エルロンドは、前方に人影を見つけた。
 次第に馬の歩調を緩め、白馬に乗ったその男の手前で停まる。
「館の者に行き先を告げず、いったい何処まで行かれていたのですか」
「探しに来たのか?」
「いいえ。お迎えに上がりました」
 この男に嘘はつけぬ。エルロンドの行動は、お見通しというわけだ。
 白馬の男は、エルロンドの腕の中のものに目を留めた。
「……狩りにでも、行かれたのですか」
 眉を寄せる。
「それは……」
 エルロンドは己の外套で腕の中のものを包み、
白馬の男、グロールフィンデルに手渡した。
「私の部屋へ。誰にも見られぬように」
「とても、賢い行動とは思えませんが」
 エルロンドは口許をゆがめて見せるだけだった。



 遠出の理由を釈明するのに、思いのほか時間がかかった。
 顧問たちの質問からやっと解き放たれ、自室に戻る。
エルロンドの寝室で、グロールフィンデルは椅子に座り、
瞑想するように目を閉じていた。
「顧問たちは、納得いたしましたか?」
 エルロンドが部屋に入ると、目も開けずに言う。
「納得も何もない。外を逍遥していたまでのことだ」
 顧問たちの会議の場に、グロールフィンデルは出席しなかった。
その事をとがめる者はいない。
最高顧問の一人でもあるグロールフィンデルは、
特別にエルロンドが召集しない限り、会議を欠席する権限を持っている。
「では、ご説明願えますか」
 グロールフィンデルは目を開け、ベッドに横たわる若いエルフを見た。
エルロンドはベッドに腰掛け、瞳を空ろに開いたまま眠りに落ちている若者に触れる。
「流浪のシルヴァンを捕獲してきたわけでもありますまい」
「これは、シルヴァンではない」
 やわらかな陽の光の髪を、撫でる。
「シンダール、スランドゥイルの子だ」
 さすがのグロールフィンデルも、驚きの表情をする。
「…なぜ、拉致を?」
「欲しかったから」
 立ち上がったグロールフィンデルは、エルロンドに歩み寄った。
「スランドゥイルの王国と、戦争をするおつもりですか?」
「もしそうなったら」
 エルロンドはほくそえんで、グロールフィンデルを見上げた。
「お前が闇の森の兵を全て切り捨てれば良い」
「私に、同族殺しの罪を被れと」
「私のために」
 息を呑んでエルロンドを見つめていたグロールフィンデルは、
ふと肩の力を抜く。
「わかりました。それであなたのお気が済むなら。
私はスランドゥイルの首も取ってまいりましょう。
それであなたが、館の主でいられるのなら」
 グロールフィンデルは、決して酔狂で言っているのではない。
エルロンドは哀しげに目を細める。
「お前まで、そのような事を言うのだな」
 エルロンドがこの「最後の憩いの館」の主でいるために。
 グロールフィンデルは手を伸ばし。エルロンドの顎に触れ、上を向かせる。
「たかがシルヴァンの一人や二人、
欲しいのなら好きなだけ奪い、陵辱するがいい。
あなたの代わりはいないのだ。
世界はあなたにそれだけのものを払う義務がある。
しかしエルロンド」
 顔を寄せ、瞳の奥を覗く。
「私に嘘をつくな」
 体を離し、背を向ける。
「しばし、その者の肉体を愉しむがよい
。私が、より深く眠らせた。目覚めた時には、何も覚えていないだろう。
ガラドリエルが探している。ほんの一時だけ、時間稼ぎをしよう」
 グロールフィンデルは出て行き、そして、寝室の扉に封印をした。



 欲しいと、思った。
 その瞳は、輝いていた。
 それは、生きる力。
 自分には無いもの。
 エルロンドは知性の中に安らぎを求めた。
深い思慮と、広大な知識。
そんなエルロンドには、その者は愚かしく映った。賢い選択ではない。
 複雑な運命に翻弄されながら、選ばれ、ここにいる自分を、あの男は拒絶する。
 あの男だけが、
 拒絶するのだ。
「………」
 腕の中で、血の気のない唇が、何か呟く。
 シルヴァンの言葉だ。
 無意識の中で、詩を歌っている。
 焦点の定まらない瞳が、一粒、涙を零す。



