「本は、読まないのか?」

 エルロンドに読むことを義務付けられた歴史書の、
ページをめくりながらエステルが振向く。

 一年ぶりに谷を訪れた森のエルフは、静かに微笑んだ。

「そうだね。うん、読まないよ」

「エルストールたちが、森のエルフは本を読めないんだって言ってた。本当に?」

 レゴラスはクスクスと笑う。

「そうかもしれない。文字は読めるし、エルフ語も共通語もわかるけど
・・・文字にされた歴史を読むことは、好きではないんだ」

 十代の半ばを迎えた少年は、不思議そうに首を傾げた。

 

 物心ついた時から、この谷にいる。

 人間よりエルフの方が馴染みが深い。

 母親はエルロンドを尊敬していて、彼の言うことを聞くように、何度も念を押す。
エルロンドもエステルを可愛がっていたし、他のエルフたちもそうだ。

 幼い頃から、感情を隠し、物静かに過し、本を読んで勉強し、
剣の腕を磨くように教えられてきた。

 それがあたり前だと。

 頻繁な時でも、一年に一度。長い時で4,5年に一度、森のエルフが谷を訪れる。
遊びに来ているわけではないことは、わかっていた。

 谷は、来客が多い。人間の感覚では少ない方なのであろうが、
エルフの国としては、多い方だ。それは、違う国のエルフであったり、
人間、時にはドワーフであったり。

 彼らと接触することは、エステルはほとんどなかった。
詳しい事情はわからないが、エステルの存在は、公然の秘密であるらしい。

 物陰や木陰から、エステルは来客を眺めた。
来客は、物知り顔でエステルをちらりと見て、話しかけてくることはほとんどない。

 エステルは、時折、退屈を感じた。

 そんなときは、余計に本を読んだり剣を振ったりして、気を紛わせるようにしていた。

 

 谷で、感情的になることはご法度だった。

 

 年に一度、あるいは数年に一度、エステルは退屈を忘れる時があった。

 森のエルフの来訪だ。

 彼は・・・・異質であった。

 

 何故彼が、来客の多いこの谷で、異質なのか。
その理由を知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

 彼は、もちろん他のエルフ同様物静かであった。

 だが、彼が来ると雰囲気が変る。

 何故か。

 エステルは、歴史書の中に答えを見つけた。

 森のエルフ、レゴラスの国は、この谷のエルフたちを嫌っていた。
レゴラス本人は冷静を保ち、感情的にしゃべることを極力控えていたが、
だが、彼が顧問たちと話をするとき、そこに一種の緊張感がはしった。

 

 顧問たちの会議には、もちろんエステルは出席を許されてはいない。
それに不満もない。

 ある時偶然、そのそばを通りかかった時、口論が聞えた。
怒鳴りあいではなかったが、険悪な雰囲気が伝わってくる。
気になって、身を隠しながらそっと近付くと、レゴラスが顧問たちと言い合いをしていた。

「スランドゥイル王は傲慢であられる! 自分ひとりで何ができるというのだ!」

「王は森を守っております」

「だがその森も、今や闇に閉ざされておる。われらの助言を、何故受入れぬ」

「ノルドがシンダールに及ぼした危害を、いまだ忘れられぬゆえです」

「それが、最後の連合の戦いのことを言っておられるのなら・・・・」

 言葉の途中、エルロンドは片手を上げて、その顧問の言葉を制した。
隠れていたはずのエステルは、一同の厳しい視線にさらされることになった。
気まずさに、心臓がばくばくと波打つ。視線を落しながら立ち上がると、
エルロンドは厳しい口調で言った。

「部屋に戻りなさい」

 盗み聞きしたことを非難するでもなく、それだけ言う。

「読んでおくように言ったあった本が、あったであろう。
食事の時間までに読んでおきなさい」

 肩をすぼめ、小さく肯定の返事をした後、ちらりとレゴラスを見る。
ぎらぎらとした彼の瞳の色が、やわらかに空の色に変っていく。

 レゴラスは、エステルに話しかけることをよしと思わないようであったが、
瞳は微笑んで見せていた。

 エステルは、くるりと踵を返して、部屋に逃げこんだ。

 

 難しい文章に、集中できるはずもない。

 何故レゴラスと顧問たちが対立しているのか、ぐるぐると考えが回る。
否、それよりわからないのは、何故、毎回毎回口論をするのに、
レゴラスはこの谷を訪れてくるかであった。

 俺に会うため?

