スランドゥイルがキアダンに誘われてバラールで一夜を過ごし、 帰宅したあと、珍しく眠りたいと言い出した。 ここシリオンに来てから、否、ドリアスの滅亡から逃れてから、 眠りをずっと恐れていたのに。 キアダンは、どんな魔法をかけたのだろうと訝った。 ベッドの上で、安らかに眠る息子の姿を、オロフェアは静かに見つめた。 ふと気付くと、眠るスランドゥイルの傍らに、男が立っている。 まだ若いその青年は、眠るスランドゥイルの耳元で、何かを囁いている。 そして、オロフェアの存在に気付き、顔を上げると、 優しげな表情で目を細め、消え去った。 オロフェアは眠るスランドゥイルの傍らに跪き、そっとその手を取る。 先ほどの幻影は、スランドゥイルの見ている夢だ。 スランドゥイルはそれほど強い力を持っていない。 ならば、魔法をかけた者の力が強いのだ。 スランドゥイルの夢の欠片を、オロフェアは覗き見る。 スランドゥイルの抱える強い恐怖は、ガラスの小瓶に封じ込められている。 起こった現実を眺める事はできるが、そこから来る感情の流れは封じ込められている。 そういうことか。 誰かが、スランドゥイルの感情に封をしたのだ。 それが正しいのかどうかは、わからない。 そうしようと思えば、オロフェアにもできたはずだ。 だがそれは、息子を偽る事になる、と、オロフェアは思っていた。 心を閉じ込めるガラスの封印は、永遠ではない。いつか砕ける日が来るだろう。 その時、守られていた心は、尚いっそう傷つくだろう。そう思っていたのだ。 だが、今一時でも、眠れるようにしてやる事は、必要だったのかもしれない。 スランドゥイルの夢の中で、黒髪の青年が微笑む。 その瞳は英知に輝き、高貴なオーラをまとっている。 スランドゥイルが憧れるのは、無理もない。 彼は、王としてのカリスマを備えているのだから。 スランドゥイルがエレイニオンという青年に強い憧れを抱いている事はわかっていた。 誰かに好意を持つのは、決して悪い事ではない。それがたとえノルドールの長であっても。 スランドゥイルはそれほど愚かではなく、己の持つ憧れの気持ちを抑えているのがわかっていた。 転機は、ゴンドリンの陥落。 ゴンドリンの難民がシリオンに避難してきて、 エルウィングはゴンドリンの王族であるエアレンディルと出逢い、恋に落ちた。 愛を得たエルウィングは急激に成長し、 それまで自分を守ってきてくれたスランドゥイルを弟のように心配するようになった。 そう、愛は偉大なのだ。 (オロフェア、私の愛は、間違っていると思う?) 急に女性らしくなったエルウィングが、優雅な仕草で問う。 (愛に過ちはありません) そう答える。 エルウェがメリアンとの愛を選んだように。 その先何が起ころうと、愛を選ぶことは過ちではないのだ。 そして、オロフェアももうひとつの選択肢を選んだ。 民を率い、ここを離れ、己らの国を再建する道。 そのため、オロフェアはひとりシリオンを離れ、逍遥した。 己の選んだ道を確固たるものにするため、歩むべき先を探し始めたのだ。 だがそれは、己一人で為し得ることができるはずもない。信頼できる協力者が必要だ。 「もちろん、私は父上に従います」 スランドゥイルの決心は偽りでも虚栄でもなく、純粋にそう思うからこそ、だ。 その純粋さが、オロフェアの救いでもあった。 スランドゥイルに今足りないものは、己を守る鎧、だ。 だが、息子に武術を教える事に、オロフェアは戸惑いがあった。それは、恐怖、だ。 情けないが、己もまた、恐怖を抱え、克服できずにいる。 己を鍛えるために必要だとわかっていても、それが訓練であっても、 刃を息子に向けることがどうしてもできないのだ。 