森の入り口で、双子とは別れた。
 レゴラスは、王宮への帰路を急いだ。



 王の間の重い扉を開き、王座に座る父と顔をあわせる。
 スランドゥイルは、いつものように、気だるげに頬杖をついている。
不機嫌そうに、帰郷した息子を見やる。
 足早に王に近付いたレゴラスは、不意に何かに気づいたように足を止めた。
 突然青ざめ、唇を振るわせる。
 その場に居合わせた王の側近たちは、
勝手に森を出た王子が、王を前に、己の愚行に気づいたのだろうと思った。
 スランドゥイルは、息子の表情の変化に眉を寄せる。
 レゴラスは崩れるように跪き、頭を垂れた。
「………申し訳ありません……勝手な事をいたしました」
 スランドゥイルは、黙って王子を見下ろしている。
 レゴラスがイムラドリスに行っていたことはわかったが、
そこ事は国の者には知らせていない。
それは、王子が戯れに「勝手に行った」で済まされることではないのだ。
 であるから、スランドゥイルは、
今までどこに行っていたか、何故勝手に出て行ったのか、
問うことをしなかった。
 レゴラスも、簡単に口にするほど愚かではあるまい。
「部屋に戻り、謹慎しておれ」
 スランドゥイルは、それだけ言った。



 自分の部屋に戻るなり、レゴラスは床に倒れこんだ。
 父の顔を見たとき、フラッシュバックのように、全てを思い出したのだ。
 あの時、エルロンドを追いかけて、そして、魔法で眠らされ、
連れ去られ、イムラドリスのエルロンドの寝室で、何をされたのか。
 呻きながら、うずくまる。
 得体の知れぬ感覚。
 誰かが、何かが、自分の中に入ってくる。
「…………いや…だ………こないで……」
 体の中が、燃えるように熱い。
「たすけて……父上……」
 床をかきむしり、頭を振り乱す。
「あ………あ…」
 心を犯される。
「………!」
 泣き濡れた顔で、ハッとレゴラスは部屋の扉を見た。
 扉の外に……
 転がるように扉に駆け寄り、両手をついて額を押し当てる。
「父上」
 必死に冷静な声を出す。
「申し訳…ありません…。今は…会わせる顔が、ありません。
ひとりで……反省…します」
 声が震え、涙が零れる。
「レゴラス」
 扉の外の、父の声に、理性を持っていかれる。
「開けなさい」
 よろめいて、後ずさる。
 するりと入ってきたスランドゥイルは、扉を閉じた。
 泣き濡れ、混乱した表情の息子を、ふわりと抱き寄せる。
「……欲しい…」
 レゴラスは、低く呟いた。
「欲しい…スランドゥイル」
 ぎょっとして、スランドゥイルは息子を顔を見た。
レゴラスは光のない瞳で父を見上げた。
「お前が、欲しい」
 そして、がくりと崩れ落ちた。



 こんこんと眠り続けるレゴラスの傍らで、スランドゥイルは静かに歌を口ずさむ。
「王子は、いかがされたのでしょうか」
 もう三日、レゴラスは眠り続け、スランドゥイルは王子の傍らで歌を歌っている。
心配した側近たちが、王にワインと果物を持ってくる。
「慣れぬ外に出て、疲れたのだ。愚かな息子だ」
 冷たい口調の中に、王の愛情を知る。
 この国の誰もが、スランドゥイル王の愛情の深さを知っている。
 それは、息子に対するもの、国の全ての民に対するもの、
この森に、世界に、対するもの。
 
誰もが、王に、愛されていると感じるのだ。
側近が出て行った後、スランドゥイルはレゴラスの手に触れた。
「起きなさい」
 ふとレゴラスの瞳に光が宿り、頭をめぐらせて父を見る。
「父上」
 レゴラスは、やっと愛しい人に会えたように、微笑んだ。



