王宮に着いたのは、早朝であった。

「王は?」

 先を歩いていたレゴラスが問う。

「私室に。今使いを出します」

「いいよ。休んでいる時に起すと、機嫌が悪くなるもの」

 レゴラスがにっこりと笑って見せると、王の従者は苦笑いを返した。

「では客人に部屋を」

「うん、用意しておいて」

 気さくに答えながら、レゴラスはアラゴルンを手招いて奥へ連れて行った。

「めったに来客などないから、時間がかかるよ。
それまで僕の部屋に荷物を置いておけばいい」

 一国の王子とは思えない態度。いつもながらアラゴルンは感心する。
ここには、裂け谷の堅苦しさはない。

 レゴラスの部屋に着き、手荷物と武器を置き、外套を脱ぐと、
レゴラスはついて来るように手招いて部屋を出た。向った先は、王の寝室であった。

 躊躇するアラゴルンの背を押して、中に入る。

「王はこの時間、湯浴みをしているんだ」

「そんなプライベートなところに・・・・?」

「いいんだ。見せたいものがある」

 寝室の奥のドアをノックする。
中から不機嫌そうな返事が返ってきて、レゴラスはそのドアを開けた。

「わしの邪魔をするほど、急用なのだな?」

「来客ですよ、父上」

「そんなもの、待たせておけ」

 浴槽に身を沈めている王が、頭だけをこちらに向ける。
アラゴルンは動揺しながらも頭を下げた。

「なんだ、アラゴルンか。何用だ?」

「エルロンド卿からの書状を・・・・」

「そんなものはどうでもよい。わしの湯浴みの邪魔をする理由を聞いている」

 何をどう答えてよいか、アラゴルンは混乱していた。
王のプライベートタイムまで邪魔をする理由など、何もない。
ただレゴラスについてきただけとも言えない。

「僕が連れてきたんです」

「一緒に湯にでも入りたいのか?」

 レゴラスはクスクスとおかしそうに笑う。

「それもいいかもしれません。ここに来る途中、蜘蛛の体液を浴びてしまったようですから」

「どうりで臭いと思った」

 ニヤリと笑う王に、アラゴルンは唇を結ぶ。

 エルフの湯浴みの場など、目にすることはまずない。
彼らは汗もかかず、汚れることもないのだから。

 浴槽でくつろぐ王は、豪華な衣装を身につけた時よりもずっと若く見え、
そして、素直に美しいと思える。濡れた金髪から宝石のような雫が滴り、
滑らかな肌にも同じ水滴が飾られている。

 自分とは違う。

 またその感覚に縛られる。

 答えられないでいるアラゴルンに、王は身を起した。
脇に畳んで置いてあった布を、レゴラスが取り上げて広げる。

 湯から上った王の胸を見た時、アラゴルンは息を飲んだ。

 

 レゴラスが見せたいと言っていたのは、それだった。

 

 醜い傷が、そこを無尽にはしっている。

 王はそれを自覚している。

「・・・・・傷を負ったエルフが、珍しいか」

「・・・・・・」

 アラゴルンは、また言葉を探した。

「そうであろうな。普通、こんな傷は自然と消える」

「わざと消さないのでしょう? 父上は」

 微笑みながら、レゴラスは父の肩に布をかけた。

「アラゴルン、お前はまだ本当の戦いを知らない。
愚かなる戦いの傷は、癒されることはない。
目の前で失った同胞たちの無念を、わしは忘れないと誓った。これはその証なのだ」

「スランドゥイル王・・・・」

「エルフが常に正しいとは限らぬ。時にはホビットに助けられることもある。
おおそうだ、ビルボはどうしているかな」

 息子に語りかけると、レゴラスは知らないという仕草をした。

「エルロンドの姫に恋をしているそうではないか」

「どこから、そんなことを・・・?」

「わしだって耳くらいある」

「愚かだと、お思いになるでしょう」

「わしはそこまで傲慢ではない。もっとも、わしに娘がいたら、人間に嫁がせはしないが」

「・・・なぜです?」

「愛するものを目の前で失う悲しみを、味あわせたくはないからな」

 意味ありげに笑う息子に、王は目配せをする。

「アラゴルン」

 スランドゥイルの瞳の色は、厳しいが暖かい。

「永遠の命を棄てることができるのは、人間の血をもつエルロンドの家系だけだ。
よい選択をしたな」

 それは、祝福を意味するのか。

「とにかく、その蜘蛛の匂いを落してこい。話はそのあとだ。
レゴラス、湯と服を用意してやれ」

 レゴラスは頷くと、アラゴルンを手招いて出て行った。 

 

王子自らが客の接待をするなど、本来ありえない事だ。

アラゴルンがそれだけの対応を受けるのは、レゴラスの友人だからに他ならない。
それにしても、ただの友人以上にレゴラスはアラゴルンによくしてくれる。
別の何かを錯覚してしまうほど。

 

