「あとの事は頼んだ」
 そう言い残して、スランドゥイルは私室に入ると、扉を閉めた。

 最後の同盟の戦い。
 偉大なる指導者である王を失い、
 兵力の三分の二を失い、
 力あるシンダールのほとんどを失い、
 悲しみと絶望の中に一掴みの希望を手に、
 むしろそれさえなかった方が楽なのではないかと、
 ほんの小さな希望が残されたゆえ、
 国の建て直しに翻弄し、
 強靭であるはずのエルフの魂は、
 疲弊する。

 着ている物をすべて脱ぎ捨て、スランドゥイルは寝台に倒れ込んだ。
 父の理想を継ぐため、
 残った民を守るため、
 嘆く事も哀しむ事もせず。
 せめて今少し眠り、気を引き締めなければ。
 だが、
 どんな夢を見れば、安らぐというのだろう。
 どうしたら、
 眠れるのだろう。

 この手に掴める確かなものは、
 何もない。

『スランドゥイル』
 空ろな意識の中で、誰かがその名を呼ぶ。
『スランドゥイル』
 知らない声だ。
 いや、知っているかも。
 ぼんやりとする視界の中に、それは立っている。
 ああ、懐かしい。
 凛とした、知的な美しさのある、メリアンを思い出す。
 遠い記憶。
『スランドゥイル、すまない………間に合わなかった。貴方を、助けられなかった』
「謝るのは、私の方だ。助けられなかった。エルウィングを」
 お前が連れ去られるのを、止められなかった。
 言葉は吐息のように零れる。
『あれは、貴方のせいではない』
「オロフェアが死んだのは、お前のせいではない」
 父の死は、誰のせいでもない。父を守れなかった、己の未熟さだけだ。
『………ギル=ガラドも死んだ』
「知っている」
『スランドゥイル、みんな、逝ってしまった』
「ああ」
『愛するものは、みんな逝ってしまう。私は、またひとりだ』
 スランドゥイルは頭を動かし、幻影を見る。視線を向けることで、それははっきりと形作っていく。
『母も、兄弟も、マエズロスもマグロールも、エレイニオン・ギル=ガラドも、みんな愛していた』
「エルロンド」
『だが、辛くはない。孤独には慣れている』
 美しい黒髪の青年は、悲しく笑む。
『貴方は、辛いでしょう。貴方はいつも、独りではなかった。
人々は貴方を愛し、貴方は人々を愛した。
貴方を支え、貴方に支えられ、孤独の影は、貴方には無縁であったから』
 スランドゥイルは、ゆっくりと身体を起こす。
『たとえ故郷を無くし、流浪の民となっても、貴方には支えあえる者がいた』
『スランドゥイル、貴方の心は今、眠る事さえできぬほど、孤独に苛まれているのではありませんか』
『私のところに、来なさい』
『残った一族を連れて』
『スランドゥイル』
 そっと、白い手を差し伸べる。繊細な指先を、スランドゥイルは見つめる。
「エルロンド、寂しいのは、お前の方だろう。
お前は、あまりに多くのものを目の前でなくしてきた。
己にかけられる愛情さえ疑ってしまうほど、多くの者がお前の前を通り過ぎ、お前に期待と信頼をかけてきた。
今、お前を抱きしめられたら…。あの港町で、無垢なまま泣いているお前を抱き上げるように」
 視線を上げて、エルロンドの目を見る。
『私はもう、子供ではない』
「知っている」
『貴方に抱かれるのなら、肉体の快楽を』
 ビクン、とスランドゥイルは身を跳ねさせ、歯を食いしばってうずくまった。
否応無しに身体が痙攣し、熱く火照る。
「………だ…誰が、お前を……こんなふうに、抱いた…?」
 これは、エルロンドの記憶だ。痛みと、快楽。愛しさと嫌悪が、肌の上を這いずる。
 そして、始まったときと同じように、突然その感覚は消えた。
『貴方を抱きたい。貴方を貪りたい。私のところに、来なさい』
 浅い息を整え、スランドゥイルはゆっくりと身を起こす。
するりと寝台から足を下ろし、何も身につけぬ身体を、エルロンドの前にさらした。そして、両手を広げる。
「帰って来い。私のところへ。お前の母がお前を愛したように、お前を愛そう」
 目を見開いたエルロンドが、息を飲む。
「私は何も失っていない。ここは、私の故郷」
 言葉を失ったまま、スランドゥイルを見つめていたエルロンドは、ふと視線を落とした。
『私はもう、子供ではないのだ』
 そのまま、黙り込む。
『………』
 ハッと顔をあげると、スランドゥイルは足から崩れて床に落ちた。
『ス…』
 手を差し伸べるも、その身体に触れる事はできない。
『………』
 二人の距離は、遠く隔たっているのだ。
 今すぐ駆けつけ、その心と身体の傷を治癒できたら。
(大丈夫だ)
 スランドゥイルは口を開かず応えた。
(大丈夫だよ、エルロンド。私は大丈夫。ありがとう、心配をかけたな。
 なあ、希望を信じるか。冬は終った。春が来るのだ。
厳しい冬は、何もかも凍らせてしまったが、土の下に小さな希望の芽が残されている。
 もう一度、信じよう。
 大丈夫だ、エルロンド、私たちはまだ、
 誰かを愛せる)
 