 椅子にもたれ、エルロンドは酷く疲労を感じていた。
「父上、お呼びですか」
 扉の外から声がする。
扉の封印を解いたのはグロールフィンデルで、
ガラドリエルからの呼び出しを告げに来た。
「入りなさい」
 グロールフィンデルは、シルヴァンの王子に関わるつもりはないと言った。
そこで、エルロンドはたまたま帰郷していた息子たちを部屋に呼んだ。
 エルロンドの双子の息子たちは、父のベッドにいる青年に、顔を見合わせた。
「シルヴァンの子……ですか? ロリアンの者ではありませんね」
 息子たちは、ロスロリアンと頻繁に行き来をしている。
「しばらく監視………様子を見ていて欲しい」
 エルラダンとエルロヒアは、眠っている青年を間近で眺める。
「私が戻るまで」
 一呼吸おき、エルロンドは続けた。
「好きにして良い」
 エルロンドは寝室を出た。
 ガラドリエルと話をするために。



 そこは谷の淵にあり、遠く景色を見渡せる。
 淵に立つ、輝く光の存在に、エルロンドはゆっくりと歩み寄った。
(愚かな事を、しましたね)
 しかし、怒りの声色ではない。
(なぜ、闇の森の宝を、持ち帰ったのですか)
 エルロンドは答えない。
(エルロンド)
 それは、光り輝く女性となって、疲れたエルロンドの頬を撫でる。
(さみしいのですか)
 ガラドリエルは吐息をつく。
(返しなさい。スランドゥイルが探している。
あまり、スランドゥイルを困らせるようなら、
兵を差し向け、奪い返すしかなくなります)
(スランドゥイルが?)
(いいえ。ケレボルンが)
 エルロンドの眉が上がる。
(そんなことを、あなたがお許しになる?)
(エルロンド、あなたは大切な事を忘れている。
わたくしは、夫を愛している。夫は、旧友に誓ったのです。
旧友の息子を、助けると。
わたくしは、夫に従います。
 エルロンド、あなたの心は、どこにあるのですか。
 闇の森の王子に、心を奪われたと?)
 ああ、とエルロンドは思う。
闇の森の王子に、心を奪われた、拉致して陵辱したいほど、
心を揺り動かされたのか。
「違います」
 エルロンドの唇は、狡猾に笑んだ。
「スランドゥイルは頑なにわれわれの提案を受け入れようとしません。
それは、愚かなる判断です。
今まさに時代が動こうとしているこの時、
スランドゥイルの力は、どうしても必要となってくるでしょう。
 彼の息子は、王子は、柔軟な思考を持っています。
彼をイムラドリスに招き、世界を知らしめ、
その閉じた目を開かせることができれば、
スランドゥイルも動かざるを得なくなります」
 ガラドリエルの、心を見通す眼光の前で、エルロンドははっきりと言った。
「これは、王子が望んだ事です」
 ガラドリエルは、何か言いたげに唇を開き、そして、笑んだ。
(夫に伝えます)
 胸に手を当て、エルロンドは頭を下げる。
(エルロンド)
 顔を上げると、ガラドリエルの光は弱まり、ゆっくりと消えていった。
(許します)



