宝箱を漁るような気持ちで、エルロンドは図書室を漁った。その中で、特に興味を惹くものを取り分けていく。 今すぐ読みたいもの、あとで読みたいもの、時間ができたら読みたいもの。 今は、マエズロスやマグロール、ギル=ガラドの名を見つけると、興奮を抑えて書物をめくった。 もっともその量は少なくなく、さらりと目を通すだけで次に移る。 日が翳り、月明かりに照らされ、その月も隠れる。 エルロンドは顔を上げて窓の外を見た。 だいぶ、夜が更けているようだ。 窓から外を眺めると、昼となく夜となく船を作り続けているファラスリムの明かりが見える。 疲れを癒す酒宴もどこかで行われているのだろう。楽器の音や歌声も聞こえる。 書物や書簡をきれいに積み重ね、エルロンドは図書室を出た。 ギル=ガラドの執務室に行くと、そこに王本人はいなかった。 代わりに書記官らしきひとがいて、執務室の中の片づけをしていた。 「あの…ギル=ガラド王は…」 まだ若い黒髪の男は、エルロンドを見て頭を下げる。 「これはエルロンド様」 最初に紹介されたギル=ガラドの側近の一人だ。エルロンドの方が恐縮する。 「…エレストール殿…でしたね。お仕事中申し訳ありません」 「いいえ、エルロンド様。王はキアダン殿の所に行かれました。宵の初めの頃です」 そうですか、と肩を落とし、ふと机の上の地図に目を留める。 「それは…ミドルアースの地図、ですか」 「そうです。世界は大きく変わってしまいました。王は今、新しい世界を書き留めております」 「見ても?」 「もちろん、どうぞ」 エレストールはエルロンドに場所を譲った。 一礼してエルロンドは地図に見入る。 古い地図の上に、新しい地形が書き足してある。それは、驚くべき変化だった。 新しい、世界。 「エアレンディル様とエルウィング様が、救ってくださった世界です」 驚いてエルロンドが顔を上げる。エレストールは誇らしげに微笑み、深く頭を下げた。 父と、母が…。 実際に戦ったのは、ヴァラールの軍だ。ずっとそう思っていたが、しかし確かに、父母は大きく関わっている。 (私も、歴史の一部、なのか) それは、不思議な感覚だった。 今こうしてここにいる自分と、紙の上に記録される自分。 図書室で見たギル=ガラド王の記録と、その声を聞き、触れることのできる王の存在。 エルロンドはエレストールに礼を言って執務室を出た。 しばらく港を回ってみたが、ギル=ガラド王の所在はわからず、キアダンに会いに行こうかとも思ったが、 領主キアダンは多忙だと港の者たちから聞かされ諦め、エルロンドは浜辺にあるギル=ガラドの寝所へと足を向けた。 自分がここに来てからしばらく経つが、時折エルロンドの様子を見に来るくらいで、 ギル=ガラドがあの寝所で休んでいる姿を見たことがない。いつ、寝ているのか。 ギル=ガラドの寝所は居心地がいい。装飾は簡素で、ファラスリムのそれに似ている。 海の青を(海の青ではないのだろうか?)基調としたタペストリーやランプ。窓辺に置かれた、蒼いガラスの器と乳白色に輝く真珠。 燃え続けている温かい暖炉。 そもそも、なぜギル=ガラドは港にある宮ではなく、少し離れたところに寝所を設けるのか。 小さく簡素な屋敷にエルロンドは戻ってきた。寝所の周囲、浜辺をぐるりを見回す。 月は沈み、星明りだけが海の波間に淡い光を映している。 美しい、と、思う。 屋敷に入り、寝室に足を踏み入れる。 ふわり、と、芳醇な香りがかすかに鼻をかすめる。テーブルの上に、ワインの瓶とグラスが一つ、置いてあった。 香りは、そのワインのものだ。ギル=ガラドはここに帰っていたのだ。 すれ違い。 残念、という思いに、肩を落とす。 テーブルの脇に一対の椅子があり、その一つがワイングラスの方に向いている。 ここに座っていたのだろうか、と思いつつ、エルロンドはその椅子に腰を下ろした。手の届くところにワイングラスがあり、 ほんの少し視線を傾けると暖炉の火が目に入る。ここは、特等席だ。そのままぐるりと部屋を見回す。 これが、きっと、プライベートでギル=ガラドが眺めている風景だのだろう。 簡素とはいえ、殺風景ではない。ベッドと反対の方向、頬杖をついてみると、ちょうど視線の先に窓があり、 あの真珠が蒼い器の中に沈んでいた。 ギル=ガラドは、あの真珠を眺めながら、何を考えているのだろう。 ふうとため息が出る。 