「!!」
 エルロンドは雷にでも打たれたかのように目を開け、ふらりとよろめいた。
「大丈夫ですか」
 後から、抱きしめるように支えられ、エルロンドは大きく息をついた。
「………グロールフィンデル殿…いつからそこに?」
「先ほどから。お気付きにならなかったのですね」
 心を飛ばす事に集中していて、背後の存在に気付かなかった。
「無用心だと咎められるのでしょうね」
「たしかに、無用心だとは進言しますが、咎めは致しません。
それから、私に『殿』はいりませんし、敬語も必要ありません。貴方が主なのですから」
 主。
 確かに、ギル=ガラドの存命中から自分はこのイムラドリスの主であった。
が、この男、グロールフィンデルの方がずっと格上だと思っていたし、そう扱ってきた。
グロールフィンデルしかり、だ。
 主、か。
「エルロンド卿」
 上のエルフにそう呼ばれ、エルロンドは口許をゆがめる。
「貴方は、ギル=ガラド王が任命した跡継ぎなのですから」
「わかっています」
 いつまでも自分がグロールフィンデルに寄りかかっている事に気付き、エルロンドは身体を起こす。
グロールフィンデルは支えるようにエルロンドの手を握る。
「………身体が火照っているようですね。相手は……」
「昔の知り合いです」
 手を振り解こうとするも、グロールフィンデルは器用に指を絡めてきて、エルロンドの腰を抱き寄せた。
「シンダールに想いを寄せてはなりません。貴方は、ノルドールの王、なのですよ」
 グロールフィンデルの瞳の色は、冷たい。
 だが、その冷たい色は、嫌いではない。
 今まで自分を支配してきた者たち、彼らは、それを愛と呼ぶだろうが、
エルロンドを擁護してきた者たちは、皆、冷たい目をしていた。
彼らに愛情がなかったわけではない。ただ、愛情より使命を優先させてきたのだ。
 それは、哀しい事だと、スランドゥイルなら言うだろう。
 だがそれが、ノルドールの一族なのだ。
 心が恋焦がれて焼け落ちてしまいそうでも、恋ではなく己の使命に身を焼くのだ。
「………この火照りを、鎮めてくれないか、グロールフィンデル」
「仰せのままに」
「それから、私は王ではない。ギル=ガラドの遺志と遺産は継ぐが、私を王とは呼ぶな」
「それでは、何と?」
「ただ、イムラドリスの館主と」
「御意」
 エルロンドは、グロールフィンデルに身体を預けた。
 

 
 だがまだ、
 誰かを、
 愛せるかもしれない。