ほんの一日、スランドゥイルは己の側近らに囲まれて疲れを癒した後、 元の威厳ある姿で皆の前に現れた。 ドワーフと友好を結び、財宝の分配を手伝う。 「お前さんは、戦に貢献したにもかかわらず、 金銀の分配を請求せぬのだな?」 ドワーフの言葉に、 スランドゥイルはくだらない話でも聞くように少し首を傾げて見せた。 「金や銀が上等のワインであったら、分け前を要求しよう」 この偏屈な王に、ドワーフは豪快に笑った。 財宝の分配が済むと、バルドはエメラルドを一箱、スランドゥイルに差し出した。 「貴公のご尽力に感謝する」 スランドゥイルは、それを受け取った。 「父上、エメラルドも飲めませんよ?」 からかうような息子の言葉に、ニヤリともしない。 「石の輝きは、心を癒してくれる」 これは、戦いの報酬ではない。感謝の気持ちなのだ。 レゴラスは、やっと言葉にしないスランドゥイル王の心内を理解した気がした。 そして、それぞれが帰路についた。 道すがら、エルフたちは森に再び平穏が訪れた事を喜び、 冬の終わりが来ることを陽気に歌っていた。 エルフ王も、戦いの勝利を喜んでいるように見えた。 ただ、王の側近だけが、 ガンダルフが王に話しかけるのを警戒しながら見守っていた。 そんなガンダルフの馬に、レゴラスはそっと近付いて、 周囲に聞こえないように、小声で話す。 「…イムラドリスは、どのようなところなのですか?」 レゴラスの質問に、ガンダルフは眉を上げて驚きを見せ、 すぐに片目をつむってウインクをして見せた。 「とても美しいところじゃよ」 レゴラスも一瞬笑みを返す。そして、すぐに仲間の集団に戻っていった。 ガンダルフとホビットらと別れ、王宮に帰り着く。 「宴の仕度ができたら、呼びに来い。私は部屋で休む」 側近にそう言って、スランドゥイルは自分の寝室に入っていった。 戦は、王の精神を激しく消耗させている。誰よりも。 誰よりも、戦を嫌う王なのだ。 王の側近は、どこからか一つのビンを持ってきて、レゴラスに渡した。 「王に渡してください。ハーブ酒です。疲れが取れます」 レゴラスは首を傾げる。 「みんな、疲れています」 そんな気遣いができるようになったのか。 「皆の疲れを癒してくださるのは、スランドゥイル王の存在です。 スランドゥイル王なくしては、この森の王国は在り得ません。 それを知っているから、王は全てをご自分の内に抱え込んでしまうのです。 おわかりですか? 王子。王には、良き理解者が必要なのですよ」 「それは、あなたではありませんか? サイラス」 側近の男は、首を横に振る。 「王は、私にもお心内を見せてはくれません。まだわかりませんか?」 側近はレゴラスの髪を指で梳く。 「あ」 レゴラスは小さく声を上げて、その側近の手を握った。 「…お母さま」 正解を導き出した生徒にするように、側近の男が笑う。 「さあ、これを王に届けてください」 レゴラスは、自分の中に、なにか違うものが流れるのを感じる。 弓を握る時とは違う感覚。 なんだろう、いつだろう、ずっとずっと、 遥か昔、この男に、同じ笑みで、同じものを渡された気がする。 レゴラスは戸惑った笑みを作る。 王を癒すのは、あなたです。 そう言った? レゴラスはハーブ酒のビンを抱え、王の寝室に向かった。 「本当に、カレンスール様に似ていらっしゃる」 側近の男はひとりごちる。レゴラスは、母親似だ。 王が愛した、ただ一人の女性。 王に尽くし、この地を去った、シルヴァンエルフ。 一人になった寝室で、スランドゥイルはテーブルに置いた贈り物を、 物思いに耽りながら撫でていた。 「父上」 声をかけて、部屋に入り、スランドゥイルの隣に立つ。 スランドゥルはビルボから送られた首飾りを、愛しげに撫でている。 「父上?」 スランドゥイルは何を考えているのか、応えない。 その手元を、レゴラスは見る。 「ビルボ殿を、そんなに好いているのですか?」 「ホビットが、あんなにも勇敢な種族であるとは、知らなかった。 どんなエルフの王より、気品がある。尊い魂を持っている。 皆があのような貴人であったなら、種族間の争いもなくなろう」 レゴラスは王の手に振れ、その手の中の首飾りを取り上げてテーブルに置いた。 「父上、私を見てください」 それは、嫉妬に似ている。 偉大なスランドゥイル王の心を掴んだ、小さき者に、嫉妬する。 「私を見てください、父上」 繰り返し、スランドゥイルの前に回りこむ。 「私は、何ものも恐れません。父上の力になりたいのです。 父上が抱え込んでいるものを片鱗でも、私に分けてください」 手にしていたハーブ酒をテーブルに置く。 