自分もワインを一杯いただこうか。そう思ってワインの瓶に目をやると、一通の手紙がそこに置かれていた。 無造作に、と言っていい。封は切られ、くしゃくしゃにまとめられている。 こんな手紙、ここで見たことがない。 思わず手にとって広げてみる。 紙は上質で、指ざわりが非常に滑らかで、青いインクの装飾文字が、まるで絵画のごとく並んでいる。 この手紙自体が、ひとつの工芸品であるかのように。 その美しさにまず目を奪われ、文字を追ううちに、これがキアダンに宛てた手紙である事に気付く。 ハッとして手紙を裏返し、その刻印がフィンゴン王のものであることを知る。 他人の手紙を、盗み見てよいものではない。 すぐにそう思ったものの、心臓がばくばくと高鳴り、手紙をテーブルに戻す事ができなかった。 目を見開いて文字を追う。 古い手紙だ。 丁寧な文体で、キアダンに己が息子を託す旨が書かれている。 エルロンドは、指が震えているのを感じていた。 その文章に、感動しているのだ。 歴史として知っているフィンゴン王の、まったく私的な手紙の中で、 フィンゴルフィン前王の死への悼み、親友マエズロスへの思いやり、そして何より、息子への深い愛情が切々と綴られている。 もし、ヴァラールの赦しが得られたとき、 我が息子を真っ先に船に乗せて欲しい この暗い時代にあっても 光り輝くヴァリノールを見せてやりたい 戦に身を置くことなく 苦しみも悲しみもない かの地へと エレイニオンを送り出して欲しい 光に背を向けた私は もう永遠に赦されはしない 私は友と運命を共にする 我が幼き息子は 罪を知らず無垢なまま 光溢れるヴァラールの加護の中へと エレイニオンは私を憎むだろう それでよい どうかキアダン殿 我が最愛の息子を ほろり、と、一粒、涙の雫が頬を伝う。 エルロンドの脳裏に、優しい母の顔が思い浮かんだ。 と、 突然、背後から手紙を取り上げられる。 飛び上がるほど驚き、エルロンドは勢いよく椅子から立ち上がった。 「ギル=ガラド王!」 その拍子に椅子が後に倒れる。 「も、申し訳ありません!! 勝手に……」 「よい。別に、隠すことは何も書いていない」 そういうギル=ガラドの表情は、冷淡で、エルロンドは怯えて息を飲む。 こんなに怒っているようなギル=ガラドの表情を見るのは初めてだ。 「王、本当にすみません!」 「よいと言っている」 くるり、と背を向けたギル=ガラドは、くしゃくしゃに手紙を握りつぶし、暖炉に投げ込んだ。 「!!!」 短い悲鳴をあげ、エルロンドは暖炉に駆け寄り、炎の中に手を突っ込んだ。 「なっ!!」 驚いたのはギル=ガラドの方だ。慌ててエルロンドに駆け寄り、後から抱きしめるように引き戻す。 「何をやっている?!」 「手紙が!!」 それでもギル=ガラドを振り解いて燃え始める手紙を取ろうとする。 そのエルロンドの手を、ギル=ガラドは力強く握り締めた。 「馬鹿者。火傷をするではないか」 「かまいません、大切な手紙が……」 「お前の手の方が大事だ!」 どくん、と心臓が脈打ち、エルロンドはへたりとその場に座り込んだ。 ギル=ガラドが、背中からエルロンドを抱きしめている。 暖炉に伸ばした右手の指を絡めて。 エルロンドの目の前で、手紙が炎を纏い、ゆっくりと燃えていく。青いインクの文字が、躍り、黒く煤けていく。 まるで目を逸らせるかのように、ギル=ガラドはエルロンドの首筋に顔を埋めていた。 どくんどくん、と、心臓が激しく脈打つ。首筋に、ギル=ガラドの息が熱い。 それに反して、エルロンドの指を握るギル=ガラドの手は冷たい。 「………すみません…私が勝手に読んだりしたから…」 手紙は、白い灰になって雪のように舞い上がる。 一瞬、ギル=ガラドの、エルロンドの胴に回した手に力がこもる。 エルロンドは、空いている左手を、ギル=ガラドの腕に重ねた。 薪が爆ぜる。 エルロンドの耳の奥に、かすかに、途切れ途切れに、マグロールの歌が霞みのように降ってくる。 「あの………」 マエズロスとマグロールは、優しかった。最後の日、 こんなふうに、二人はエルロンド兄弟を強く抱きしめた。 さようならという 言葉の代わりに。 「ギル=ガラド王は、西方へ、渡るのですか?」 王の父が望んだように。 深呼吸をするギル=ガラドの息を、首筋に感じる。 「この地に残るノルドールを連れて、私はリンドンへ赴く。