それは、スランドゥイル自身も理解していた。 だから、スランドゥイルはエレイニオンに武術を習いたいと言い出したのだ。 それが、本当に、ただの師弟関係なら、不安もなかろう。 スランドゥイルは何も言わずとも、オロフェアは気付いていた。 スランドゥイルとて、もう子供ではないのだ。 それは師弟関係でも主従関係でもなく、スランドゥイルは友情と呼ぶだろうが、 完全に一線を越えている。 否定はしまい。 それでスランドゥイルが心の安らぎを得られるのなら。 もし、ただ弄ばれているだけなら、それもかまわない。 怖いのは、あの青年が本気でスランドゥイルを愛し、 手元に置こうと考え、その感情に抗えなくなった時だ。 強い執着は、魔を呼ぶ。 オロフェアを決心させたのは、雨の日、 エレイニオンがひとりでオロフェアに会いに来た時だ。 エレイニオン・ギル=ガラドは、スランドゥイルが思っている以上に、 オロフェアが想像していた以上に、冷静なリアリストだ。 ギル=ガラドは、冷たく光る瞳でオロフェアを射抜き、そして心に強く命令したのだ。 (ここを去れ。 手遅れにならぬうちに) (スランドゥイルを連れ、安住の地を目指せ) スランドゥイルは、何も知らなくていい。 ガラスの壁に守られて、純粋なままでいてくれれば、それが我らの救いになる。 エレイニオンにとっても、オロフェアにとっても。 エルウィングにとっても。 丘の上の屋敷のまわりに、色とりどりの花が咲き乱れる。 エルウィングは双子の男の子を出産し、子どもたちを連れて遊びに来ていた。 花畑で、スランドゥイルは二人の幼子と頭をつき合わせて座っていた。 スランドゥイルは器用に花を編み、幼子の頭に載せる。屈託のない笑い声がこだまする。 キアダンは、すっかり母親になったエルウィングと、オロフェアと共に、その情景を眺めた。 なんて穏やかで、優しく、心満たされる。 スランドゥイルの黄金の髪に、エルロンドが不器用に編んだ花飾りを載せる。 スランドゥイルは屈託なく笑う。 「わたし、忘れない」 微笑ましくそれを見守っていたエルウィングは、少しだけ切なげに口許をゆがめた。 「この幸福の時間を」 この、満たされた時間を。 それが、永遠でないとわかっていても。 キアダンでさえ、この時間が長く続けばよいと願った。 王としての役割を果たすエレイニオンが、スランドゥイルと共にいる時は、無邪気に笑う。 今まで誰も、彼にそんな表情を許さなかった。 「不思議な子だな」 キアダンはオロフェアに向かい、呟いた。 「あの子は、周囲を和ませる力があるようだ」 オロフェアは苦笑してみせる。 英知を備えた優れた武人より、あんなふうに笑える者に、仕えたい。 オロフェアでさえ、そう思ってしまう。 「連れて………行かれるのであろう?」 「まだ、その時ではありません」 「いずれ、だよ」 オロフェアは頷く。 スランドゥイルは、必要なのだ。これから先、己が理想とする国を作り上げるために。 「ギル=ガラド王は………」 口を開いて、オロフェアは言葉を止める。 (あの子を、引き止めるだろうか?) キアダンは幼子と遊ぶスランドゥイルを眺め、口許をほころばしている。 (エレイニオンは、王、だ。オロフェアよ、彼は、賢王なのだよ) 「心配には及ばん」 エルロンドとエルロスが、母を呼びながら駆けて来る。 「おかあさまぁ!」 そして、両手いっぱいの花弁を空に放り投げた。 粉雪のように、色とりどりの花弁が舞う。 後から追ってきたスランドゥイルが、二人の幼子を抱き上げる。幼子は歓喜の声を上げた。 花にまみれ、満面に笑むスランドゥイルが、オロフェアの瞳を覗き込む。 こんなふうに、笑える国が、つくりたいです。 オロフェアは、息子に微笑みかけ、頷いた。