スランドゥイルはそれに目を留めた。ふと、目を細める。 「レゴラス」 スランドゥイルは目を合わせようとしない。 それに苛立つように、レゴラスはスランドゥイルの顔に自分の顔を近づけた。 スランドゥイルは伏せていた目を息子に向ける。 その瞳は、かつて愛した女性にだけ見せた、苦悩の色が伺える。 「私は…恐れているのだ。怖いのだよ。愛する者を、失う事を」 レゴラスは、真っ直ぐに父を見る。 「私は、お前を失う事が、怖い」 スランドゥイルの瞳の色が、揺らぐ。 その瞳の奥に、吸い込まれていく。 レゴラスは、じっとスランドゥイルを見つめたまま、その唇に触れた。 …………! レゴラスは感じた。 ここは、戦場だ。 死臭。汚れたオークの臭い。 無数の雄たけび。 目の前に、父がいる。 その背に、胸に、いく本もの矢を受け、地に突き立てた剣で体を支えている。 鎧は血で染まり、振り向いた父は生気を失いかけた瞳で、こちらを見た。 そこにあるのは、絶望か、希望か。 (今より、お前が王となるのだ) 死を覚悟した、父の、魂の叫び。 (民を導け! 生きよ! スランドゥイル!) 「…………!!」 悲鳴が喉までせり上がり、あまりの恐怖と絶望にそれさえ言葉にならない。 レゴラスはスランドゥイルの腕の中に崩れ落ちた。 止め処なく涙が溢れる。体が振るえ、父にすがる。 「見えたか。オロフェアの最後が」 レゴラスの知らない、祖父。先代の王。 目を合わせようとしなかった、父スランドゥイルの心の闇。 悪夢に溺れるように、必死に父の衣を掴み、その胸に顔を押し付ける。 父の腕が、自分を抱きしめてくれるのがわかる。 「同じ恐怖を、お前には見せたくない」 父の胸にすがりながら、激しく首を横に振る。 「わ…私は…怖くありません! もっと、強くなります! 父上を悲しませないように、もっと強くなります!」 顔を上げ、くしゃくしゃに歪んだ表情で父を見上げる。 スランドゥイルは、苦いものを噛みしめるような表情で、レゴラスを見下ろした。 「………母も…お母さまも、同じ闇を、見たのですね? 父上の瞳の中に」 「さらなる、深淵を」 そして、その闇を抱いて去ったのだ。 ぐらりと足元が揺らいで、レゴラスは再び父にすがりつく。 「私は…どこにも行きません。 父上、私は、父上の闇を抱いて、この地を去ったりはしません! 父上と共にあります。ですから…」 私を見てください。 スランドゥイルの腕に力がこもり、レゴラスをきつく抱きしめる。 魂を、重ねるように。 「…………」 ふと手を止め、その男は王宮の奥に目を向けた。 「どうされました? サイラス様」 宴の仕度をしていた男が、王の側近に声をかける。 「王に、何か?」 「さあ。心で会話が出来るほど、私は強い力を持ってはいませんからね」 そう言って、笑って見せる。 ただ、感じたのだ。 王の心の揺れを。 (心を、開かれましたね?) 胸の奥で呟いて、給仕の男に目を向ける。 「で、何の話でしたっけ?」 「酒です。酒が足りないのです、サイラス様。 ワインはみんな、エスガロスに持っていってしまいましたから」 「そうですか。それは困りましたね」 わざとらしく腕を組んで首をひねる。 「では、王の秘蔵の酒蔵を開けましょう」 そう言って、魔法のように一つの鍵を出して見せる。 「! それを、どこで?」 「だてに何千年も王の側近はしていません。 王の私物の在り処は、すべて知っています」 給仕長は、目を丸くしている。 「でも、取って置きのワインでしょう? 王に叱られませんか?」 「戦の後の宴で、酒が足りない方が王は怒ると思いますよ」 はい、と給仕長に鍵を手渡す。 「あと…その、肉も、足りません」 食料は、ありったけエスガロスに持って行ってしまったのだ。 「そうですね、では、ちょっと狩りに行って来てください」 鍵を受け取りながら、給仕長は眉をしかめる。 「それでは、宴を始めるまでに時間がかかってしまいます」 「よいのですよ、ガリオン。王はとてもお疲れです。 しばしの休息が必要です。宴が始まれば、王は休む間がありませんからね。 ゆっくりと仕度をしてください」 給仕長は、じっと王の側近を見る。側近はにっこりと笑って見せる。 「王は今、お休みになっておられます。 宴の仕度が済みましたら、起こしに行きましょう」 「わかるのですか?」 「だてに何千年も側近をしていませんよ」 王の側近は、再び宮殿の奥に目をやった。 しばし休まれるといい。 給仕長は頭を下げ、酒蔵の鍵を持って下がっていった。 王の一行が帰還してから、丸一日過ぎ、夜が訪れる。 森のエルフは、夜の月明かりが好きだ。 月夜には宴を開く。 