館の奥深く。 いくつもの階段を下りる。 レゴラスは、物珍しげに周囲を見回す。 「父の研究室がある」 エルラダンはそう言って、レゴラスを導く。 日の光の入らない廊下の奥に、その扉はあった。 扉は開いており、中から明かりが漏れている。 扉の前に立つのは、黄金の髪のエルフ。 「グロールフィンデル」 エルロヒアとエルラダンは、そのエルフに頭を下げた。 レゴラスも頭を下げる。 グロールフィンデルはレゴラスを一瞥し、無言で部屋の中を指し示した。 レゴラスが、一歩、踏み出る。エルロヒアとエルラダンは、下がる。 レゴラスは一度振り向いて二人を見、部屋に入る。 そこには、数々の植物が置かれ、 レゴラスの知らない得体のわからないものもいくつもあった。 エルロンドは、中央に置かれた机に向かい、何かを熱心に書きとめていた。 「申し訳ないが、しばし待って欲しい」 顔も上げずに、エルロンドは言った。レゴラスは無言で立ち尽くす。 ありとあらゆる、薬草、薬の類だ。エルロンドは薬学の大家と聞く。 色々な匂いが入り混じっている。決して、嫌な匂いではない。 が、狭い室内で嗅ぐには、少々きつ過ぎる。 レゴラスは、目眩を感じた。 茜色の、揺らぐろうそくの明かり。甘い薬草の香。 足元がふらつく。 「………」 バランスを失い、よろめいたレゴラスを抱きとめたのは、グロールフィンデルだった。 「酔ったな?」 エルロンドが顔を上げる。 「外へ連れて行きなさい。風にあたれば、酔いもさめる」 グロールフィンデルは、レゴラスを抱き上げた。 風当たりの良いポーチの長椅子に、レゴラスは横たわっていた。 何度も深呼吸をして、新鮮な空気を吸う。まだ頭の中が回っている。 「飲みなさい。気付けのワインだ」 目を開けると、グロールフィンデルがグラスを持って立っている。 体を起こそうとするレゴラスの頭を、グロールフィンデルは支え、 ワインを口に含むと、レゴラスの口に流し込んだ。 「………」 甘い味のするワインだ。 喉を鳴らして飲み下す。 もっと、欲しいと思った。 レゴラスは、グロールフィンデルの肩を掴み、求めるように唇を重ねた。 気配に、グロールフィンデルが振り向く。 そこに、地下から出てきたエルロンドが立っていた。 「エ………」 名前を呼ぼうとして、言葉に詰まる。 グロールフィンデルを一瞥したエルロンドの視線が、 今まで見たこともないほど、冷たかったからだ。 「レゴラス、気分はどうだね?」 「はい。だいぶよくなりました」 エルロンドのそんな態度に、レゴラスは気づいた風もない。 「慣れぬ者にはキツかったな。申し訳ない」 「いいえ」 グロールフィンデルを無視し、エルロンドはレゴラスに歩み寄り、片手を出す。 「来なさい。そなたの質問に答えよう」 エルロンドの書斎でゴラスは椅子を勧められ、腰を下ろす。 この空間も、レゴラスはあまり好きにはなれなかった。 壁という壁を、本が埋め尽くし、空間を圧迫している。 「そなたは、私に何を聞きたいのだね?」 「五軍の戦いの後の情勢です。闇は本当に去ったのでしょうか。 真に平和が訪れたのなら、なぜ我が森は闇に包まれたままなのでしょう」 「王は何と申している?」 「王は、何も」 レゴラスは、一瞬眉を寄せ、口ごもる。王、という言葉に、抵抗感を感じる。 自分は王国の使者ではないのだから、王の名は、口にすべきではない。 「これは、僕個人の質問です」 うむ、とエルロンドは頷く。 「そなた個人に教えられる情報は、少ない。 我らは、そなたの王国と協調したいと切望している。 その上で、我らの知っている情報を共有し、対策を考えたい」 つまり、何も教えられない、ということか。 