その男は、漆黒の外套にすっぽりと身を包み、フードを目深にかぶっていた。
 シルヴァンエルフたちは、その存在感にあとずさる。
シンダールの貴族たちは、道を開け、軽く頭を垂れるも、
不信感は隠し切れなかった。
 招かれざる客、
 なのだ。
 王座で気だるげに頬杖をつき、スランドゥイルは臣下の者たちを見回した。
不穏な空気に包まれている。
 片手をあげ、側近を呼ぶ。
「皆を下がらせよ」
 側近は怪訝な顔をした。
「………王…」
「大丈夫だ。皆を下がらせよ」
 すぐに臣下の者たちは王の間から去って行った。
 重い扉が閉じられる。
スランドゥイルは扉の方に手を伸ばし、小さく言葉を紡ぐ。
扉に鍵がかかる。
「何用だ。おぬしのような者が来るところではない」
 黒衣の男は、ゆっくりとスランドゥイルに歩み寄る。
スランドゥイルは頬杖をついたまま、足を組み替えた。
手にしている杖を、男の喉下に突き出す。
 男はそれを軽く払いのけると、フードを取り去り、
玉座に手をかけて、スランドゥイルにぐいと顔を寄せる。
「いつまで待たせる」
 漆黒の髪。漆黒の瞳。その者は、夜の闇。
「待たせた覚えはない」
 その眼光を、真っ向から受け止めて、スランドィルは答える。
「私のものになれ」
「お前が欲しいのは、この森か。わしの信頼か。否、わしの命か」
 男の手が、スランドゥイルの首に伸び、首筋から髪を撫でる。
「その全てだ」
「過ぎたる望みだ」
 スランドゥイルは、跳ね除ける事をしない。
「エルロンド」
 その名を呼ぶ。
 男は唇を吊り上げた。
「私はお前の国を滅ぼすことができる」
「できぬ」
「できる」
 スランドゥイルはエルロンドの頬に触れた。
「できぬのだ、エルロンド。
たとえおぬしが森を焼こうと、力でわしを屈服させる事はできぬ」
 微かに触れる唇。
 それはほんの一瞬で、スランドゥイルはエルロンドの胸を押し戻した。
 スランドゥイルの意識が、ここでないどこかに向いている。
エルロンドはそれを察し、重い扉の方を振り向いた。
「去れ。もう二度と、この森に足を踏み入れるな」
 スランドゥイルの硬い声色に、エルロンドは後ずさり、またフードをかぶった。
 スランドゥイルが指を鳴らす。扉の鍵が解ける。
 開いた扉の前に立っていたのは、まだ若いエルフだった。
「何用か」
 若いエルフは深々と頭を下げる。
「来客とお聞きしましたので」
 シルヴァンたちの不安を感じ取ったか。
「もう帰る」
 帰れ、と鋭い視線を送る。
エルロンドは軽く頭を下げ、背を向けて王の間を出て行った。



 欲しい。
 そう思った。
 ギル=ガラドがオロフェアと会見を持ったのは、一度。
国を失ったシンダールたちの、保護を申し出た時だ。
オロフェアは、威厳ある態度で
「断る」
 それだけ言った。
 エルロンドはギル=ガラドの側近で、その若者はオロフェアの護衛だった。
 おろかな判断だと思った。
 オロフェアと違い、その若者には迷いがあった。
(父上、あの者はシンゴル王の直系のものです)
(例えそうであったとしても、信用には足らぬ)
 密かな会話を、エルロンドは耳にした。
 次に会ったのは、最後の同盟の戦いのときであった。
ギル=ガラドの進撃を伝える伝令として、オロフェアの軍の後を追った。
彼らは敗北し、指導者は討ち死にし、残った者は絶望していた。
(配下に入れ)
 エルロンドの言葉を、その者は一蹴した。
 何者にも従わぬ。
 スランドゥイルの燃えるような瞳は、エルロンドの征服欲をかき立てた。
 決して他者に服従しない。スランドゥイルの判断は、正しいとは思えない。
 今またこうして、彼の国は闇に侵されている。
 欲しい、と思う。
 手に入らぬのなら、壊してしまえ。



 スランドゥイルの拙い加護に守られた、森の王国。
 儚く、脆い。
 エルロンドは闇の森に入ると、馬の足を止めた。
 鬱蒼とした邪気のある森の入り口に、その若者は立っていた。
先ほどの若者だ。
エルロンドはフードを外して、若者を見る。若者は胸に手を当て、頭を下げた。
「イムラドリスのエルロンド卿、ですね?」
 エルロンドは頷き、馬を下りる。
「森の外まで、ご案内いたします」

