少年は、屋敷のもっとも奥まったところにそっと足を踏み入れた。 絵画や工芸品が美術館さながらに並べられている屋敷の中でも、 プライベートなスペースには一層輝かしい宝石が展示されている。 真白い大理石の床の上で、少年はそれらの彫像を、時間を忘れて見惚れていた。 十二の女性の彫刻の手のひらに、十二の宝石が置かれている。 それが、窓から差込む陽光に照らされ、不思議な透明な影を作っている。 蒼、紅、翠………。 賞賛の言葉さえ思い浮ばず、息をするのも忘れる。 まさに、宝の石。 「美しいでしょう? これらは全て大地の生み出したもの。この地球の一部なのですよ」 少年は息を飲んで後を振向いた。叱られ、つまみ出されて当然だ。 「メリアン様………」 どの彫像にも劣らぬ美しい女主は、少年に微笑みを見せた。 「決して人の手では生み出せぬ物。梢に揺れる木の葉や、小鳥のさえずりと同じ。 人はそれを見つけ出し、加工し、己のものと錯覚する。 でも、これらはこの大地の一部に過ぎない。 それを所有しようという愚かな錯覚に、人は惑わされる。 大地から生れたものは、いずれ大地に還るしかないのに」 何の事を言っているのか、少年には真意は掴めない。 少年はまだ、「シルマリル」の存在を知らない。 「………大地は、奇跡を生出すのですね?」 少年の言葉に、メリアンはにっこりと微笑んだ。 「美しいものが、好き?」 「はい!」 少年は、宝石のような瞳をきらきら輝かせて頷いた。 「そう。では、あなたは偽りの美に惑わされることなく、 真の美しさを追い求めるといいわ。 宝石など、たかが石ころ。 けれど、それを見つけ出し、磨き上げるのは人間。 真の価値はどこにあるのかしら? どんなに美しい宝石でも、結局は石ころなのよ。 人は人として忘れてはならないものがある。石ころより大切なものがね。 その順位を間違わないで。 そして、石ころを美しいと思うなら、ほら、そこの木の若葉も同じように美しいと思えるはずよ。 世界は美しいもので満ちている。それら全ては、宝石と同じ価値があるの」 少年は視線を窓の外に移した。 芽吹いたばかりの若葉が揺れている。まるで、エメラルドのようにきらきらと輝いている。 少年がもう一度視線を戻すと、そこにはもう女主の姿はなかった。 最近、シンゴル殿の機嫌があまりよくない。 それを思い出し、少年は他の誰かに見つかる前に、そっとそこを抜け出した。 途中、メリアンを慕ってやって来たガラドリエルという女性に出くわす。 彼女も、メリアンと同じくらい美しい女性だった。 彼女は、恋をしているのだという。 恋は女性を、石ころから宝石に変身させる力がある。 そんな言葉を耳にしたことがある。 そのとおり、初めてここに来た時の彼女は、冷たい印象が強かった。 だが今は、やわらかな真珠のような輝きを放っている。 そしてそれは、少年の驚きと賞賛を引き起している。 ここで何をしていたのか問いただされる前に、少年は小さく頭を下げて足早に去っていった。 ドリアス。 ここには、美の全てがある。 少年は、その美しい全てを愛していた。 目利と言うのは、長年培われていくものである。 真に価値あるものを知っていなければ、それを見出すことはできない。 好きなればこそ、彼はそれらを深く学んでいた。 大地の生み出す奇跡。 その言葉は、少年の心に深く刻み込まれ、彼が大人になるまでしまい込まれた。 買付けてきた宝石をベルベットの布の上に並べ、スランドゥイルは満足げにそれを眺めていた。 「まるで恋人だね」 部屋に入ってきたレゴラスは、苦笑しながら言った。父は、宝石が好きだ。 だが、他の人とはちょっと違う。 それがどれだけ高値で取引きされるかなどは興味の範囲外。 自分がそれを気に入るかどうか、だ。 宝石や貴金属に関する知識はあるのだから、それを駆使して商売すれば、 もっと儲けることはできるだろうに。 否、レゴラスが生れる前、必死に働いていた頃は違ったらしい。 