時間は流れる。
 緩やかに、あるいは急速に。
 今は、緩やかな流れの中にいる。
 
 最初は、スランドゥイルは剣を握る事さえ恐れ、震えていた。
 その姿は痛々しくも見え、
エレイニオンはスランドゥイルを後ろから抱きしめ、剣を持つ手に己の手を重ねた。
「怖がらなくていい。大丈夫」
 耳もとで囁く。
「力を抜いて」
 カツン、と音を立てて剣がスランドゥイルの手から滑り落ちる。
「………すまない…」
 慌てて拾おうとするスランドゥイルを引き止める。
「エ………」
 名前を呼ぼうとして唇を重ねられ、憤慨してエレイニオンの胸を押し戻す。
エレイニオンはニッと笑い、剣を拾い、それを器用に振り回した。優雅な技だ。
「気負うなよ、スランドゥイル。何も、今すぐ戦に出陣するわけじゃない。
そうだな、演舞を見せようか」
 練習用の剣を二本持ち、エレイニオンはキアダンの部屋を訪れた。
 キアダンは、背中を丸めるように机に向かい、何かを熱心に描いていた。
「キアダン、忙しいところ申し訳ないが、ちょっと付き合ってくれないか」
 キアダンは振り向き、エレイニオンとスランドゥイルを交互に見る。
そして椅子から立ち上がった。

 浜辺で剣を交えるキアダンとエレイニオンは、
確かに美しく優雅で、踊っているように見えた。
「エレイニオン! 間合いが悪いぞ!」
 キアダンに叱られ、エレイニオンが肩をすくめる。
「剣は久しぶりだから」
「他者に技を教えようという者が、その程度でどうする」
 キアダンはエレイニオンの剣の腕が悪いと悪態をつくが、
スランドゥイルにはとてもそうは見えない。
「キアダンがスランドゥイルに剣を教えるかい?」
「わしは忙しい」
 キアダンの剣がエレイニオンの足元を掠める。
身を屈めたキアダンの頭上からエレイニオンが剣を振り下ろす、
が、キアダンは逆にエレイニオンの剣を下から弾き上げた。
「!」
 エレイニオンの剣が手から離れて空を飛ぶ。
「ちっ」
 舌打ちをしたエレイニオンは、後方に回転しながら飛び、落ちてくる剣を宙で掴む。
そのまま勢いをつけてキアダンの懐に飛び込むが、キアダンはそれをさらりとかわした。
エレイニオンは体勢を崩すことなく、踊るように方向転換をする。
「もういいかな? わしは図面を書き上げたい」
「ああ、悪かった。ありがとう」
 キアダンは剣をエレイニオンに投げ返した。
「わしは今夜から造船所の方に泊る。まったく、お前さんらはうるさくてかなわん」
 ため息をつくキアダンに、エレイニオンは悪戯っぽく笑う。
「すみません、キアダン殿」
 慌ててスランドゥイルが謝る。
「ああ、まあ、いい。エレイニオンはすぐサボるからな。
誰かに教える事は、己の勉学にもなる。
スランドゥイル、エレイニオンがサボらないように、よく見張っててくれ」
「ひどいなあ」
 キアダンは笑って見せ、屋敷に戻っていった。
「キアダン殿に、申し訳ないことをした」
 スランドゥイルは肩を落とす。
「いや、もともと船を作るのが仕事だし、趣味なんだ。
港で船のそばにいる方が落ち着くんだよ」
 ではなぜ、キアダンは内地でエレイニオンと寝泊りを?
 スランドゥイルはそう聞きた気にエレイニオンを見る。
エレイニオンは肩をすくめた。
 エレイニオンは子供ではないのだから、そんなに目をかける必要もないのに。
優しい気性なのだ。キアダンは、ウルモの従者オスセにこよなく愛されている。
海を愛し、海に愛される男だ。
故に、彼を慕う者も多く、エレイニオンも、キアダンを尊敬し、強い愛情を抱いている。
父親のように。
「さて、では」
 エレイニオンは、適度な大きさの流木を拾って来た。
「型からはじめようか」
 それをスランドゥイルに渡す。スランドゥイルは不本意そうに眉を寄せるが。
剣を握れないのは事実だ。基本以前からはじめなければならない。
「頼む」
 真剣なスランドゥイルの目つきに、エレイニオンは唇を吊り上げた。



