「くはっ」 苦しげな悲鳴を上げ、胸をかきむしって寝台に横たわるスランドゥイルを、目を細めて見つめる。 彼を苦しめているのは、自分。 切なげに、エルロンドはため息を吐く。 彼の寝室に己の幻影を忍び込ませ、こうして彼を犯すのは、二度目だ。 彼に触れる事はできない。 あまりにその存在は遠い。 しかし、 きっと、お互いに思う心は近いのだ。 彼は、こんなにも (私の心を受け止める) エルロンドは、強い力を持っているとはいえ、誰かの心にこんなにも深く入り込むことは、そうそうできることではない。 お互いの思いが繋がっていればこそ、できる業なのだ。 「あっ……あ」 紅く染まった唇から、飲み込めない唾液が滴る。苦痛に顔を歪め、抗えない感覚に己の肌に爪を立てる。 これは、 エルロンドの記憶、だ。 エルロンドは、己の記憶をスランドゥイルに投影しているのだ。 自分は、こんなにも艶かしい顔で、あの男に抱かれていたのか、と思う。 男を受け入れることに慣れない肉体は、痛みに悶え、同時に、そこに快楽があることを否定しようとする。 そうか、自分は、こんなふうに、あの男に抱かれていたのか。 スランドゥイルは、身体と心に、酷い違和感と苦痛を感じていた。 何者かが己の精神世界に入ってきて、雨雲が晴天を覆い隠すように、スランドゥイルの自我を覆い隠していく。 心を犯される。 だがそれは、自分自身が受け入れようとしているものでもある。 強制、ではないのだ。 受け入れようと、思った。 誰かに呼ばれ、寝室に入り、そこにエルロンドの幻影を見たとき、それを受け入れようと思ったのだ。 幼いエルロンドを愛していた。エルロンドの母を、彼の兄弟を、彼を取り巻くすべてを、愛していたのだ。そして、 そのすべてを守れなかった。 今彼が、何かしらの救いを求めているのだとしたら、できる限りの事をしよう。 こんなふうに心を繋げる事が、彼の一瞬の癒しになるのなら、それを受け入れよう。 スランドゥイル自身、戦いの痛みをまだ抱えていて、 誰かと繋がる事で、一瞬でもそれを忘れる事ができるなら、そんな思いもあった。 だから、エルロンドの記憶がすんなりとスランドゥイルの中に入ってきて、彼の肉体を犯すのだ。 見えない手が、体中を弄り、濡れた唇が秘めた部分を這う。 これは、エルロンドの記憶なのだ、と、スランドゥイルは繰り返す。 こんなふうに、誰に抱かれたというのだ。 あるのは痛みだけで、嫌悪ではないので、決して嫌な相手ではない。むしろ、愛しささえ感じる。 エルロンドは、初めての経験を、その誰かに委ねた。 信頼している。 だが、 決して愛し合ってはいない。 心から愛し合う夫婦のような関係ではない。 エルロンドは、それを求めていたのかもしれない。が、相手はそれを求めてはいない。 なのに、こんなふうに身体を求められ、(求めているのは自分なのか)肉体のつながりという快楽を分かち合う。 エルロンドの感覚と思考がスランドゥイルの冷静さを覆い、記憶の海へと押し流していく。 (愛しているよ) 耳元で囁く声に、スランドゥイルは視線を向けた。 ああ、 自分の寝室であった場所が、見知らぬ場所へ変る。完全に、エルロンドの記憶に閉じ込められた事を知る。 (エルロンド) ああ、 その声は、知っている。 苦しいほどに。 貴方なのか。 エルロンドを、こんなふうに抱いていたのは。 「エレイニオン」 空ろな瞳で、スランドゥイルは、その名を呟いた。 スランドゥイルを眺めていたエルロンドは、眉を寄せる。 自分の記憶で彼に犯されているはずのスランドゥイルが、昔の恋人に向けるような微笑を見せたのだ。 「エレイニオン」 エルロンドの心臓が、氷の手で掴まれたように、ぎゅっと縮む。 記憶が、入れ替わる。 エルロンドの中に、スランドゥイルの堅く閉じた記憶の断片がちらつく。 