夜の暗闇の中、エルロンドは窓辺にたたずんでいた。 雲が星明りを消す。 それでいい。 月も星もない。 暗闇の中に、たたずむ。 顔を上げずとも、わかる。 ぼんやりとした影、光の影が、部屋の中央に浮かぶ。 エルロンドは、ゆっくりとその影を見る。 影は揺らぎ、人型を作る。 月明かりのような、薄い金色の髪。 晴れた春の日のような、蒼い瞳。 手には、 細い剣。 揺らめくように、影は剣を振り上げる。 エルロンドは、目を逸らさずに見つめる。 「………」 音もなく何かが部屋に滑り込んできて、光の影を切りつけた。 朝靄のように、影は消える。 部屋に入ってきた者は、己の剣を納めて、エルロンドに振り返った。 「スランドゥイルが幻影を送れるほど、強い力を持っているとも思えないが」 エルロンドは、ベッドを見やる。 「スランドゥイルの意識ではない。あれの心だ」 レゴラスが横たわっている。 「あなたを、殺したい、と?」 「否。スランドゥイルが私を殺しに来ることを、恐れている」 グロールフィンデルは、眉を寄せる。 父の怒りを恐れながらも、前へ進もうとする、レゴラスは、愚者に思える。 恐怖を抱えるだけ抱えて、克服する事もできない。 「己に与えられた使命のためだけに生きるというのは、辛いな」 エルロンドの言葉に、グロールフィンデルは小さな吐息を漏らした。 グロールフィンデルは、エルロンドを守るという使命のためだけに、生きている。 エルロンドのように妻子を持つこともなく、他の何者に心を揺さぶられる事もなく。 「私は」 グロールフィンデルは、一度頭を振った。 「辛いと思ったことなど、ない」 エルロンドはグロールフィンデルを見る。 (グロールフィンデル) 幼子が、花を差し出す。 (グロールフィンデル、大好きだよ) (私も、あなたが好きですよ、エアレンディル) (ずっと一緒にいてね) (ええ) (ずっとぼくを守って) (ずっと、あなたをお守りします) 「あなたを守る事は、苦痛ではない。 私は、例え世界が滅びても、あなただけを守れれば、それでいい」 「………愛は」 かすれるような声に、エルロンドはベッドを見た。 やわらかな光を放つ瞳で、レゴラスがエルロンドを見ている。 「残されている……。ただ…気付かないだけ」 すぐに光は消え、レゴラスは意識を手放した。 「………」 エルロンドは、手を口に当て、失笑した。 「エルロンド?」 グロールフィンデルの問いかけには応えず、静かに笑う。 嗚咽のような、哀しい声で。 グロールフィンデルは、ただ黙ってエルロンドを抱擁した。 「運命、か」 中庭を見下ろすポーチで、エルロンドは呟いた。 エルロヒアとエルラダンも一緒にいて、微笑ましくその光景を見守っている。 レゴラスが、人間の子供と談笑している。 「闇の森は人間の街と交易がありますからね。俺たちとは違いますよ、父上。 たまに訪れる客ではなく、レゴラスにとって人間はトモダチです」 エルロヒアが笑いながら話す。息子の笑みを見るのは、珍しい。 エルロンドも、唇の端で笑って見せる。 谷のエルフのほとんどは、人間に興味を示さない。 保護すべき弱き種族、という見解がほとんどだ。 少年にとっても、人懐こいシルヴァンエルフの存在は、大きい。 「それだけではない」 ただ、人間に興味のある、変わった性格のエルフ、というわけではない。 たぶん、いくらシルヴァンでも、闇の森の王国の者でも、 レゴラスのようあの少年に惹かれたりはしないだろう。 たとえ、スランドゥイルでも。 「運命の力を、感じるのですか、父上?」 エルラダンが、眉をひそめる。 「あの子が、真の人の王であるならば」 彼に付き従うエルフの友を見出す。それは、歴史からも想像しやすい。 そしてまた、エルロンドは救えなかった人間の友を思い、目を伏せる。 「今はただ、最善と思われることをするべし。 過去は変えられぬし、未来は誰にもわからぬ」 唐突に現れたグロールフィンデルに、エルロンドは苦笑する。 「ミスランディアの受け売りだな」 グロールフィンデルはにこりともせず、中庭を見下ろした。 「エステル、母君が捜しておられる」 少年は顔をあげ、グロールフィンデルを見て手を振った。 「不思議なのは」 エルロヒアが、ニヤリと笑う。 「レゴラスのように笑いもしない、冗談も言わない、 グロールフィンデルがなぜ、エステルに好かれているかと言うことだ」 エルロヒアの言葉を気にも留めず、グロールフィンデルはエルロンドに向き合う。 「エルロンド卿、来客です。顧問たちが会議に出席をと」 「わかった。エルラダン、エルロヒア、王子の事は、お前たちに任せる」 そう言ってから、エルロヒアに笑いかける。 「グロールフィンデルは、昔から子供に好かれるのだ。 お前たちも、グロールフィンデルによく懐いていた」 エルロヒアは眉を上げ、エルラダンと顔を見合わせ、そして笑った。 グロールフィンデルと並んで歩く。 「私が王子に触れる事は、もうないだろう」 「戯れに飽きましたか」 「そうだな」 エルロンドは前方を見たまま答える。 「レゴラスは、エステルのものだ」 おや、とグロールフィンデルがエルロンドを見る。 「スランドゥイルに従属しているのでは?」 「運命の導きだ」 「では………やはり、エステルは人の真の王に」 「時間はない。人間の成長は早い。ミスランディアに連絡を」 「御意」 グロールフィンデルは頭を下げ、エルロンドとは反対の方向に歩き出した。