「護衛もつけずに、こんな所までいらっしゃるとは」
 若者は、スランドゥイルの息子、レゴラスと名乗った。若いが、幼くはない。
「森は危険です」
「私は危険など感じぬが」
 レゴラスはエルロンドを見上げ、はにかむように微笑んだ。
「………そうですね。
エルロンド卿ほどの力をお持ちなら、悪しきクモも近寄らぬでしょう」
 エルロンドは、レゴラスを見つめた。
久しく目にしていない、純粋な笑み。粗野で無知なシルヴァン特有の。
「そなたは、シルヴァンなのか」
「母はシルヴァンです。ですから、僕もそのような教育を受けてまいりました」
 本来あるべきエルフの姿。
オロフェアが憧れ、スランドゥイルが守ろうとするもの。
彼らは純粋であるが故、ノルドールやシンダールの区別なく、
高貴な存在として受け入れる。
シルヴァンとして育ってきたレゴラスもまた、
エルロンドを高貴な存在として憧れの視線を向ける。
 シンダールとして育てられたなら、エルロンドに敵意を向けるだろう。
 スランドゥイルにとって、それは良き事か悪しき事か。
「僕は森の外を知りません。
しかし、森によくないことが起こっているのはわかります。
エルロンド卿がわざわざお越しになられたのは、
その事を父と話すためではありませんか。
父は頑なですし、国の貴族たちもあなたを歓迎はいたしません。
それでも僕は、森のために、
外の事をもっと知る必要があるのではないかと考えます」
 真剣な瞳。本当に、森を愛し、守りたいと考えているのだろう。
それゆえ、無謀な行動に出るのは、若さゆえの経験不足からだ。
「森の外の事が知りたいか?」
「はい」
 エルロンドは手綱を放し、レゴラスに触れた。
レゴラスは不思議そうな目でエルロンドを見る。
 籠の鳥。
 この若き王子は、籠の鳥だ。
 外の世界を知らない。
 スランドゥイルの愛を一身に受け、真っ直ぐに育ってきた。
 そして、外の世界に憧れる。
 頬に触れ、髪に触れ、唇に触れる。
 抱き寄せて唇を重なると、レゴラスは目を瞬かせた。ただ、戸惑っている。
 籠の鳥。
 きっと、羽をむしられるまで、悪意に気づかずじっとしているのだろう。
「………」
 エルロンドは、レゴラスの耳に、そっと呟く。
「眠りなさい」
 レゴラスの体の力が抜ける。
 足から崩れ落ちるのを、エルロンドは抱きとめる。
そのまま抱き上げ、馬に乗せると、一気に駆け出した。



「!」
 スランドゥイルは、王座から立ち上がった。目を見開き、周囲を見回す。
「………」
 心の一部を掴み取られたような、喪失感。
「レゴラス」
 足早に王の間を出ると、外にいた側近の肩を掴んだ。
「レゴラスはどこだ?」
 シルヴァンである側近は、首を傾げる。
「……わかりません」
 宮殿内を歩き回るが、誰も見ていないという。
「王子が、どうかされたのですか?」
 レゴラスは奔放な性格だ。
普段は森の警備をさせているが、たとえ王宮に戻っても、
じっと休んでいるたちではない。
「スランドゥイル王?」
 レゴラスの姿が見えなくても、皆あまり心配などしないのだ。
それは、スランドゥイルも同じであった。
 森の外に出てはいけない。
 その言いつけだけは、決して破らない。
 そう、自ら、森の外に出ることは、決してない。
 スランドゥルは王宮から出て、川のほとりで空を見上げた。
まるで、呼ばれたようにツグミが飛んでくる。
スランドゥイルは、ツグミにそっと囁いた。
 


 ロスロリアン。
 ガラドリエルの加護見守られた、美しい森。
「ガラドリエル」
 銀色に輝くその男は、そっと妻の名を呼んだ。
ガラドリエルは振り向き、夫に微笑みかける。
「どうされました?」
「……エルロンドはどこにいる?」
 突然、何故そのような事を聞かれるのか、ガラドリエルは首を傾げる。
「すまないが、エルロンドを探してくれないか」
 ガラドリエルは気づいた。ケレボルンの肩に、一羽のツグミがとまっている事を。
 そして、全てを察した。