それまで苦痛に顔を歪ませていたスランドゥイルは、官能的な微笑を見えない誰かに作る。 うっとりとした表情で唇を開き、淫らに舌を出す。鼻に抜ける甘い声で、その名を呼ぶ。 エルロンドは、雷に打たれたかのように、瞬時に二人の繋がりを断った。 スランドィルも、ハッと目を見開く。深いところにある精神世界から、引き戻されたのだ。 エルロンドは、スランドィルが再び心の扉を堅く何重にも閉じるのを感じた。 「エルロンド、お互いの心に入ってはいけない」 苦しげに息を吐きながらスランドゥイルは言った。 『見てはいけないものが、ある、と?』 「過去の記憶にすがることは、無意味だ。失ったものに執着してはならぬのだ」 エルロンドは、ほんの一瞬見せたスランドゥイルの記憶の断片から、多くのことを読み取った。 歴史を熟知しているからこそ、悟る事もあった。シンダールの歴史、ドリアスの悲劇。 (ノルドールの王との出逢い。そして別れ) 「エルロンド。わかっているはずだ。決してお前を裏切らない者たちのことを。 お前があそこの真の主たるために使わされた者、金色の髪をした者が見えた。お前に追随するもの。だがもし、 エルロンド、もしお前が、そのすべてを捨てたくなったなら、私のところに来ればいい。私はお前を守ろう」 そうだな。 そんなふうに言うのは、そんなふうに思うのは、スランドゥイルだけだ。 常に特別な存在たり続けた。 マエズロスたちにも、彼らのことも愛していたし、 許されるのなら、彼らの本当の子になってもよかったし、運命を共にしてもいいと思ったのに。 しかし彼らの感情は哀れみと贖罪でできていて、エルロンドの本当の愛情を理解してくれる事はなかった。 ギル=ガラドもそうだ。彼を慕う気持ちは、肉体の弱いところをすべて曝し捧げることができたのに、 彼はエルロンドの犠牲的愛を認めることはしなかった。彼の寝室で、腕の中で、愛していると囁くのに。 結局、エルロンドは特別な存在なのだ。エルロンドに向けられる愛は、ガラスでできている。 美しく脆い。 『唄を詠おう。スランドゥイル、あなたを永遠に眠らせる唄を。 貴方はこの森で、永遠に眠り続ける。私の記憶だけを抱えて』 「メリアンの魔法」 その、直系の血を受け継ぐもの。 「………ギル=ガラドは、お前を選んだ。お前を愛した。お前に託した」 『愛したのは、私ではないが』 「そうだな。奴が愛したのは、このミドルアースだ。お前は、それを受け取った。お前の選択だ」 選ぶことなど、できなかったが。 「だれかが、お前を呼んでいる」 『わかっている』 ぐずぐずしていれば、強制的に引き戻されるだろう。 『スランドゥイル、あなたの愛は、どこにある』 「この森だ」 『そんなことを聞いているのではない』 ギル=ガラドに訊ねた事がある。あなたの愛は、どこにあるのか、と。 寝台の上で、彼は応える。このミドルアースだ、と。 「言葉にするのは難しい。時間をくれ」 エルロンドは、小さく頷く。 では、その答えを聞きに、また、来る。 「それで、満足致しましたか」 はっきりと視界が戻る。エルロンドはその男を見上げた。 グロールフィンデルは、怒っているわけでもなく、ただ淡々とエルロンドを見つめている。 あなたは、怒らないのだな。 エルロンドは、自分から彼を誘っておきながら、彼との情交の最中に意識を飛ばしたのだ。 彼に肉体を預けて、心は違う者を求めた。 「いい反応でしたよ。また、あの男に会ってきたのですね。よほどその者がいいとみえる」 「………ああ」 身体を起こすと、はっきりと情交の痕が残っていた。 「貴方が満足されたのなら、それでよいのですが」 不思議だ。この男には、ギル=ガラドやスランドゥイルに感じるような、温もりを持った感情を期待しない。 この男に、愛という言葉は似合わない。