闇の底

 

 

 

 その男は、もうずいぶん長いことそこに座りこんでいた。

 岩屋の宮殿の奥深くにある、牢獄。

 小さな明りがひとつあるだけの、闇と静寂の世界。

 

 日に一度、一人のエルフが僅かな水と食料を運んでくる。

 彼が訪れることで、また一日過ぎたことを知る。

 

 闇と静寂の中で、男は瞑想に耽り、

 ただ一度訪れるそのエルフを待つ。

 

「あなたは、誰?」

 エルフは、いつも一言だけ質問をする。

 男は、その答えを持たない。

 否、その答えを探している。

「・・・・」

 答えられないでいると、エルフは水と食料を置いて、
静かに出て行く。

 

 そのくり返し。

 

 俺は、誰だ?

 

 自問を繰り返す。

 

 胃はほとんどカラで、朦朧とする意識は、
寝ているのか起きているのかもわからない。

 ただ時間だけが過ぎてゆく。

 

「あなたは、誰?」

 エルフは繰り返す。

 何日目かに、男はやっと顔を上げてそのエルフを見た。

 神は不公平だ。

 なぜエルフと言う種族を、
こんなにも美しくつくりたもうたのか。

 永遠の命と、美しさ。

「・・・死にゆくさだめの者」

 男はかすれる声で答えた。

 跪いたエルフは、そっと男に顔を寄せた。
そして、唇を重ねる。

 

 ひんやりとして、湿ったその唇は、男の喉を潤す。

 

「では、次の質問。あなたは何処から来たのか?」

 答えられないでいる男に、エルフはかすかに微笑んで、
また静かに去っていった。

 

そうして、また幾日も過ぎる。

 男は、残る唇の感触に、心乱されて何も考えられなくなる。

 その感触さえ、薄れて消え去る頃、
男はまた朦朧と質問の意味を考える。

 

 何処から来たのか・・・・。

 何処へ行くのか。

 

「あなたは、何処から来たの」

 繰り返される質問に、男は唇を開いてエルフを見た。

 その金色の髪は、僅かな明りさえ反射して煌く。

 闇の中で生れたエルフは、闇の中でこそまた美しい。

 死すべきさだめを持つ者は、
死すべきさだめを持たない彼らとは、相容れないのか。

「神の歌より生れ、大地に消え去る」

 エルフはまた男に近づき、口づけを交した。

「では、最後の質問。あなたは何を望む?」

 男が手をのばしかけると、するりとエルフは立ちあがって、
牢を出て行った。

 

 悩む必要はない。

 最後の質問の答はわかっている。

 

 人間とは、欲望のかたまりなのだから。

 

 また一日が過ぎ、エルフが訪れる。

「あなたは、何を望む?」

「死、だ」

 男は答えた。

 その答えが、正しかったのか、間違っていたのか。

 

「では、あなたに死を与えよう」

 エルフは男の首に、その細い指をかけた。

「死すべきさだめの人の子よ、神の御運命により生れし人の子よ、
あなたは自分の生が無意味だというのか?」

 男は、首を横に振った。

「あなたの望む死は、ここにあるのですね?」

 エルフの指が、男の首から離れ、ゆっくりと胸に落ちてゆく。

「肉体の死よりも辛い、心の死を望んでいると」

 男は、答える代りにエルフの顎を掴んで自分に引き寄せる。

「それが、あなたの答なのですか」

「・・・そうだ」

「なら」

 エルフは男に口づけた。

「殺してあげましょう」

 焼付くような欲望で。

 

 

 

闇の中で、跳ねあがる金色の髪を見つめる。
腰を強く掴んで引き寄せる。

「・・・・」

 エルフの唇から、言葉にならない声が漏れ、
男の欲望に身をくねらせる。

 しなやかな白い肢体を貫き、
男はエルフの体内に欲情を注ぎ込む。

 

 熱くて焼けそうなのは、己の方だ。

 

 重く湿った空気が、許されるはずもない願望を包み込む。

 冷たい皮膚と、熱い体内を持つエルフが、
男にしがみついて何か呟く。

「聞えない」

 激しく彼を揺さぶりながら、男が言う。

「聞えない、レゴラス。謝罪の言葉など」

 お前が悪いわけではないのだ。

 むしろ・・・

 

 悪いのは、自分。

 

 心を殺してしまわねば、
生きてゆけないほど恋をしてしまったのは、自分の方なのだから。

 

「いっそ」

 喘ぎながら、エルフは呟いた。

「あなたの肉体を、ここで亡ぼしてしまおうか」

「それで、お前はどうする」

「あなたの亡骸を抱いて、眠りにつこう。
たとえ、マンドスの館に行けなくとも」

「・・・それもいい」

 

 そして、世界は滅ぶのだ。

 

 

 

 この背徳の日々が、永遠に続けばいいとさえ望んでしまう。

 本当に、暗い地下牢で屍となるまで。

 そして、終りは突然訪れる。

「時間切れだよ、アラゴルン二世。迎えが来た」

 そのエルフは、にこやかに言った。

 

「二ヶ月も! 行方不明と思いきや、
なぜ闇の森の地下牢なぞに?」

「不審人物でね」

「たわけたことを! レゴラスとは顔見知りじゃろうが!」

 痩せこけやつれた顔で、アラゴルンはクックッと笑った。

「・・・一人で考え事をしたかったのですよ」

「考え事なら、ロリアンでも裂け谷でもできるじゃろうが」

「いいえ、あそこでは本当に一人にはなれませんから」

 闇の森の王に不審人物の素性を告げ、
事実上「助けた」のは、魔法使いガンダルフであった。

「あなたのような魔法使いにはわからないでしょうが、
人間にはどうしようもない欲求が備わっているのですよ」

 ガンダルフはため息をついた。

「子孫を残すための生理的な欲求だというのじゃろう? 
それくらい知っておる。そんなもの、
どうとでも処理すればよろしい」

「そうはいきません」

 アラゴルンは、笑んで見せた。

「もう大丈夫です。克服しましたから」

 そうやって、人間らしさをひとつずつ捨ててゆく。

 

 人の王としての運命を持つがゆえに。

 

 己のための欲望を全て棄て去り、
さだめられた運命を全うしたとき、
はたしてその先に幸福などあるのだろうか?

 愛する姫でさえ、古から決められた運命だというのに。

 

 

 

「あなたと運命を共にしよう。
僕は、あなたと同じだけ苦痛を味わう」

 

 死は、神が人間に与えたもうた恩恵。

 いつか、その恩恵を甘んじて受け入れるまで。

 

 そして、

 何より愛しいエルフは、少しずつ心を殺してゆく。