 夜の闇の中、森のエルフたちは宴を繰り広げる。
 毎夜、月明かりの下、楽しげなエルフの声が、闇の森に響く。
 
 宴の輪から少し離れたところに、スランドゥイルは座していた。
その膝に、レゴラスは頭を乗せ、星を見上げていいる。
「もう、大丈夫です。僕の中にいたものは、去りました」
 あれは、悪い夢だったのか。いや、現実だ。エルロンドの、心。
「父上、もう一度イムラドリスに行かせてください」
「あのような事をされたのにか」
「このままでは、僕は戯れに弄ばれた玩具のままです。
それにもう、手の内は見たのですから、対処はできます」
「恐れぬのだな」
「怖くはありません。ただ、他者を受け入れるという感覚に、驚いただけで」
 肉体の交わりは、精神の交わり。
「父上も、誰かと交わるのでしょう?」
 唐突な質問に、スランドゥイルは言葉を失う。
レゴラスは起き上がって、父を覗き込んだ。
「エルロンド卿は、なぜそんなに父上を欲しがるのでしょう? 
父上は、なぜ頑なにエルロンド卿を拒むのですか?」
 真面目にそんなことを言う息子に、戸惑う。
レゴラスはまだ、愛だの欲望だの、知らないのだ。
レゴラスにとって陵辱された事は、
誰かに喧嘩を売られたような感覚でしかないのだろう。
怪我をしても、その傷はすぐに癒える。
シルヴァンが、無知と言われる所以だ。
「愛していない者と、交わる事はできぬ」
「僕は、父上を愛しています」
 くっとスランドゥイルは失笑する。
その区別も、つかぬのか。笑うスランドゥイルに、レゴラスは首を傾げる。
 無知で無垢な森のエルフ。
「わしもお前を愛している」
 にっこりと、レゴラスは嬉しそうに笑う。
 この単純な安らぎを、きっと、エルロンドは欲しているのだろう。
「僕は、思うのです。
イムラドリス、最後の憩いの館、は、安らぎはあっても、喜びはない。
音楽も、歌も、みんなすばらしく洗練されています。
でも、その歌に喜びはないんです」
 離れた所で、輪になり、ワインと食事を楽しみ、
笑いながら歌う、森のエルフたちを見る。
「なんでみんな、僕たちみたいに暮らせないのでしょう」
 スランドゥイルは、ほくそえむ。
誰よりも一番、スランドゥイルがこの生活を愛している。
この生活を、守りたいと思う。
「だからこそ、なのです。父上。
守りたいから、森を脅かすものを、知りたいのです。
お願いです。もう一度、イムラドリスへ行かせてください」
「許可できぬ。行けば再び、お前は奴らの餌食になる」
「父上」
 すっとレゴラスは立ち上がった。
これは戯れではないのだ、と、真剣な表情で、スランドゥイルを見つめる。
「父上。僕は、子供ではありません。
エルロンド卿は、この森を、スランドゥイル王を欲しがっています。
卿が欲しいのは、私ではありません。
でも、僕が盾となることでこの森を守れるなら、
僕は喜んで盾になり、陵辱を受けましょう。
僕にとって大切なのは、そんな肉欲ではなく、
森の、この国の、王の、存続なのです。
肉体を辱められても生きていけますが、
僕は、王と王の治めるこの森がなくなったら、生きていけません。
父上は、僕がどれだけ愛しているのか、わかっていません」
「お前は、わしがどれだけお前を愛し、
失うことを恐れているか、理解しておるのか」
「わかっています。イムラドリスは危険ではありません。
それより、彼らの持つ情報を無視する方が危険です。
ドル=グルドゥアの一件もあります。僕を、イムラドリスに行かせてください」
 強情な子だ。
 スランドゥイルは目を伏せた。
 いつかレゴラスは、ダゴルラドにも、恐れを抱かず出陣するだろう。
「………公式にイムラドリスへ使者を送る事はできぬ。
貴族たちもそれを許さぬだろう。
エルロンドらとは、わしらは相容れぬのだ。
 お前が、個人的に森を出ることは、…目をつむろう。
勝手に行かれては、困る。必ず、わしに報告をしろ。
それも、決して他言するではない」
 レゴラスは、すとんとスランドゥイルの前に腰を下ろした。
「父上、ありがとうございます!」
「レゴラス、本当は、わしは怒っておる。
イムラドリスに攻め入り、エルロンドを打ち倒してやりたい。
よいか。わしはお前を犠牲にするつもりは、微塵もない。
お前が傷つく事は、耐えられん。
お前を亡くせば、わしは正気でいることも叶わぬだろう。
その事を、忘れるな。わしのためを思うなら」
 レゴラスの頬に触れる。
「二度と涙で頬を濡らすような事は、するな」
 その父の手に、愛しげに触れ、レゴラスは頷く。
「……はい。父上」
 父の手を握り、レゴラスは立ち上がった。
「みんなが、王を待ってます」
 宴の輪で。



 夜が明け、自室に戻ったレゴラスは、ベッドの上で熱い溜息をついた。
 父には言わなかったが、体の熱が冷めない。
 ふと、スランドゥイルを欲しがっているのは、
エルロンドなのか、自分なのか、わからなくなる。
 たぶん、心のどこかが、共感するのだ。
(心のどこかに、闇を持っているから、こんな残酷な癒しが必要になるんだよ)
 エルロンドの息子が、囁いていたのを思い出す。
(きみは、生贄にされたんだ)
 鼓動が早くなり、自分の腕を抱く。
(もう、純粋な愛は、残されていない。
ケレブリアンは死んだ。
エルロンドは愛する妻を、俺たちは大切な母親を、醜く切り刻まれた。
もうこのミドルアースに、心安らげる場所はない)
(ごめん、痛いだろうね。今は、痛みは感じないだろうけど。
目が覚めたら、きみはきみの知らない痛みを、知ることになるんだ)
(もう、きみは、知ってしまった。痛みが、自虐的な喜びであることを)
 父上に、抱かれたい。
 心の底にたどり着いた時、レゴラスは慌てて飛び起きた。
 そんなことを考えるなんて!
 これは、
 誘惑。
 破滅への、誘惑だ。