 エルロンドが寝室に戻ると、エルラダンとエルロヒアは、ベッドから降りた。
「そろそろ、目覚めさせる」
 双子はすぐに自分たちの服を身につける。
「湯浴みの用意、それから、着替えもあったほうがいい。
食事はその後だな」
 二人は手早く打ち合わせをして、仕度を始める。
 エルロンドは眠る青年に顔を寄せ、
一度口づけてから、目覚めの言葉を呟いた。
 空ろな青年の瞳に、光が宿る。
「………ここは…どうしてこんなに、暗いの?」
 ぎくり、とエルロンドが身を引く。
レゴラスはゆっくりと起き上がり、周囲を見回した。
「ここは?」
 先ほどより、はっきりとした口調。意識が覚醒したのだ。
「私の館、イムラドリスだ」
 レゴラスの目が見開かれ、また周囲を見回す。
エルロンドによく似た、若い二人のエルフが立っている。
「私の息子たちだ」
 驚きの表情のまま、レゴラスは頭を下げ、
「闇の森、スランドゥイルの息子、レゴラスです」
 名乗ってから、自分が服を身につけていないことに気づく。
「?」
「こちらに来て、湯浴みをなさい。着替えも用意してある」
 エルラダンは手を差し伸べ、レゴラスを導く。
導かれるまま、レゴラスはエルラダンとエルロヒアについて行った。
 体を清め、ここの流儀に沿った服を身につける。
「何も…覚えていないのです。僕は、どうして、どうやってここに?」
「私が連れてきた」
 エルロンドが、自らお茶をレゴラスに差し出す。
「飲みなさい。頭がはっきりする」
 椅子に座り、お茶を受け取る。清涼なハーブの香り。
「ここの入り口は、秘密なんだよ、王子」
 そう言って、エルロヒアが微笑んでみせる。
「父は君に目隠しをして、連れて来た」
 理解しているのか、していないのか。
レゴラスは小首を傾げるだけで、それ以上の質問はしなかった。
「君の来訪は、館の顧問たちには、秘密だ。
スランドゥイルの王国の者がここを訪れるのは初めてだからね。
君も、質問攻めにはなりたくないだろう?」
「だから、少し窮屈な思いをさせてしまったと思う」
「でも俺たちは、君を歓迎する」
 エルロヒアとエルラダンが代わる代わる言い、
まだ事態を飲み込めていないレゴラスを、親愛を込めて抱く。
「気分はどうだい?」
「……悪くは、ありません。
まだちょっと、頭の中がはっきりしないのですが」
「深い眠りから覚めたばかりだから」
 若いこの二人は、屈託なく見える。
「息子たちに、館の中を案内させよう。
私といるより、堅苦しくないはずだ」
 戸惑いながらも、レゴラスは礼を述べる。
 お茶を飲んだ後、
エルロヒアとエルラダンに連れられ、レゴラスは館の中を巡った。
 時折、黒髪のエルフとすれ違ったが、
彼らはレゴラスに興味を示さない。
それがレゴラスには不思議だった。
「ここには、エルロンドの知識を求める者がやってくる。
来訪者は珍しくない。
君がシルヴァンの服装のままうろついていれば、それは目立つだろうけど」
 洗練された工芸品。美術品。
音楽を奏でる楽師。
本を読むことに没頭する者。
レゴラスには、不思議な意空間であった。
 最後に、エルロンドの書斎に通される。
エルロンドは座って、書類をしたためていた。
息子たちとレゴラスが入ってくると、顔を上げてペンを置く。
レゴラスは、壁いっぱいの蔵書に圧倒されているようであった。
「さあ、闇の森の王子、そなたの知りたいことはなんだね?」
 エルロンドの質問に、戸惑う。
漠然と、外の世界を知りたいと思っていたが、
それはあまりに大きすぎ、自分が何を知りたいのかさえわからなくなる。
「本当なら、自分が何を知りたいのか、
どのような答えを求めているのか、
館に留まり、じっくりと考えて欲しいのだが、そうもいくまい。
そなたの父が、そなたを探しているだろう。
息子たちに送らせるので、一度国に帰ると良い。
そして、またいつでも来なさい。道順は、帰りに覚えれば良い」
 エルロンドの言葉に安堵する。実際、まだ頭の中が混乱しているのだ。
「ありがとうございます」
 レゴラスには、礼を言うのが精一杯だった。
 


 夜の帳が降り、レゴラスは人気のないポーチに、ひとりたたずんだ。
エルロヒアとエルラダンに、少しひとりで考えさせて欲しいと頼んだのだ。
 星明りは、落ち着く。
 無意識に、歌を口ずさむ。
 手すりにも垂れ、星を見上げて、混乱し興奮した胸の熱を冷ます。
「………」
 殺気とも思える気配に、振り向きざまに片手が背に伸びる。
無意識に弓を探している。そして、自分が弓を携帯していないことに気づく。
「良い反応だ。闇の森の王子」
「………どなた…ですか?」
「私はエルロンドの側近、グロールフィンデル」
 レゴラスの肌が、ぴりぴりと反応する。この男は、戦士、だ。
そう直感する。それも、そうとうの腕の持ち主。思わず後ずさる。
「怯えずとも良い。そなたに危害は加えぬ」
 ゆっくりと歩み寄ったグロールフィンデルは、レゴラスの顎を掴んだ。
「本当に、何も覚えておらぬのだな?」
「何を………?」
「そなたは闇の森に帰り、父である王に接見した後、ここでのことを思い出す」
 何の事かわからず、レゴラスは首を傾げる。
グロールフィンデルは、手のひらをレゴラスの胸のにあて、
「そしてまた、ここを訪れる」
 そう囁いた。
 そして、くるりと背を向けると、音もなく暗闇の中に去って行った。
 入れ替わるように、双子が姿を現す。
 手を胸に当てて、硬直しているレゴラスに近付き、軽く揺さぶる。
「レゴラス?」
 はたと我に返ったレゴラスは、大きく息を吐いた。
「グロールフィンデルだな? 何か言われたのか?」
「…いいえ。自己紹介…を」
「ああ、彼は父の側近だからな。父が連れて来た者を見に来たのだろう」
「大丈夫か?」
 両側から心配げに声をかけられ、レゴラスは苦笑した。
「大丈夫です」
 そう言ってから、少し考え、言葉を続ける。
「僕は…何かを忘れている気がする」
 双子は顔を見合わせる。
「何だろう…大切な事を、忘れている気がする」
 心の中に暗い部分があって、どうしてもそこを覗き込めない。
「森に…帰りたい」
 エルラダンは、レゴラスの肩を抱いた。
「いつ出発してもいい。送るよ」
「今夜。夜明け前に」