エルフの姫に恋をした。

 最初こそ、己のそんな感情に浮かれもした。

 しかし、年をおうごとに、アラゴルンはそのことの重大性に気がつき始めた。

 エルフの中で育ったせいかもしれない。
いつしか、自分は特別な人間で、エルフに近い存在のように思えていた。

 

 が、違っていた。

 

 谷から開放されて、ドゥネダインと行動をともにした時、
「自分は人間なのだ」と、嫌というほど思い知らされた。

 人間にしてみれば、些細なことかもしれない。
汗をかき、泥に汚れ、疲れては睡眠を必要とし、空腹に悩まされる。

 汚れた自分の顔を鏡で見た時、アラゴルンは、
自分が本当にエルフの姫に恋をする資格があるのか、と胸を痛めた。

 そして、人間の大人の男たちに、人間の性欲の何たるかを知らされ、
その解消の仕方も教わった。

 

 エルフの国では、考えられないことだ。

 

 だが、それが人間なのだ。

 

 

 

 裂け谷に戻った時、アラゴルンは闇の森への使いを頼まれた。

 裂け谷のエルフは、闇の森で歓迎されない。
だからという理由で、アラゴルンが闇の森に足を運ぶことは何度かあった。
闇の森の王に、アラゴルンを認めさせようというエルロンドも画策もあった。

 アラゴルンは、人の王の末裔なのだから。

 アラゴルンにしても、理由はなんにせよ、闇の森に行けることは嬉しい。
あそこには、彼がいる。

 

 なのに、今回は、いつものように浮れた気分にはなれない。
人間である自分を自覚してしまった。

 闇の森の王子を、兄のように慕っていたし、今も友と呼んでいる。
彼は、自分とこの人間が違う種族に属していることを自覚しているだろうか。
子供のように純粋な彼は、子供ではなくなってしまったこの人間を今までどおり
受入れてくれるのだろうか。

 もちろん、そうだろう。

 彼は、そういうエルフだ。

 

 暗く閉ざされた森の闇の中で、静かに休息を取る。
この森の中では、あまり眠りたくはなかった。ここはあまりに暗く、危険だ。
後もう一日も歩けば、エルフの守りの圏内に入れるだろう。

 そう思いながらも、木の幹に背を預けて目を閉じると、意識がうつらうつら薄らいでいく。
かすかな物音と気配に気付き、飛び起きるとアラゴルンは剣を抜いた。

 嫌なにおいだ。

 闇に慣れた目が、闇の中に数個光る目を捕え、迷うことなくそれを切り裂く。

「ちっ」

 舌打をする。間合が近すぎた。生臭い吐気をもよおすような蜘蛛の体液を、
腕に浴びてしまった。

「蜘蛛は、矢で射る方がいいと教えたのに」

 どこからか聞えてくる声に、顔を上げて木々を見上げる。

「・・・・・・」

 安堵と不安。

 谷の外で会ったことも何度もあるのに、こんな汚れた姿で会いたくないとも思ってしまう。 

 高い梢から姿を現した彼は、案の定一点の汚れもない美しさを保っていた。

 

 それが、エルフなのだ。

 

「迎えに来たよ」

「どうして・・・?」

「斥候が三日前に森に入る人間を見たってね」

「それが俺じゃなかったら?」

「適当に蜘蛛をけしかけて、早々に出て行ってもらう」

 アラゴルンは苦笑した。

 時の流れを知らないエルフは、十年前と少しも変らず、
そして変っていく自分にも変らない態度でいてくれる。

「レゴラス」

 その名を呼ぶと、彼は微笑んだ。

「2日も歩けば王宮だけど、少し休んだ方がよさそうだね」

「いや、俺は大丈夫・・・・」

 大丈夫だと言いかけると、レゴラスはそっとアラゴルンの頬に触れた。

「疲れた顔をしている。ここで眠るといいよ。そばにいてあげるから」

 王族のエルフを襲うほど、蜘蛛も愚かではない。

 アラゴルンは言われるままに腰をおろした。

 

 闇の中、エルフはかすかな輝きを放ち、アラゴルンを包み込んでいた。

 アラゴルンは、眠る代りに心悩ましていることを友に告げた。彼は友人だ。
昔から、どんな相談にも乗ってくれた。

 姫に恋するがゆえに、自分が人間であることの辛さ。
ドゥネダインにも、もちろん裂け谷のエルフにも相談することなどできない。
そんな愚痴を、レゴラスは真剣に聞いてくれる。

 汚れなきエルフに恋をすることは、そのエルフを汚すことに他ならない。
そんなことを呟くアラゴルンを、レゴラスはじっと見つめている。
アラゴルンが話し終るのを、じっと待っている。

「俺は、分不相応な愚か者なのだ」

 そう言ったきり口を閉じたアラゴルンに、レゴラスはどこか悲しげな瞳で首を横に振った。

「・・・・君が思っているほど、エルフは純粋な種族ではないよ」

 そう告げる唇は、心なしか色あせている。

「ミドルアースの全ての罪は、エルフが持ちこんだものだもの。虚栄心も、猜疑心も。
人間が生まれるずっと前から、エルフは心に闇をもち続け、
それが冥王の付入るところとなった。人間と、どこに違いがあるというのだろう」

 レゴラスは、エルフにしてはまだ若い。最後の連合の戦いも知らない。
なのに、エルフの犯せし罪をこんなにも胸に抱えるのは何故だろう。
陽気で明るい森のエルフは、高貴な心を持ちあわせている。

「それでもエルフは、気高く美しい。人間が己の欲望を向けては、決してならない存在だ」

「そうかな」

 アラゴルンは眉をひそめた。

「花はどうして美しいと思う? その花弁の輝きで虫たちを誘惑し、利用するためだよ。
この世界に、君が思っているように純粋で美しいだけのものって、存在するのかな。
美しい声でさえずる鳥だって、縄張り争いをする。
水の中を自由に泳ぎまわる魚も、子孫を残すためにメスを取合って傷つけあう。
人間もエルフも、そんな生きものの中の一部だとしたら、同じ位置に立っているのではない? 対等に、恋をする権利もあるのではない?」

 そんなことを言うレゴラスは、どこか寂しげで、
アラゴルンは「人間に恋をしたことがあるのか」と聞きたい衝動に駆られる。
そんな言葉が思い浮ぶと、どうしようもないほど胸が苦しくなった。

「ああ、でも、アルウェン嬢は本当に汚れなき存在かもね。彼女は、空に輝く星だもの」

「レゴラス・・・?」

 違う・・・・。アラゴルンは、胸の中の誰かが叫ぶのを感じる。
俺が言っているのは彼女のことだけではない。

「レゴラス、お前は・・・・」

「僕は、人間が好きだよ。花も鳥も虫たちも、魚も。みんな。
一生懸命生きている有限の命を持つものが愛しい。
その中で、自分だけが特別な存在であるなんて思わない。彼らと、一緒に生きていきたいもの」

 レゴラスは、アラゴルンの手を取った。

 それが何を意味するものか、アラゴルンには理解しかねた。