 その考えは、笑って打ち消した。

 集中できぬまま字面だけを追っていると、開け放たれた窓から、そのエルフは訪れた。
ドアから入ってこないのは、彼くらいなものだ。礼儀に反する。
でも、レゴラスはそんな不作法を楽しんでいたし、
エステルも、厳しい環境での悪戯を、喜んだ。

「歴史は勉強しないのか?」

「そうだね。ここで言う勉強とは、違うと思うよ。
忘れてはいけないこと、忘れられないことは歌にして、伝承するから。
歴史とか、薬草学とか・・・きっとキミの方が詳しいよ、エステル。
うん、僕は、キミから学ぶことが多いと思う」

 たかが十数年しか生きていない人間に、何を学ぶというのだろう。
谷のエルフなら笑い飛ばすところだ。だが、レゴラスは本気らしい。

「そうだ、ねえ、エステル、今読んでいるところを言葉に出して教えてくれないかい? 
キミが学んでいることを、僕にも教えて」

「本を読めば?」

 そっけなく言って見せると、レゴラスはおかしそうに笑う。

「苦手なんだ。そういうの。誰かが口にする言葉を聞くのは好きだよ。
だから、僕に読んで聞かせて」

 

 レゴラスは、不思議な存在だ。

 彼といると、退屈な読書も退屈でなくなる。

 

「それが終ったら、散歩に出ないかい? 
本を読んでもらったお礼に、僕の知っていることを教えるよ。
夕方の谷川は綺麗だよ。ここに来る途中、野うさぎの巣を見つけたんだ。
子供が四匹いてね。一匹は特別小さくて。あの子が大きくなれるか心配だな」

「夕食の後なら。それまで本を読んでいるようにエルロンド卿に言われているから」

「・・・そう。それじゃあ、夜になっちゃうね。夜は兎は寝ている。
なら、フクロウの巣を見に行こう」

 嬉しそうに話すレゴラスに苦笑する。

「いったいいくつ巣を見つけてきたんだ?」

「たくさんだよ」

 

 

 

 夜、エステルはレゴラスとの外出を許された。

 ここでは何もかも、エルロンドの許可が必要だ。エステルは特別な存在なのだ。
彼が外出する時、必ず誰か護衛がつけられる。
エルロンドの双子の息子たちと出かけるのであれば、まだ楽しめる。
しかし、一緒に歩くのがグロールフィンデルなんかだったら、
そうそう楽しいとも言えない。その男は、まず笑ったことがないのだから。

 レゴラスとの外出は、エルロンドはいつも許可してくれる。
そのあっけなさに、なにか裏があるのではないかと思えるほど。

「レゴラスの腕は信用できる。
この谷でも、彼の弓の腕にかなう者はそれほどいないであろう」

 それがエルロンドのいい分だ。レゴラスなら、十分エステルを護衛できると言う。

 理由はどうあれ、エステルは昔からレゴラスとの散歩を楽しみにしていた。

 本では得られない知識が、彼にはある。

 それは、他愛のないものかもしれない。鳥や小動物の巣、植物の成長について、
風の匂いについて。時には、狩の話もした。
どんな獲物を狙っていいのか、どう狙えばいいのか。それは、いつも楽しいものだった。

 

 星を見ながら、夜の谷を歩く。レゴラスの目は、闇夜でもよく見えている。
エステルが何かにつまずいたりしないように、そばにぴったりとよりそって歩く。

 そんな触れ合いを、エステルは好んでいた。

 約束のフクロウの巣を見に行ったあと、川の流れの緩やかなところに行って、
並んで腰をおろす。清らかなせせらぎは、空の星を映し出す。

「昼間、何を口論してたんだ?」

 会議の内容は、基本的に秘密だ。
その内容に関して、エステルが口をはさんだことはないし、許されていない。

「いろいろと・・・ね」

 レゴラスも、そのことを口にはしない。

「本で読んだよ。シンダールとノルドールの歴史を。
ノルドールの側から書かれているから、もしかしたら真実ではないかもしれないけど」

「エルフは嘘はつかないよ。だから、本に書かれていることは真実だよ。
ノルドの側の、ね」

「それを、真実と呼ぶのか?」

 エステルの表情を覗き込むレゴラスの表情は、複雑だ。

「歴史を語るのは、難しいんだ。僕は、ノルドのことを酷く教えられたけど、
実際はそんなことない。親切な一面もあるし、エルロンド卿は信頼できる。
立場の違いは、仕方がないんだ」

 誰にも盗み聞きされることなく、じっくりと本音を語れる。
ここは、館からかなり離れていた。

「スランドゥイル王は、ノルドを嫌っているのだろう?」

「まあね」

 すぐに肯定するレゴラスの瞳は、切なげだ。

「傷を受けたものは、そう容易に相手を許せるものではないよ。
時間が解決してくれるなんで、嘘だ。
だって父は、いまだに過去の傷にうなされるのだもの」

「レゴラスは、ノルドを許せるのか?」

「僕は傷を負っていないからね。・・・・許すかどうかなんて、本人が決めることだよ。
時間なんか関係ない。許そうとした時、それは許されるんだ。
父もね、本当は許したいと願っているのかもしれないよ。
父としては、最大の譲歩なんだ。僕をここによこすことは」