愛故の情交ではなく、単なる肉欲の発散。 そして、なぜかこの男には何をしても嫌われないという確信がある。 「グロールフィンデル殿、あなたは…」 グロールフィンデルが、一瞬エルロンドを冷たく睨む。エルロンドは短い息を吐く。 「グロールフィンデル、お前は、私にすべてを見せられるか」 「もちろん、あなたがお望みなら」 グロールフィンデルは、己の胸に手を当てた。 「私が生まれ出でた時から、今までの記憶全て、あなたに捧げましょう」 その手をエルロンドの頬に当て、首筋から頭を抱えると、 グロールフィンデルはエルロンドを引き寄せて自分の額を合わせた。 「!!」 まるで熱く焼けた鉄にでも触れたように、エルロンドはグロールフィンデルを突き放した。 一瞬の事なのに、息が上がる。 「それは、私の記憶のほんの一部ですよ」 「………」 バルログとの死闘、愛の喪失。 「エルロンド卿、あなたはまだ、本当の絶望を知らない。 あなたはまだ、誰かの愛情を求め、もがいているが、それは貴方がまだ誰かを愛せるからです。 私は、もう誰も愛せない。 このミドルアースに、愛も、喜びも、希望も、ないのです。 私は、主である貴方に仕えるためだけにここに存在している」 エルロンドの、片方の目から、涙が零れ落ちる。 「ああ、すみません。私の感情の一部が、貴方の中に残ってしまったようだ。 貴方は感応が良すぎる」 グロールフィンデルが、エルロンドの濡れた瞳に口づけると、 エルロンドは棘が抜けたように痛みが和らいだ。痛みの記憶は残っているが。 「………エクセリオン…?」 「彼は、私の魂の半分です。私は、魂の半分を、亡くしました」 そっと手を伸ばし、エルロンドはグロールフィンデルの指に触れる。 大地より生まれし私達は、その愛の全てがお互いの存在にあった。 「貴方は、エルロンド、愛により生まれ、愛され慈しまれ、今ここにいる。 私とは、存在そのものが違う。 過去の愛にすがってはいけない。 まだ、貴方は新しい愛を見つけられるし、育てられる。 貴方が固執する男を、私は知らないが。 幻影を抱くくらいなら、今すぐその男のところに行って、その男を犯して来るがいい。 それができないのなら、諦めなさい。 肉体の快楽なら、私が与えよう。 愛を与える事はできないが」 指を絡め、瞳を閉じる。 「これは、嫉妬、だな」 エルロンドは呟いた。 「ギル=ガラド王は、私に、エレイニオンという名を呼ぶことを許さなかった。 私の前では、寝台の上でさえ、ギル=ガラド王であり続けたのだ。 なのに、スランドゥイルは、その名を呼ぶ。甘く官能的な声で、エレイニオンの名を囁く。 見たこともないほどの悦楽の表情で、身体を開く」 目を開けて、エルロンドはグロールフィンデルを真っ直ぐ見る。 「その、スランドゥイルという男は、貴方のものにはならない、という事ですよ、エルロンド卿。 ギル=ガラド王がギル=ガラド王であり続けたように、 スランドゥイルはマークウッドの王であり続けるでしょう。 マエズロス殿がそういう生き方を選んだように。エルウィング殿が運命に身を捧げたように」 「…私は、弱いな」 「弱さを知る者は、より優しく強靭になれるのです」 「教師のようだな、グロールフィンデル」 「実際、私はエアレンディル殿の教師でした」 父の、教師であった者。父は、この男を慕っていたと聞く。そして自分もまた、この男に頼っている。 「身体が疼く。何とかしてくれ」 「貴方がお望みなら」 グロールフィンデル、お前は誰より献身的な深い愛情を持っている。 己の魂と引き離されても、愛故にこの地に留まり、主に仕えすべてを捧げる。 「私もまた、エルロンド卿、という存在を演じ続けなければならない」 「お供します」 グロールフィンデルは、子供を抱くようにエルロンドを抱きしめた。