しかしレゴラスは落胆しなかった。それは、最初からわかっていたことだ。 「僕の、もっと個人的なことなら、答えてくださいますか」 「質問による」 「あなたは……なぜ僕をさらったのですか」 エルロンドはレゴラスを凝視する。 「思い出したのだね?」 「はい。すべて」 沈黙。 エルロンドは気付いていた。 エルロンドを見るレゴラスの視線は、非難するものではない。 憤りも恐れもない。ただ純粋に、疑問に思っている。 「あなたは、僕が欲しいわけではありません。 僕に、興味なんかないのに、なぜ僕と交わったのですか」 エルロンドは、レゴラスを見つめたまま、沈黙している。 「あの子供は、何者ですか」 エルロンドは、ぎょっとして目を見開いた。 「……子供?」 「あなたの意識の中にいた、子供です。僕はずっと考えていました。 あなたは僕に、ご自分の意識を移しました。 スランドゥイルが欲しい。 あなたは、僕を通して、スランドゥイルを求めた。 その欲望に、僕は確かに苦しみましたが、父がそれを消し去ってくれました。 それと同時に、あなたの意識のいくつかが、僕の中に流れ込みました。 あなたは、焦っている。 たぶん、あの子供が原因。 スランドゥイルを欲しがるのは、早急に同盟を組む必要があるから。 何らかの理由で、闇の森の王国と手を組む必要がある。 それと、あなたがスランドゥイルの肉体を欲しがる理由が、 僕には今ひとつ繋がりません。 僕と、交わりを持った理由も。 それとも、それらの事は、何ら関係はないのかも」 黙して聞いていたエルロンドは、唇を吊り上げた。 「シンダールの血、だな」 「?」 レゴラスは首を傾げる。 「そなたには、高貴なシンダールの血が流れている。 そなたの祖父、オロフェアの、統率者としての血だ」 「祖父を、ご存知なのですか」 「知らぬ者はおらん。シンダールを率い、シルヴァンを統率し、王となった者だ」 高潔で、自尊心が高く、それゆえ、命を落とした。 エルロンドは立ち上がると、レゴラスに歩み寄り、その細い顎を掴んだ。 「血の宿命には逆らえん。私には、ノルドールの血が流れている。 欲しい物は、どんな手段を使っても、手に入れたい欲望の血だ」 エルロンドを見上げるレゴラスの瞳は、澄んでいる。 「そう、関係ないのだよ。 モルドールを監視し、兵力を揃えるために闇の森は重要だ。 こちら側に付けたい。 先に、奴らの拠点とされては、脅威になる。 そのためには、スランドゥイルを懐柔するか、殺して奪うか。 どちらでもかまわない」 「同族殺しは重罪です」 「今更、地獄の業火に焼かれる事など、恐れない。 私は、世界の均衡を保たなければならないのだ。 わかるかね、王子。私はスランドゥイルが欲しい。そなたは捨石だ」 じっとエルロンドを見上げていたレゴラスは、ふと目を細めた。 「だから、ここには、喜びがないのですね」 憂いだ瞳を伏せる。 「やっとわかりました」 それからまた、目を上げる。 「でも、エルロンド卿、あなたに王を奪われるつもりはありません。 スランドゥイル王は、僕たちのもの。 僕たちは、王を亡くしては存続できません。 イムラドリスと、戦争もしたくありません。 僕にできることをおっしゃってください。僕は、何でもします」 「私の部屋に監禁し、もう二度と森に帰れなくなってもか?」 「父はそれを許しません。それでは、戦争になります」 わかっている。 どんなことをしても、あの男は、手に入らぬのだ。 母を失い、兄弟と別れ、 愛する妻を苦しめ、 息子たちを闇に繋ぎ止めている。 それでも、 宿命の道を歩まねばならぬのだ。 「そなたが私の慰み者になるのなら、子供のことを教えよう」