シャツの袖でごしごしと目をこする。

「み、みっともないところを見せたな。悪かった」

 他人に涙など見せたことはないのに。

「それで、お前、アレだろう? 
わしに薬を盛って悪さしようって魂胆だったんだろう?」

 見慣れたはずの悪びれた表情も、こんな幼顔では迫力もない。

「そんなつもりは・・・・」

 なくもないが。一瞬グロールフィンデルが口ごもる。

「図星ではないか。こんなガキ相手でも犯るか?」

 じっとスランドゥイルを見つめた後、グロールフィンデルはふと笑った。
人間らしい、温かみのある笑み。その表情に、スランドゥイルの方が身じろぐ。

「そんなつもりは、ない。お前があんなに泣く姿が見られたのだ。それで十分だ」

 泣く姿。スランドゥイルの顔が、耳まで真っ赤になる。
そんな恥じらいの表情も、グロールフィンデルには新鮮だ。

「う・・・うるさい! あれはなあ、不可抗力だ! おかしなクスリのせいだ!!」

「そうだな」

 素直に肯定してみせる。そして、またふわりと少年を両腕で包み込んだ。

「欲情はしない。ただ、こうしていたい」

 強引で乱暴なグロールフィンデルの腕が、今夜は温かく感じる。

「ふん! 好きにしろ!」

 悪態をつくが、スランドゥイルはそのままその腕に体を預けた。

 

 

 

 翌朝、スランドゥイルは元の姿に戻っていた。

 

 

 

 いつもどおりに出勤。
グロールフィンデルは、毎朝の日課であるコーヒーを社長室に運んだ。

「あのクスリは失敗です」

 エルロンドの目の前にコーヒーを置きながら言う。

「では、試したのだな?」

 ニヤリと笑うエルロンドの表情は狡猾だ。
グロールフィンデルはそれ以上答えない。
昨夜の出来事は、スランドゥイルに口止めをされていたし、
あんな美味しい思いを告白するつもりもない。

「・・・そうか」

 ふうとエルロンドはため息をつくが、それほど残念がっている風でもない。

「やはりドーピングはよくないしな。
それに、ドーピングなどしなくても十分楽しめるという事がわかった」

 グロールフィンデルが眉を寄せる。エルロンドはニヤリと笑った。

「それはよかった」

 そっけなく応えて、グロールフィンデルは秘書室に戻る。
自分の席に座って、昨夜のことを思い出し、口元がにやける。

「思い出し笑いとは、気色悪いな」

 顔を上げると、エルロンドが書類を持って目の前に立っていた。

「よほど良い思いをしたな」

「あなたの想像するような下品なものではありませんが」

「下品とは失礼な」

 詮索したい衝動が喉まで出掛かるが、エルロンドはそこはぐっと押さえた。

 何はともあれ、悪い方に転ばなくて良かった。

 

 そして、何事もなかったかのように、平穏な一日が始まった。