「難しいな」

「そうだね」

 さらりと言ってのける。

「なあ、レゴラス」

 所在なさげに、手元にあった小石を拾ってみる。
それを川のせせらぎに投げると、小さな波紋が星の光を消した。

「嫌じゃないのか? 毎回毎回、顧問たちからあんな言い方されて」

 エステルの質問に、レゴラスはおかしそうに笑う。

「気持ちよくはないけど・・・・許せる範囲内かな。
だって、王の側近、国の貴族たちの方が、口は悪いもの」

 驚いて、エステルはレゴラスを見る。レゴラスは苦笑している。

「この谷のエルフのように、上品ではないんだ。はっきりと言うよ。
彼らは、僕がノルドと交流をもつことに反対をしているから」

「だって・・・レゴラスは王子なんだろう? 王子にきついこと言ったりするのか?」

「関係ないよ。僕はまだまだ若輩者だから。一番口が悪いのは、父かもね」

 おかしそうに笑って見せる。なぜ、笑えるのかさえ不思議だ。

「それにねえ、エステル。僕が一時の感情に流されて縁を切ってしまったら、
僕の森はもう二度とノルドと話合いを持つことはないかもしれないよ。
それは好ましいことじゃない。
感情で話をしたら、本当に大切なことは見えなくなってしまうでしょう? 
僕がもっと話が上手だったら、
毎回毎回同じことを繰り返さないで済むのかもしれないけどね」

 自分の非を認めることは、とても勇気のいることだと思う。
だから、レゴラスは勇気があるのだと思う。

 波紋のおさまった水面が、また星の輝きを映す。

「・・・レゴラスは・・・俺のことを、どう思う?」

「どうって?」

 エルフの養い子。特別な人間。それは、コンプレックスでもある。

「好きだよ」

 他に答が見つからないのか、レゴラスは微笑んで言う。

「どうして? 人間が、珍しいから?」

「そうだね、それもある」

 レゴラスは、珍しいものが好き。その返答に、ちょっとがっかりする。

「でも、ねえエステル、昔からエルフは人間に惹かれるんだよ。
キミが読んでいた本の中にもあったでしょう? そんなエルフはたくさんいるんだ。
何故かな。自分にはないものを持っているからかな」

「たとえば?」

「決定的に違うのは、死、だろうけど。僕は、情熱、だと思うな」

「俺にも、情熱が?」

 微笑んだ口元のまま、レゴラスがエステルの胸に手を当てる。

「うん、そう。キミの情熱に惹かれる」

 胸に当てられた手に、心臓が高鳴る。

「いつもキミのことが気になる。離れている間も。
この谷にいるときは、ずっとキミのそばにいて話をしたいと思う」

 目を見つめられ、心臓が破裂しそうになって目をそらす。
レゴラスは、エステルのそんな純情な素振に、また笑う。

「過去のエルフがそうしたように、きっと僕はキミの後を追う。ずっとね。迷惑かい?」

 視線をそらせたまま、エステルは首を横に振った。
胸に当てられた手に、そっと自分の手を重ねてみる。
細いエルフの指は、ひんやりとしている。

「キミの手は、暖かいね。それも、僕にはないものだ。キミに触れると気持いい」

 俺がもっと大人だったら・・・・。エステルは思う。もっと大人だったら。

「レゴラス・・・・俺も・・・お前のことが好きだ。
一緒にいてくれるというなら、今すぐ谷を出たい。ここは、窮屈で退屈だ。
]お前と一緒なら・・・・」

 感情を殺したような声色に、レゴラスはエステルの手を両手で包んだ。

「俺の・・・自分の運命なんて、うんざりだ」

「エステル・・・」

 熱のこもる人間の手に、そっと唇を押し当てて、レゴラスは首を横に振った。

「運命から、逃げることはできないんだよ。たとえ逃げても、追いかけてくる。
逃げても逃げても、追いかけてくる」

「俺は、ずっとエルフの谷に閉じ込められていなければならないのか?」

 情熱に燃える瞳をレゴラスに向けると、レゴラスはうっとりとその瞳の色に見入った。

「逃げてはいけない。自分の力で変えるんだよ」

「なら、一緒に・・・・」

 熱い炎を冷ますように、レゴラスはエステルの顔を両手で包んで、
その額にキスをする。

「いつかはね。約束するよ。その時が来たら、一緒に旅をしよう。
でも今は、まだその時じゃない。あと数年・・・キミが成人するまで」

「そんなの、待っていられない!」

「待つんじゃないよ」

 額と額をあわせて、瞳を見つめる。

「キミにはまだしなければならないことがたくさんある。
エステル、君も気付いている通り、ここに人間は君ひとりだ。
ということは、ここを出たらキミは何もかもひとりでしなければならないんだよ。
もっと勉強して、腕を磨かなければ、荒野でキミを待っているのは、苦痛と死だよ」