そこに、ノルドールの国を作る」 「………ここは…」 「ここは、キアダンの国、ファラスリムの国だ」 キアダンと一緒に、この地を治めればよいではないか。エルロンドは思う。それとも、己の国が欲しいのか。 違う。 違う、違う。 エルロンドは、ギル=ガラドに重ねる自分の手に、力を込める。 「私も、連れて行ってください」 沈黙。 不意に身体が軽くなる。重なっていた体温が、失われる。 「ギル=ガラド王」 エルロンドは振り向くが、立ち上がったギル=ガラドは背を向けていた。 エルロンドの喉から、嗚咽が漏れる。不安という闇に包まれる。 あの時、追いすがっていたら どんな運命でもかまわない、一緒に行くと泣き喚いたら マエズロスは連れて行ってくれただろうか 破滅の道に。 どうして どうして どうして おかあさまはぼくをおいていってしまうの 「エルロンド」 苦難の運命から遠ざけるために、 愛する者を捨てるのか 捨てられた者は 愛が信じられなくなるというのに 父も、母も、 マエズロスも、マグロールも、 フィンゴン王も、 何もわかっていない 何も! 本当に愛しているのなら 「離れることが、 正しい愛もあるのだ」 求める言葉を口にしかけて、エルロンドは息を止めた。 ギル=ガラドの背中が、哀しげに呟く。 「たとえ嫌われても、憎まれても、二度と会うことは叶わなくても、 離れるくらいなら共に破滅をと願う相手でも」 ギル=ガラドは、言葉を紡ぎながら、まだ心を決めかねていた。 それを口にすれば、エルロンドの運命は決まってしまうだろう。 その運命は、エルウィングやマグロールらの望むものではないかもしれない。 本当に愛しているのなら、 愛しているのなら、という言葉に、ギル=ガラドは自嘲する。 愛してなどいない。 必要としているだけで。 (ぼくは誰も愛さない。だから言える。それがその者の幸福に背を向ける言葉であっても) エルロンドを愛してなどいない。 運命の子を、 運命の輪から外し、幸福の約束された船に乗せることなど、させない。 それが、 己の役割なのだ。 「エルロンド、共に、リンドンに行こう。私にはきみが必要だ」 振り向き、片手を出す。 エルロンドの応えは、聞かずともわかっている。 長く息を止めていた青年は、溺れるように荒い息を何度も吐き出し、すがるようにギル=ガラドを見つめている。 「………ほ…んとう、に?」 「私はきみを離さない」 エルロンドは唇を震わせ、差し伸べられた手にしがみついた。 (ぼくは、何の王なんだろうね。統べる国も守る民もない) (ミドルアースの王だろう? ここで生きるすべてのエルフ、人間、ドワーフ、あなたは、それを守っている) (私も、あなたに守られている) (そうかな) (そうだよ) たとえ嫌われても、憎まれても、二度と会うことは叶わなくても、 きみが住むこの地を、ぼくは守るよ。 何を犠牲にしても。 ぼくは きみを守る。 ギル=ガラドはぼんやりと天上を眺めていた。 夢を、見ていた。 きみは、怒るだろうな。ぼくを、許さないだろうな。 きみの大切なエルウィングの子を、ぼくが連れて行くことを。きみには理解できないだろう。 エルロンドは、この世界に必要なんだよ。こういうのを、 (生贄) と、呼ぶんだ。 ゆっくりと身体を起こす。見下ろすと、エルロンドは安らかな寝息を立てている。 これからずっと、エルロンドと共に夜を過ごすのだろう。 (ああ、キアダン、違うよ、こんな子供に、肉欲を求めたりはしない。夢を共有するだけだ。 たぶんね、ぼくの敬愛するマエズロス殿の勇姿とかをね) 言い訳を考える自分がおかしくて、唇を吊り上げて寝台を降りる。 (ぼくはもう誰も愛せないけど、エルロンドは真実の愛を見つけられる。願わくば、 願わくば、 エルロンドの背負う運命が、彼の愛を踏みにじらないように) 窓辺に置かれた真珠を手に取る。 「ギル=ガラド王…?」 目を覚ましたエルロンドが、恐る恐るその名を呼ぶ。ギル=ガラドは振り向く。 エルロンドは、まだ昨夜のことに不安を感じているようだ。 ただ勢いだけで、ギル=ガラドがエルロンドを求めたのかもしれない、と。 「エルロンド、こちらに来なさい」 はい、と小さく返事をして、エルロンドは寝台を降り、ギル=ガラドの立つ窓辺に歩み寄った。 「きみには選択肢がある。きみには、ヴァラールの元に赴く権利がある。 