スランドゥイルには、守らねばならぬ者たちが大勢いるからだ。 全てが軌道に乗った今は、ほとんど道楽に近い。 「そのエメラルド、アップルグリーンでしょう? エメラルドとしての価値は低いよね」 「何を言う! この透明度、すばらしいではないか。雨に濡れる若葉の輝きだぞ。 まったく、通り一遍の基準でしかモノを見られぬのは、嘆かわしいことだ」 レゴラスは肩をすくめて見せた。 そうは言っても、レゴラスは父の価値観を認めていた。 商売は別として、スランドゥイルは美しいものを目ざとく見つけてくる。 今ここに並んでいる宝石だって、商品価値は低くても、素直に美しいと思えるものばかりだ。 父の書斎の片隅に、小さな灰色の石ころが鎮座している。 どこにでもある石ころだが、スランドゥイルの宝物である。 それを、レゴラスは覚えていた。 あれはいつだったか。まだレゴラスがとても幼い頃だ。 まだスランドゥイルが忙しく飛びまわっていた頃。 「お父様、宝石を見つけたよ!」 幼い子供は、小さな石ころを持って父に駆寄った。 「見て見て! きれいでしょう?! これ、宝石でしょう?!」 庭で拾ったその石ころは、丸くてすべすべしていた。 瞳を輝かす息子に、疲れ切っているはずのスランドゥイルは視線を合わせ、 にっこりと微笑んで見せた。 「ああ、綺麗な石だ。これはわしだけの宝石にしよう」 それ以来、その石ころはスランドゥイルの書斎の隅に鎮座している。 それを目にするたび、レゴラスは父の愛を感じるのだ。 「じゃ、僕はエルロンド様のところに帰るからね。 決算の方は目を通しておいたから。 明日は学校に行ってから、店の方に顔を出すよ。何かあったら………」 「何もありはせん。さっさと行け」 「父さん、今夜も彼女………………」 言いかけたレゴラスに、ボールペンが飛んでくる。 「よけいな詮索するんじゃねえ」 ニヤニヤしながらレゴラスは落ちたボールペンを拾い、父のところに持っていって手渡した。 「イエローダイヤのヒト」 唇を引きつらせ、スランドゥイルがレゴラスの頬をつねる。 「イタイイタイ」 「くだらねえ事言ってると、首輪つけて監禁するぞ?」 今まで関係のあった女性は、全員知っているし、それほど隠そうともしなかったのに。 それだけ本気って事? レゴラスはベッと舌を出して見せた。 「監禁される前に、逃げるよ」 ひらひらと手を振って、レゴラスは書斎を出て行った。 一人になると、またスランドゥイルは宝石を眺めた。 その価値は、誰が決めるのか。 宝石自体は、ただの石ころに過ぎない。 そう、本人は、ただの石ころとして地中深く眠っていたかったのかもしれない。 しかし、誰かがそれを見出し、磨き上げた。 その価値は、誰が決めるのか。 思い出したように携帯電話に手をのばし、並べた宝石から目を離さないままボタンを押す。 「………わしだ。今夜は機嫌がいいのでな、食事でもどうだ? 遅くなるのは一向にかまわん。手が空いたら来い。 ………ああ、今夜は、美しいものを眺めていたい気分なんだ」 『真に価値のある宝石はね、持主を選ぶのよ』 そう言ったのは、ガラドリエルだったか。メリアンを賞賛しての言葉だったと思う。 「お前が、嫌でなければ」 そう付け加えると、電話機の向うの動揺が伝わってくる。それはおかしかった。 「来てくれると、嬉しい」 そう言ってやると、スランドゥイルは電話を切った。 からかうつもりはない。 スランドゥイル自身も、この関係を楽しんでいるのだ。 一粒の宝石。それは、自分のものではない。所有しようとも思わない。 真に価値のある宝石は、持主を選ぶのだ。それは、自分ではない。 手袋もつけずに並べた石を手に取り、撫でる。 宝石を愛している。 昔も、今も。 それらが、不当に傷つけられることなく、輝き続けることを、切に願う。 持主が誰であろうと。 願うのは、宝の所有ではなく、それの永遠の輝きなのだから。