 そんなもの・・・恐れはしない! 
自分を否定されたような気がして、レゴラスの身体を突放す。
レゴラスは少し驚いたように目を見開いた。

「勉強しろ、剣の腕をあげろ! もう、そんな言葉は聞き飽きた!」

 しまいこんでいた感情が吹出す様に、レゴラスは驚き、そして笑った。

「なにがおかしい?! お前も俺を子供だと馬鹿にしているんだろう? 
何も知らない人間だと!」

「何も知らないのは、キミの方だよ、エステル。
僕なんか、森を出してもらえるのに200年だよ? 
早く森を出たくて、外を見たくて、その間ずっと弓の練習をしていた。
ただ時間が過ぎるのを待ってはいなかった。
父は、もう100年は出したくなかったみたいだけど、
他の誰もを弓で打ち負かして、僕は外に出る許可を勝取った。
ここに来るのもそう。他の連中を腕ずくでねじ伏せたんだ。
だから僕は、僕の森で誰よりも強い。誰よりも強いから、僕には逆らえないんだ。
考えてもごらん、僕の腕を認めるからこそ、
エルロンド卿はキミと僕が二人きりになることを許すんだよ。
それだけのことを、キミはしたの?」

 静かな声で強く言われて、息を飲む。

「ねえ、エステル。僕は強いし、僕が誰より尊敬している父は、もっと強い。
だから、谷の顧問たちに何を言われてもかまわない。
本当の強さって、そういうものだよ。
確かに僕の森は闇に犯されているけど、でも父の、スランドィウルの心の強さを、
僕は理解しているし信じている。たとえ、ここのノルドに理解してもらえなくても。
見下させたりはしない。絶対にね。エステル、キミにはそんな自信はあるかい?」

 鋭いところを衝かれて、言葉を失う。

「キミが谷から開放されるまでの間、すべきことはたくさんあるよ」

 先走った感情に、己を恥じる。水面に映る星たちに視線を移し、唇を閉じる。
そんなエステルの手を、レゴラスはまた握った。

「僕は、君が好きだよ、エステル。キミの熱い感情が、僕を誘惑する。
今のままでは、谷の外で君を守りきれない。ねえ、エステル、早く大人におなり。
そしたら、一緒に荒野を歩こう」

 冷たいレゴラスの手を握り、それを自分の胸に当てる。

「約束・・・・してくれるか?」

「約束するよ」

 顔を上げてレゴラスを見ると、彼はまた微笑む。

「そろそろ帰らないと」

 そう言われて、月がかなり高い所に来ていることに気付く。もう、真夜中だ。

「もっと、一緒にいたい」

「いつか、ずっと一緒にいられるときが来る」

 そう促され、エステルは思い腰をもちあげた。

 

 

 

 レゴラスとエステルが並んで谷を歩いている姿を、
エルロンドは館の窓辺で見下ろしていた。

「よろしいのですか?」

 声をかけられ、背後の背の高い金髪のエルフに、ちらりと視線を送る。

「何がだ?」

「森のエルフは奔放です。エステルに悪い影響を与えるかもしれません」

 グロールフィンデルの言葉に、エルロンドは苦笑する。

「だが、王子は礼儀をわきまえている」

「我等の前では。しかし、人間の前では素のままです」

「レゴラスが、嫌いか?」

 館主の言葉に、唇を吊り上げる。

「シンダールは、ノルドを苛立たせます」

 エルロンドは鼻で笑って見せ、また谷を見下ろした。談笑している二人が見える。
エステルが、あんなに楽しそうにしている姿は、滅多に見られない。

「レゴラスは、私たちに教えられないことを、エステルに教えてくれるだろう」

「我等に教えられないこととは?」

 頭だけを動かして、エルロンドはノルドの戦士を見た。

「グロールフィンデル、お前には言ってもわからない」

 館主の言葉に、冷笑するようにグロールフィンデルは口元で笑い、
踵を返して館主の部屋を出て行った。

 レゴラスの強さは、ノルドのそれとは違う。

 敗北者の息子。
そのレッテルは、イシルドゥアの子孫たるエステルにも当てはまるかもしれない。
何もないところから立ち上がり、
自分の力だけで運命を切り開いていかなければならないのだから。

 その強さを、レゴラスは教えてくれるだろう。

 そして、よい友となるであろう。

 エルロンドは、窓に背を向けた。

「だがな、レゴラス。人間に魅了されたエルフの歴史は、決して幸運なものとは限らない」

 人間の情熱は、エルフを焼き尽す。