キアダンは、きみのために船を作ることを喜んで引き受けるだろう。 きみのご両親も、きみを愛し育てたマエズロス殿やマグロール殿も、きみか至福の地へ行く事を望むだろう」 「たとえアマンに渡っても、私は両親に会うことはできず、 マエズロスにもマグロールにも赦しが与えられることはありません」 エルロンドの瞳に輝きが帯びる。 「私の兄弟は人間として生きることを選び、私はエルフとして生きることを選びました。 これは、運命なのです。私は………父や母が守った、このミドルアースで生きます。 たとえ、ギル=ガラド王………王に必要とされなくても…」 ふ、と、ギル=ガラドは唇に小さな笑みを零す。 「私にはきみが必要だが、強要するつもりはない」 「ならば、私は…」 ギル=ガラドはエルロンドの頬に触れ、そっと顎を持ち上げると、その唇にキスをした。 「!」 エルロンドが真っ赤に頬を染める。動揺するその様がおかしくて、ギル=ガラドは思わず顔を逸らせて肩を震わせた。 「王! からかわないでください! 私は本気です!」 「からかうつもりなどない。私も本気だ」 星を映すエルロンドの瞳を見つめ、ギル=ガラドは胸に手を当てた。 「そうか」 報告を受けたキアダンは、短くそう応えた。 「フィンゴン王の望むところではないが」 「私は」 ギル=ガラドはちらりと後ろに控えるエルロンドを見、キアダンに視線を戻した。 「今まで、継承されたから王の役割を果たして来たに過ぎない。父の名を汚さぬように。 父の守ってきたものを失くさぬように。 キアダン、あなたには感謝している。あなたの愛情を疑う事は永遠にないだろう。 父の手紙の事も。すべてあなたのおかげだ。 私は、父の手紙を読んだあと、一人で考えたのだ。そして、結論に達した。 父の時代は終ったのだと。 これからは、私は私の意思で、このミドルアースに残り、同じくこの地を愛するノルドールたちの王となり、 彼らの国を作り、この地を守ろう」 少し寂しいような、誇らしいような、キアダンは優しげに微笑む。 「エルロンドを、連れて行くのだね?」 「エルロンドは、私の一番の理解者であり協力者となるだろう」 後でエルロンドが力強く頷く。そうか、と、キアダンはまた呟いた。 「エレイニオン、エルロンド、二人とも…わしは、お前さんたちのために、いつでも船を作るよ。 それだけは忘れないでくれ。わしは、この海と同じくらい、お前さんらを愛している」 ギル=ガラドは一度強くキアダンを抱擁し、エルロンドはキアダンの手を強く握った。 「キアダン殿、お願いがあります」 「なんだね、エルロンド?」 「図書室の資料、私に貸していただけないでしょうか」 うん? と頭をひねり、そんなものがあったかとキアダンは眉をしかめた。 そして、ああ、と思いついたようにギル=ガラドを見る。 「あれは諸王からギル=ガラド王に送られたものがほとんどだ。 戦乱で整理されず、だいぶ数も減ってしまったが。もちろん、持って行ってよい。 あれは、ギル=ガラド王の所持品だ」 エルロンドがギル=ガラドを見る。 「忘れていたな。私は全て読んだ。エルロンド、きみにあげよう」 エルロンドの表情が輝く。その黒い瞳に、キアダンは見入った。 エルロンドは荷を整理すべく喜んで図書室に行った。 ギル=ガラドはキアダンと、海を眺めて並んで立った。 「行くのか」 「親離れ、しないとな」 ふん、とキアダンは鼻で笑う。 「エルロンドを連れて行くこと、非難するか?」 「そうだな。だが、あの子の瞳を見て、気が変わった。あのこの瞳には星が宿っておる。運命の子だ」 しばらく、黙って海を見つめる。 「エレイニオン」 キアダンは、海を見つめたまま、静かに言葉を続けた。 「まだ、マグロール殿の歌が聞こえるかい?」 「いいや。あれは、エルロンドに引きずられただけだ」 「そうか。なら、いい」 海風が、低い雲を流していく。 「キアダン、新しい世界も、好きか?」 「いつの時代も、海は変らん」 「ずっと」 ギル=ガラドは、大きく息を吸い込み、晴れ晴れとした口調で言った。 「ずっと、見ていてくれ。ぼくがこの地を去っても、何度世界が変っても、すべてのエルフがこの地を去るまで。 最後のエルフが、あなたの船に乗るまで」 「ああ」 キアダンは、運命の哀しみに目を細めながら答えた。 「約束しよう。最後のエルフがこの地を去るまで、わしは船を作り続けよう」