月が昇り、宴の仕度がすっかり整うと、王の側近は、王の寝室に向かった。 扉の前で、声をかける。と、すぐに返事が返ってきた。側近は扉を開けた。 部屋に入ると、スランドゥイルはベッドに腰掛け、 ブーツに足を入れているところだった。 「お休みになられましたか?」 「ああ」 短く答えて立ち上がり、ローブに袖を通す。 側近はベッドを見やった。レゴラスが、まだ静かな寝息を立てている。 「王子はまだお休みのようで」 「今起こす」 そうですか、と、側近はテーブルの上の王冠を手に取り、王の頭に載せた。 そこに、先ほど摘んできた森の木の葉を飾る。 王の冠は、生きた植物でできている。王冠は、この森の象徴。 スランドゥイルは、この森の王。 「王子に服を持ってきてやれ。正装を」 はい、と側近は頭を下げ、王の寝室を出て行った。 側近が出て行った後、スランドゥイルはベッドに腰掛け、レゴラスの髪に触れた。 「起きなさい。宴が始まる」 すうっと瞳に生気を宿し、レゴラスはぼんやりと父を見上げた。 「……父上は、ずっと宴会好きの王を演じているのですね?」 「演じているのではない。私には、それしかできないのだ」 強い魔法の力で森を、民を、守る事ができない。 ならせめて、宴を開いて皆の心を慰めよう。 この、闇に侵された森で、自然の恵みに感謝し、 シルヴァンの民がずっとしてきたように、歌い、笑いあおう。 ここを、 我らの故郷とし、 ここに魂の安らぎを見出そう。 自分の髪を撫でるスランドゥイルの指に、 そっと口付け、レゴラスは体を起こした。 「お前は、お前のできることをすれば良い」 頷いて見せるも、まだレゴラスには、自分が何をすべきか、 何ができるのか、わからないでいた。 静かに見つめあっていると、こほんと小さな咳払いがして、 側近の男がレゴラスの衣装を差し出してきた。 「私は先に行っている」 王は寝室を出て行き、レゴラスは側近の者と二人、残された。 「さあ、服を着てください」 促されるままに服に腕を入れる。レゴラスにとっては、着慣れない服だ。 「なぜ、礼服なのですか?」 いつもは茶と緑を基調にした、動きやすい服のままなのに。 今袖を通しているのは、王の服に似た、銀と白のすその長い礼服だ。 「今宵の宴は、戦の後の宴です。 死者を弔い、武勇を讃え、残された者の心を慰めるのです。 勝利を祝い、春の訪れを喜ぶものです」 レゴラスは、目を伏せた。 「そのような顔をされてはいけません。 王は、民に悲しみを見せたりはしません。 常に気丈であり続けるのです。それが王の、あなたの、役割です」 レゴラスは立ち上がり、衣装を調えた。 父は、民に心の闇を見せない。決して。 髪を整え、宝冠を頭に載せる。 「王の宝冠とは、まったく違う」 細いミスリルでできたサークレット。 「これは、シンダールの手によりメネグロスで作られたものです。 王がご婚儀の際、奥様に送られました。 そのお礼として、シルヴァンたちの手により作られた王冠が、王に送られました。 それが、今王が身に着けているものです。 この森、シルヴァンの森の王としての証です」 生きた植物で作られ、季節さまざまな花や木の実で飾られる。 レゴラスは、王の冠が好きだ。 「私は、この森の王の冠は戴けない?」 「あたりまえです。この森の王は、スランドゥイル王だけ。 あなたは、ご自分の意思でご自分の道を歩みなさい」 レゴラスは、目の前に父王の幻影を見る。 シンダールの輝かしい衣装と、シルヴァンの素朴な王冠。 民を愛し、森を愛し、君臨する王。 王が他のエルフの国々を遠ざけるのは、この森の民がそれを願うからだ。 スランドゥイルも、自分が他の国のエルフにどう噂されているかを知っている。 それでも王は、 自ら矢面にたつ。 レゴラスは、父の残像を胸いっぱいに吸い込み、瞳を閉じて、その存在を飲み込む。 「ボクはね、」 ゆっくりと目を開いたレゴラスは、父の側近を見やった。 「お父様のためなら、戦も怖くない。同胞の死さえ」 レゴラスの瞳の色に、一瞬ぞっとする。 信念とプライドのため、自ら戦に赴く者の瞳。 レゴラスなら、戦場で倒れた者を、真の勇者と讃えるだろう。 戦いを嫌うスランドゥイルとは、別の道を歩む。 王の側近は、その場に跪き、レゴラスの手を取ってその手の甲に唇を寄せた。 「王子、私からも一つ申し上げておきます。 私も、王に仇名すものは、たとえあなたでも、切り捨てます。 ご自分の行動には、よくよくお気をつけください」 「うん」 レゴラスは頷いて胸を張る。 「行こう」 今すべきは、あの戦いの傷を癒し、これから来る春への希望を歌う事。 この森を守る。 この森の王を守る。