 訓練をはじめてすぐに、スランドゥイルは身についた技を思い出していった。
これでも優れた武人であるオロフェアの子である。
幼い頃からそれなりの訓練は受けている。
平和なドリアスでは、それほど熱心に腕を鍛える必要もなかったが、
基礎くらいは学んでいた。
「悪くない」
 エレイニオンはそう評価した。己が教えるに値する腕だ。

『キアダンは、剣は持たないのか』
 昔、そう訊ねた事がある。
『剣など好かぬ。槌とノミの方がよい』
『それでは生き残れぬ』
『わしが自由に生きることを阻害されるのであれば、それに対して戦いもしよう』
『今がその時だ』
『エレイニオン殿』
 キアダンはエレイニオンを覗き込み、優しげに微笑んだ。
『我らは、戦うために生まれたのではない。なあ、エレイニオン殿、少し休まれよ』
 本当に必要な時しか剣を握らないキアダンであるが、その腕は一流の戦士であった。

 スランドゥイルがエレイニオンの元に来て、年月が過ぎていった。
 時折、スランドゥイルはシリオンに戻って行ったが、大半をエレイニオンと過ごした。
もっとも、エレイニオンとて己の重大な仕事がある。
スランドゥイルを己の屋敷に住まわせていても、
己はその内の半分はギル=ガラドとして執務室のある宮で過ごした。
 それは、不思議な気分だ。
 エレイニオンが仕事で留守にしている間、スランドゥイルは彼の蔵書を片っ端から読んでいた。
アルダの歴史、歌。
それらはノルドールによって書かれたものであるが、スランドゥイルはそれを熱心に学んだ。
そもそもそれらは、エレイニオンが王家の跡継ぎとしてふさわしい知識を得るために集められたものだ。
 上級王としての礼服を脱ぎ、サークレットを外し、スランドゥイルのいる屋敷に帰る。
文字通り、帰るのだ。スランドゥイルはいつも決まった椅子に座り、本を読んでいる。
エレイニオンが戻ると、顔をあげ、ちょっとだけ笑う。はじめて出会ったときの幼さは、もうない。
エルウィングが美しい女性に成長したように、
スランドゥイルもまた、背が高く、すらりと細身の美しい青年に育っていた。
抜き身の剣を握れるようになり、一通りの型も覚えた。弓は教えずともそれなりの腕を発揮した。
 そしてそれらはスランドゥイルの自信となり、その自信が彼の表情を大人びたものにさせた。

 この平穏が、いつまでも続けはいいと思う。

「ワインが切れた」
「酒豪だな」
 エレイニオンは肩をすくめる。
「ぼくがいない間に、全部飲んじゃったんだ?」
「そんなに残ってはいなかった」
 座って本を読むスランドゥイルに顔を寄せると、手のひらで押し返される。
「読書中だ」
「つれないな。せっかく帰ってきたのに」
 ため息をついてスランドゥイルは本を閉じ、テーブルに置く。
立ち上がってエレイニオンの首の後ろに手を回すと、その髪をかきあげて、器用に結った。
そして手を離すと、満足げに笑む。
スランドゥイルは、エレイニオンが髪を結い上げ水夫のような格好をするのを好んでいた。
いや、ノルドールの装束を好んでいなかったと言った方が正しい。
 ふと、エレイニオンは複雑な気分になる。
 自分がこの地位を捨てられない限り、スランドゥイルとの心の距離はこれ以上縮まらないのだ、と。
捨てる事はできないし、捨てる気もない。スランドゥイルもそれはわかっている。
お互いに、微妙な距離を保つ。
こうして一緒にいるときほど、感情にベールをかぶせて、距離を置く。
成長し、その意味を知るにつれ、スランドゥイルはエレイニオンに触れる事に慎重になる。
 スランドゥイルの腕を掴み、強引に引き寄せると、
スランドゥイルはエレイニオンを見据えたまま、少し目を細めた。
息がかかるほどに顔を寄せると、触れ合う寸前の唇で囁く。
「剣の練習をしよう」
 スランドゥイルは微笑み、するりとエレイニオンの腕を抜け出す。
その身のこなしは美しい。そして、ふわりと舞う様に外に出て行った。