雪の上に立つエルフは、まるで一体の彫像のようだ。
踏みならされた足跡さえほとんどない。

「静かだな」

 アラゴルンは、そう言いながらレゴラスの隣に立つ。追手の気配はない。
何か、策があるのかもしれない。それでも、今夜だけはゆっくり休めそうだ。

 空は厚い雲に覆われ、ひらりと白いものが舞い降りる。

「明日は歩きづめでしょう? 休んだら?」

 アラゴルンは、小さく鼻で笑った。

「・・・・少しは、雪を楽しめたようだな」

 レゴラスは振向き、口元をほころばせる。

「遊んでたわけじゃないよ。動く標的に物をぶつける訓練だ。
ボロミアが、あの二人に剣術を教えてたようにね。
あの二人のホビットは、その才能があるんだと思う。戦場では役に立つよ」

 遊びも訓練か。レゴラスらしい。

「そういえば、俺もずいぶんどんぐりを投げられたな」

 幼き日々、あの谷で。懐かしい思い出だ。あの時、レゴラスは絶対的な存在だった。

 あれは・・・いつだったか。今思えばたいした理由もなく、
かんしゃくを起して館を飛びだした自分を、追いかけてきたのはレゴラスだった。
すぐに追いつかれて、抱しめられて、観念したんだ。

「なに?」

 ぼんやりとレゴラスを見つめていたアラゴルンに、見つめられている本人が尋ねる。

「昔を、思い出してた」

 レゴラスはくすくすと笑う。

「笑い事じゃない。幼少の俺には、大問題だったんだよ。エルフと人間の違いは」

 何の話か、レゴラスも思い出したらしい。
そのエルフは、そっと腕をのばしてアラゴルンを抱き寄せた。

「あの時は、あなたは僕の胸の高さしか身長がなかったね」

「そうだ」

 こうやって、あの時も抱しめられた。レゴラスの胸にしっかりと顔を押しつけると、
かすかな胸の鼓動が聞えた。

(心臓の、音がする)

 呟いたエステルに、レゴラスはそっと体を離し、今度は跪いて少年の胸に耳を押し当てた。

(エステルも、心臓の音がするよ。・・・・人間でも、エルフでも、同じなんだね)

 違うところばかりに目がいっていたあの頃、その一言は彼を救った。

 ずいぶんと長い月日がたってしまった。
それでも、こうやって触れていると幼い自分が顔を出してくる。

 唯一、甘えられる存在だったから。

 抱きあいながら、レゴラスは顔を上げて空を仰いだ。
片手を天に伸ばし、手のひらに落ちてきた、白い花弁をアラゴルンに差出す。
それは、一片の雪。アラゴルンがそれを受取ると、手の上で雪片は溶けてなくなった。

「今は、暖めてあげることもできないね。僕はあなたより体温が低いもの」

 それは、逃げ口上だ。

 アラゴルンはほくそえみ、体を離した。

 昔からそうだ。ぎりぎりまで近寄ってきて、そして、逃げていく。
本人は自覚していないのかもしれない。彼はいつも正しいのだから。
彼は闇の森の王の子で、裂け谷に永住するわけにはいかない。
エルロンドに擁護してもらっていた自分は、闇の森まで彼を追いかけては行けない。
自分は、人の王を運命付けられていて、彼と生を重ねられない。
彼はエルフで、自分は人間で・・・。

「すっかり冷え切っているよ、アラゴルン。焚火で体を温めて、少しでも横に・・・・」

 言いかけるレゴラスを、アラゴルンは雪の上に押倒した。

 胸の上に頭を乗せ、とくんとくんと脈打つ心臓の鼓動に、耳を傾ける。

 レゴラスは、胸の上の男の髪に、そっと手を乗せた。

 盛りを過ぎた花がいっせいに花びらを散らすように、ひらひらと雪が舞い降りてくる。
自分の手の上で、溶けない雪片に、レゴラスはどうしようもない切なさを感じた。

 空から舞い降りてくる雪。

 とても静かな夜。

 指輪の一件がなければ、こうして彼と旅を共にすることはなかっただろう。

 

 とても、静かな雪。

 

「まるで・・・世界に二人しかいないみたいだ」

 そんなことを呟くエルフは、とても残酷だ。

 アラゴルンは、目を閉じたまま応えない。

 このまま

 

 雪に埋もれてしまおうか。

 

 不意にレゴラスは体を起した。胸の上の男さえ、まるで少年のように抱き起す。
アラゴルンの髪や肩から、雪の塊が滑り落ちた。

 それからレゴラスは、愛用のロングナイフを引きぬき、自分の手のひらに刃を押し当てた。

 そこから、赤い血が滴る。

 鮮血の滴る手のひらを、アラゴルンの頬に押し当て、レゴラスは目を細めた。

「こうすれば、少しは暖められる」

 皮膚の表面よりずっと温かい体液が、冷えたアラゴルンの頬を染める。

 

 残酷なエルフ。

 

 それは、永遠の命を差出すと呟く、かの女性より胸を痛める。

 なぜなら、

 彼はそんなことを口に出さずに、命を差出そうとするだろうから。

 そして自分は、

 それを拒まないだろうから。

 

 本当に、世界に二人きりだったらよかったのに。

 

「血だらけで岩屋に戻ったら、みんな卒倒するだろう」

 たいして気にかけていないのか、まるで雪投げの冗談のように、レゴラスは笑う。
アラゴルンは、レゴラスの手を取り、その血を舐めた。傷は、深くはなかった。

 雪をすくってごしごしと頬をこする。
レゴラスは、そんなアラゴルンの手をはらって、自分が付けた血の痕を舐め取った。

「こっちの方がいい」

 無邪気にさえ見えるレゴラスの顎を捉えて、目の前にもってくる。

「全身を舐めてもらった方が、気持ちよく暖かくなれる」

「そうしてほしいの?」

 言葉にはせず、ただ口元をゆがめて彼を見つめる。
レゴラスは、もう一度だけアラゴルンの唇を舐めた。

「雪像になる前に、焚火にあたりなさい。火を絶やさないようにしてあげないと、
朝にはみんな氷になってしまうよ」

 アラゴルンは立ち上がって、体についた雪をはらった。

「そうしよう」

 一言だけ答えて、背を向ける。

 暖かなベッドで眠るより、こうして二人の時間を持つほうが心癒される。

 

 痛みを伴う、やすらぎではあっても。

 

 岩屋の入口まで来て、もう一度エルフを見る。
彼は、さっきと同じ姿勢のまま、雪を見上げていた。

 大丈夫。

 彼がそばにいてくれるから、自分は強くなれる。強くいられる。

 

 焚火のそばに戻ると、眠っていたと思っていたフロドが、うっすらと目を開けた。

「・・・起してしまったか・・・?」

 フロドはゆっくりと首を横に振った。半分、夢の世界にいるようだ。

「アラゴルン・・・・」

「なんだ?」

「ありがとう」

 見えない何かが、胸に突き刺さる。フロドは、微笑んでいた。

「あなたがいてくれて・・・・僕は歩みを進めることができる」

 アラゴルンは跪き、そっとフロドの髪に唇を寄せた。

「おやすみ、フロド」

 フロドは再び目を閉じ、安らかな寝息をたてはじめた。

 

 静かに雪は降り積る。

 全ての心を、真白な綿毛のようにおおい尽して。

 明日には凶悪なモンスターに成果てる雪であっても、今夜だけは静かに降り積る。

 

どんなに冷たい雪でも、

 心まで凍りつかせることはできない。