辺境警備隊は10人からの少人数で成り立っている。
広い闇の森をひそかに偵察して回るには、大人数は不向きだ。
隊長は、王の一人息子であるレゴラス。
闇の森の王国で、最も若いエルフの一人。
「おや、ミスランディアではありませんか」
 古森街道の入り口を少し入ったところで、ガンダルフは頭上の梢を見上げた。
「どちらに行かれるのですか?」
「レゴラスか。エスガロスの町に、ちょっとな」
 かさり、と音がして、静かに若いエルフが舞い降りる。
「一人か?」
「いいえ、辺境警備の隊の者も一緒です。見えませんか?」
 ひとしきり周囲を見回し、ガンダルフは苦笑した。
「最近は、目も悪くなったようだ」
「…そんなことはありません。
ミスランディアの目を誤魔化せるなら、
私の隊の者も捨てたものではありませんね」
 にっこりとレゴラスは微笑んでみせる。
「お供しましょうか」
「いや、かまわぬ。慣れた道じゃ」
 レゴラスはあいまいに微笑み、小首を傾げてみせる。
「…おう、そうじゃな、たまには話でもしながら行くか」
 ほっとため息をつくレゴラスに、ガンダルフは苦笑する。
彼はまだ若い。ガンダルフに何か話がしたいのだろう。
 レゴラスと並んで歩く。エルフの足取りは軽いが、気は重いようだ。
「こんな方まで警備とは、大変じゃな」
「大変ではありません。それが…父王から言いつけられた仕事ですから」
 レゴラスの瞳が陰る。
「最近は、ずっと森を見回っています。ずっとです。
たまに王宮に戻っても、またすぐに見回りを言い渡されます。
父上は…私と顔を合わせたくないようです」
「何を言っておる」
「父上は」
 ふと立ち止まり、レゴラスはガンダルフを見つめた。
「父上が、何を考えているのか、わかりません
。森に異常はありません。もうずっと、長い事。
なのに、父上は私を森に追いやる。
父上がすることを、私は何も知らされません。
父上がエレボールに、ドワーフの王に接見に行った時も、
スマウグが現れたときも、…私は常に蚊帳の外です。
父上に信用されていないのか。ただ、煩わしいのか」
「レゴラス」
 言葉を遮るように、ガンダルフはこの若いエルフの肩に手を置いた。
「お父上を、そんなふうに言ってはならぬ。
スランドゥイル王にはスランドゥイル王の考えがあってのこと」
「ドラゴンを前に、逃げ帰ってくるような王です」
「レゴラス」
 ガンダルフの口調が、強まる。レゴラスは、慌てて口を閉じた。
「よいか、レゴラス。もう一度言う。王には王のお考えがある。
信じられぬのなら、それはお前さんの心が曇っている証拠だ。
己の仕事を全うしなさい。それとも、森を守る仕事は、
お前さんにとってくだらぬことであるのか?」
 ゆるゆると、レゴラスは首を横に振った。
 ガンダルフは、また森の奥へと歩き出す。
「気が変わった。闇の森のエルフ王の宮殿に、寄って行くとしよう」
「…そうしていただけると、父も喜びます」
 哀しげにわずかな笑みを作ろうとする。
そして、梢に隠れて付いて来ている警備隊の者を一人呼んだ。
「ミスランディアを宮殿にお連れしなさい」
「おや、レゴラス、お前さんが連れて行ってくれるのではないのかね?」
 レゴラスはまた、首を横に振った。
「まだ、見回らねばならぬ場所があります」
「そうか」
 ではな、とガンダルフは歩き出す。それを、レゴラスは再度呼び止めた。
「ミスランディア」
 ガンダルフが足を止めて振り向く。
「私は……、まだ森の外に出たことがありません。
王が、それを許さないのです。王宮に留まる事も、森を出ることも。
私はまるで、鎖に繋がれた……」
「王子!」
 梢から厳しい声がかかる。
 ガンダルフは察する。警備隊の者たちは、レゴラスの部下なのではない。
レゴラスを守り、見張る、王の部下なのだ。
「…道中、お気をつけて。ミスランディア」
「お前さんもな」
 ガンダルフは片手を振って、森の奥に消えていった。



 ガンダルフは、王宮でスランドゥイルと向かい合って座っていた。
 目の前には、美しい細工の施された銀のカップ。
なみなみとぶどう酒が注がれている。
「上物のぶどう酒じゃな」
「エスガロスから取り寄せている」
 短く応え、スランドゥイルはぶどう酒を口にする。
エスガロス、たての湖の町。交易で栄えている。
「……ご子息は、ずいぶんと不満をお持ちのようじゃ」
 スランドゥイルは答えない。
「のう、スランドゥイル王、あ奴ももう子供ではない。
お心内を話されてはどうじゃ?」
「むやみと詮索したがるのは、子供のすること」
 ふう、とガンダルフはため息をつく。
 闇の森の王は、取り付きにくい。
傲慢で偏屈だと、他のエルフの国では噂されている。
そして、実際そのとおりなのだ。
「スマウグを前に、恐れ、戦うこともせずに逃げ帰ったと」
「負け戦はせぬ主義だ」
「それはそうじゃが…ドワーフの助けに応えなかったそうじゃな」
「ドワーフを助ける義理はない。
それに奴らは戦いに慣れているし、屈強な種族だ。
そもそも、ドラゴンを呼び込んだのも、己らの凶だ」
 それはそうだが。ガンダルフは、ぶどう酒を一口飲む。
「谷間の町の生き残りは、エスガロスに避難したのであろう? 