アラゴルンが体の汚れを落していると、レゴラス本人が着替えを持ってきた。

エルフ風の服装は、アラゴルンには馴染めないものではない。それでも

「似合わないね」

 レゴラスはそう言って笑う。

「人間がエルフのふりをするのは、許せないか?」

「そうじゃない」

 アラゴルンの胸の留金を留めながら、レゴラスが言う。

「人間は人間、エルフはエルフだよ」

 器用にアラゴルンに服を着せていくレゴラスの、手を不意に握る。
レゴラスは、アラゴルンに視線を合わせた。

「自分でできる。俺はもう、子供じゃない」

 ほんの少し戸惑ったように目を細め、そうだね、とレゴラスは手を離した。

「・・・そうだね。もう、恋をする年齢になったんだね」

「レゴラス?」

 不可解な微笑のまま、レゴラスは数歩後退り、くるりと背を向けた。

「レゴラス・・・」

「エステル、君の恋を祝福するよ。僕は、アルウェン嬢に会ったことはないけど、
きっと美しい女性なのだろうね。これはきっと、運命なのだろう。
辛いこともあるだろうけど、君ならきっと大丈夫。君は・・・・人の王の血筋なのだから」

 人間の王。それは、決して崇高なだけのものじゃない。
王の血筋の者が国に君臨していないのは、その犯した過ちのせいだ。

「・・・俺は、汚れた人間だ。夕星姫に恋をする資格など、ないのかもしれない」

「なら、ここで汚れを落していけば?」

「?」

 レゴラスは振向かない。

「僕は、人間の欲望を汚れたものだなんて思わない。
なぜならそれは、エルフにも同じようにあるからだよ。
人間もエルフもドワーフも、諍いはあっても、所詮は同じこのミドルアースで生きている。
その地位に優越なんかない。
それでも人間である自分が汚れているなんて思えるなら、それをここでみせてごらん。
僕はそれを受けとめて見せる。僕は父の傷を知っている。シンダールの愚かな過ちも。
父や祖父の負け戦も。エルフが人間より優れているなんて思わない。
エステル、君の欲望を見せてごらん。僕がそれを受けとめてあげる」

 このエルフは、欲望の意味を知っているのだろうか。

「レゴラス、お前は、人間のもつ肉欲の意味を知らない」

「肉欲? それがどうしたというの? 
シルマリルのために多くの同胞の血を流したノルドールほどの、罪があるの? 
そんなもののために己の国を滅ぼしたシンゴルほどの、罪があるの?」

「違う・・・そういう罪の話では・・・」

「アラゴルン、では君は、アルウェン嬢の貞操を無理矢理奪って、
拘束して永遠に逃げ続ける?」

「そんな・・・そんなことがしたいんじゃない!」

 振向いて、レゴラスはふと笑った。

「君は自分が思っているほど汚れてなんかいないし、君の恋は罪なんかじゃないよ。
人間とエルフが恋に落ちることが罪であるならば、エルロンド卿はどうなるの。
確かに、障害は多いかもしれない。けれど、絶対的な壁じゃない。
だって、アルウェン嬢は僕らと違って人間と生きる道を選択することができるのだもの。
・・・・そう、僕にはできないことが」

 ぱっと、アラゴルンの胸に何かがひらめいた。

 大股にレゴラスに歩み寄り、ぎゅうっと抱しめる。

「・・・・俺を、本当に許してくれるか?」

「なぜ?」

 今、初めてわかった。

 ずっと胸を詰らせていたのは、アルウェンのことではない。

 そう、彼女とは、運命の出会いをしただけなのだ。
その事に悔いはないし、罪悪感もない。

 ではこの心のわだかまりは・・・?

 心に決めた女性のほかに、強く惹かれる存在のせいだ。

 友人でありたいと願いながら、・・・・・ドゥネダインの仲間に紹介された娼婦の中で、
アラゴルンが選んだのは豊な金髪をもつボーイッシュな女性だった。

 体がそれを欲している。

「俺の肉欲は、お前にある」

 レゴラスは、驚いたふうもなく、瞳を閉じた。

「・・・エステル、僕に肉欲はないけど、きっと僕の心は君と共にある。
君と生きたいと願っている。君が欲しいものを、あげよう。僕の、命のかわりに」 

 

 

 

 その夜。

 王はいつものように宴を開いた。

 王は、人間を歓迎した。

 

 夜がふける頃、王はアラゴルンに耳打をした。

「レゴラスは、わしの大切な息子だ。決してこの地で死なせはせん。
あれの命はわしのものだ。だが、あれが人間に心惹かれることを止めることはできぬ。
お前は息子の命を奪ってはならぬ。この先、何があろうと」

「俺は、レゴラスを死なせはしません」

「深い悲しみは、エルフの死を意味することは知っておるな?」

「俺は、レゴラスを悲しませはしません」

 王は、消さない胸の傷に手を当てて、アラゴルンを見た。

「・・・誓います」

 アラゴルンは王を見つめ、そしてレゴラスの姿を探した。
楽団に混じって歌を歌っていたレゴラスは、アラゴルンの視線に気付いて微笑んだ。

 

 これは、罪なのだろうか。

 これが罪なのだとしたら、自分はその罪を背負って生きてゆこう。

 彼の心を得た喜びと引きかえに。

 喜んで罪人になろう。