誰もが、戦など望んでいない。
 本当は、誰一人、望んではいない。
 ドワーフとの交渉の成功を、誰もが望んでいた。
 
 ガンダルフが現れ、
 ホビットが現れ、
 じりじりした交渉も、上手くいくように思われた。

 エルフの王は、
 戦うことを、
 決して望んではいなかった。



 死臭が漂う丘の上で、
スランドゥイルは大鷲たちがゴブリンどもを追撃していく様子を見守っていた。
 これを、
 勝利、
 と、
 呼ぶのだろうか。
 レゴラスは、王の隣に立って、谷間を見下ろした。
 そこには、
 愛する者達の屍が、
 累々と重なっている。
「これが、戦だ」
 スランドゥイルは呟いた。
「勝っても、負けても、あるのは死。愛する者たちとの別れ」
 レゴラスは、手のひらを握り締めた。
「……怖くは、ありません」
 震える唇が、言葉を搾り出す。
「怖くはありません!」
 振り向いたスランドゥイルと、目が合う。
 怖くはない。
 ただ、
 哀しいだけだ。
 そんな、王の言葉が聞こえた気がした。
「ビルボ・バキンスを探せ! 彼はきっと生きている! 
生きていると願いたい!」
 レゴラスは敬礼を示すと、悲惨な戦場を走り出した。



 夜が訪れ、朝が来る。
 トーリンの埋葬を済ませ、ダインが宝を分配するのを待つ。
 スランドゥイルは重く沈みこみ、
その間、必要以上に人間やドワーフと接触する事を避けていた。
 生き残ったエルフたちが、王の周囲に集まり、
取り囲み、王に余計な負担がかかるのを防いでいた。
そこに、ガンダルフが訊ねてきた。
「お主が気に病むことはない。スランドゥイル王。
お主は正しかったのだ」
 座り込んで、スランドゥイルは無言でワインを飲んでいる。
「お主が力を貸してくれなければ、バルドたち人間は、
ドワーフとすぐにでも戦争を始めただろう。
そこをゴブリンに攻められれば、間違いなく全滅していた。
エレボールがゴブリンの手に落ち、
その財宝を奪われれば……遠からずゴブリンは
エスガロスの生き残りと闇の森に攻め入ってくる。
 闇の者に、森を奪われる事になる。
 お主のおかげで、最悪の事態を防げた」
 スランドゥイルは、何も応えない。
 離れたところで様子を見守っていたレゴラスは、
口を開きかけて一歩踏み出す。
そこを、王の側近に肩をつかまれ、引き戻される。
見上げると、側近の男は無言で首を横に振った。
 レゴラスは再び、王と魔法使いを見た。
「イムラドリスとの、交渉の席に着け。
わかっておろう。ゴブリンたちは、力をつけてきている。
ドル・グルドゥアのこともある。
火種は、闇の森にも降ってくる」
 スランドゥイルは、ため息をつき、ワインを一気に飲み干した。
「………ノルドールとの和解は、せぬ。
この話を続けるなら、ミスランディア、たとえそなたでも追い出す」
「スランドゥイル王!」
 ガンダルフが声を上げたとき、
王の側近はレゴラスの背を押して王の前に出した。
レゴラスも、一瞬驚くも、すぐに察して王に走り寄る。
「父上!」
 スランドゥイルとガンダルフは、眉を寄せてレゴラスを見る。
レゴラスは、無知な笑みを作って見せた。
「ワインの樽は、もう空です。森に帰りましょう」
「森の外は、飽きたか」
「はい。もう十分です」
 王の隣に座り、王の前に置かれた皿から、肉を一つまみ盗む。
「金も銀もいりません。森に帰りましょう」
 駄々っ子のように言って、ガンダルフの方を見る。
「ミスランディア、まだここにいなければいけないのですか?」
「もう少し待っておれ、レゴラス」
 レゴラスは首をかしげ、その理由がわからないと言う顔をする。
 スランドゥイルはレゴラスの顎を指で掴み、自分の方を向かせた。
「向こうに行っていなさい」
「いやです」
 レゴラスは即答し、笑みを消して王を見つめた。
「いやです。お側を離れません」
 ガンダルフは肩をすくめ、立ち上がった。
「わかった。
レゴラス、もうすぐ帰れるじゃろう。お父上を困らせるでないぞ」
レゴラスはガンダルフに振り向き、子どもっぽい表情で、笑って見せた。

ガンダルフが去った後、スランドゥイルは側近を呼び寄せた。
「ガンダルフを追い払ったのは、お前のさしがねだな?」
 側近は両手を広げて、「さあ」ととぼけてみせた。
「父上?」
 心配げに覗き込んでくる息子に、スランドゥイルは少しだけ、哀しげに口元をゆがめた。
「森へ帰ろう」