ずいぶんとひいきにしているようじゃな」
「あの町に、軍隊はなかった」
「ドワーフより、人間を優先させたな?」
 スランドゥイルはガンダルフを睨んだ。その眼光は鋭い。
 ガンダルフも、その眼光を真っ向から受け、それを返す。
 ふう、とスランドゥイルは息を吐いた。
「負け戦はせぬ主義だと言った筈だ」
「レゴラスには、まだ理解できぬと?」
「…あれは、あれでよいのだ。知らぬ方が良いこともある」
 スランドゥイルの受けてきた苦汁を、レゴラスは知らぬのか。
理解をするには、まだ若すぎるし、本当の恐怖や絶望を、
その身で感じた事はない。
「レゴラスを己から遠ざけるのは、知られるのが怖いから…じゃな」
 くっ、とスランドゥイルのカップを持つ手に力がこもる。
「甘やかしすぎじゃな」
 スランドゥイルは一度目を閉じ、何かを思い巡らせ、
再び目を開いてガンダルフを見た。
その瞳の奥の悲しみを、レゴラスが理解する日が来るのか。
「今宵は宴会を設けよう。2・3日ゆっくりしていくとよい」
「ああ、そうさせてもらおう。ここは酒も料理も美味い」
 ニッとガンダルフは笑って見せる。
 スランドゥイルは残っていたぶどう酒を飲み干し、立ち上がった。
「部屋を用意させよう」
 そして、側近を呼ぶと、ガンダルフに部屋と食事、
そして、歓迎の宴の用意をするように言いつけた。



 ガンダルフが発ってから数日後、
レゴラスが警備隊の者を連れて帰還してきた。
「東側一帯に異常はありませんでした。
クモの数は相変わらずですが、オークの姿はありません」
 玉座の間で、樫の木で作られた椅子に座る王に報告をする。
スランドゥイルは無言で報告を聞き、
レゴラスの後ろに控える警備隊の者たちに、
「ご苦労であった」
 と、短く告げた。
「今宵はゆっくりと休み、明日、南から西側へと向かえ」
 警備隊の者たちも短く返事をし、玉座の間を去る。
 そこには、レゴラスとスランドゥイル王だけが残された。
 スランドゥイルは気だるげに頬杖をつき、レゴラスを眺める。
「まだ何か?」
 レゴラスは父王を見つめたまま、ゆっくりと歩み寄る。
そして、王の玉座の前に跪くと、何も言わずに王の膝に額を乗せた。
「………」
 父の膝に体を預け、目を閉じる。
 スランドゥイルは何も言わず、そっとその髪を撫でると、
己の王冠に飾られた緑色の木の葉を手に取り、レゴラスの髪に挿した。
 そのまま、ゆっくりと時間が流れる。
「スランドゥイル王、何をされているのですか?」
 背後から現れた側近の者に、スランドゥイルは振り向きもせずにため息だけをつく。
 眠っているレゴラスの髪には、緑の葉が飾られ、己と同じ色の髪を指でもてあそぶ。
「……座っているのにも飽きた」
 気だるげにそう呟くと、
「起きなさい」
 膝の上の息子の頬を撫でる。
レゴラスはゆっくりと目を開け、体を起こす。
空ろに父を見上げ、立ち上がり、無言で己の髪の木の葉を取り、それを王の宝冠に挿す。
「………」
 開きかけた唇は、言葉を紡ぐ事が出来ず、切なさを飲み込んで、
レゴラスはそのまま玉座を出て行った。
 息子が去った後、スランドゥイルは椅子の背もたれに体を預け、ため息をつく。
「王のお心に渦巻く恐怖を、王子は垣間見ずに済みましたかな」
 歯に衣着せぬ側近の言葉に、愁いを帯びた瞳を向ける。
「疲れたので休む」
 それだけ言って、王は私室へ向かって行った。