翌年、エアレンディルとエルウィングの結婚式が盛大に執り行われた。 エアレンディルはシリオンの領主として認められた。 これより、シリオンはエアレンディルとエルウィングが治める。 港の近くに、二人の新居が建てられた。 結婚の祝いの祭りは、当然エレイニオンも出席した。 ノルドールの上級王、ギル=ガラドとして。 ノルドールとシンダールの一族は、微妙な距離を保っている。 結婚を祝いはするも、やはり確執はあるのだ。 エレイニオンは、ギル=ガラドとしての正装で、シンダールの者たちを眺めた。 彼らは、ノルドール特有の知的な美しさとは違う、独特の艶やかさがある。 輝く銀色の髪と、銀色のローブに、花や宝石を飾っている。 エレイニオンは、今彼らを率いているオロフェアに目を奪われていた。 彼はいつも寡黙で、冷淡とも思えるほど感情を見せない男であった。 が、エルウィングの結婚を祝い、今は仲間たちと穏やかに談笑している。 彼の優しげな微笑は、初めて目にした。 特に、彼は彼の息子に愛情深い表情をしている。 スランドゥイルも、心から信頼し許しあえる家族と、慈しみ深い笑みを見せている。 ああ、と、エレイニオンは思う。 そこには、深い隔たりがあるのだ、と。 エアレンディルも、美しい嫁を、終始抱き寄せている。 エアレンディルの両親もまた、エルウィングを慈しんでいる。 そこには交われない自分を、エレイニオンは感じていた。 スランドゥイルは、あんなに安心しきった表情を、自分に向けることはない。 エルウィングがエアレンディルを愛し、心から共にいることを望むように、 そんな愛情のかけ方を、けっして自分は受けることはないのだ。 その日、エレイニオンはスランドゥイルと言葉を交わすことはなかった。 彼は、 あちら側に存在しているのだ。 孤高。 「エルウィング嬢は、美しくなられた。 はじめてこの港に来た時のような、恐怖を抱えた幼い少女ではない」 隣に立つ男を、エレイニオンは見る。キアダン。 もし、自分に家族と呼べるものがあるとしたら、彼、だろう。 が、キアダンはそれを否定する。決して、馴れ合うつもりはない。 息子のようにエレイニオンをかわいがってくれはしても、 エレイニオンは上級王たる運命を持っているのだ。 「ああ。美しくなられた」 「お前さんもよき伴侶を見つければよい」 「無理だな」 エレイニオンは、踵を返した。 「ギル=ガラド?」 「島に戻る。やらねばならぬことが残っているし」 キアダンはため息をつき、あとを追った。 島の白い浜辺の近くに、大きくない屋敷がある。 キアダンはまだ若いエレイニオンと、ここに寝所を構えた。 公務をこなすのは、切り立った崖と造船所のある反対側の集落。 離れた場所に寝所を設けたのは、エレイニオンの勉学のため、だ。 落ち着いて帝王学を勉強させるため。 だが実際は、エレイニオンを守るため、であった。 常に戦うことを強いられた運命のエレイニオンを、 キアダンは静かな場所に置いてやりたかったのだ。 白い浜辺で、エレイニオンは槍を振るった。 愛槍アイグロス。 ひとり、舞うように槍を振るう。 無心になれる時。 何も考えず、身についた型を演じる。 この槍を扱えるのは、自分ひとり。 他に代わりなど、いないのだ。 潮風に、蒼い残光が尾を引く。 「………」 ガラスの欠片のような光の向こうに、エレイニオンは、彼の幻影を見た。 否、幻影ではない。 「…スランドゥイル?」 遠く離れたところで、手を握り締め、唇を結んで、眉を寄せてエレイニオンを見ている。 その視線の先に、エレイニオンは気付いた。 この槍だ。 槍を砂浜に突き立て、苦笑する。 「これが、怖いか」 スランドゥイルは否定しない。 「驚いたな、突然。何か用か?」 「…オロフェアからの書状を…お持ちしました」 「ぼくに? それとも、王に?」 「王に」 「なら、港の執務室に届けてくれ」 「あなたに、なら?」 「もっと近くにおいで。槍はしまってくるから」 自分に向けられたわけでもない武器に恐れるなど、致命的だな。 言葉には出さず、ため息にもらす。 屋敷の書斎に槍をしまう飾り棚がある。そこに槍を片付けてくる。 スランドゥイルは、居間に待たせていた。簡素だが、居心地のいい場所だ。 エレイニオンが王の称号を受ける前は、ここで来客を受けていた。 今は、造船所のある方の屋敷の執務室で来客を受け、接見し、会議と執務に明け暮れる。 そこで寝泊りした方が早いのだが、やはり浜辺のこの屋敷の方が落ち着く。 特に仕事が込み入っていない時は、ここに戻るようにしていた。 テーブルを挟んで向かい合って座り、スランドゥイルから書状を受け取る。 エルウィングの婚儀の前から、オロフェアとは書状のやり取りをしている。 用件の一行目は、決まっている。 『ぜひ会議に参加されたし』 そして必ず申し出は辞退され、会議の内容と決定を書状にして送るのだ。 オロフェアに敵意はない。 会議の決定には従うと書かれている。 シリオンの自治権がキアダンからエアレンディルに移るという話だ。 「オロフェア殿が話し合いに出席されるのであれば、 シリオンはエルウィング嬢に差し上げてもいい」 書状をきれいに丸めながら、エレイニオンはスランドゥイルの反応をうかがう。 スランドゥイルは静かに首を横に振る。 「シリオンの自治が欲しいなど、爪の先ほども思わない。 ただ、あそこで静かに暮らしている事を認めてもらい、我らに関わらずにいて欲しいだけだ」 ノルドールが憎いなら、なぜ最愛の姫とノルドの公子の婚姻を認めた? 違う。憎いのではない。関わりあいたくないだけだ。 エルウィングもそのことはよく理解している。 であるから、彼女は交流を無理強いしたりはしない。 シリオンの領主がキアダンでなく、最初からエレイニオンであったら、 オロフェアはこの港に避難してくる事もなかっただろう。 むしろ、 寛大なのかもしれない。 姫の婚姻を認め、憎むべきノルドールの王のところに、こうして頻繁に使者を送ってくるのだから。 そして、その使者がノルドの王と懇意にする事を了承しているのだから。 「しかし、わざわざきみが書状を持ってくるほどの内容でもないな」 丸めた書状をテーブルの上に置く。内容はいつも同じで、何度も何度も送ってくるほどの事もない。 「エレイニオン」 スランドゥイルが小さくため息をつく。 「何か、気に入らない事があるのか?」 「なぜ?」 「あなたは、機嫌が悪いと冷たくなる」 「冷たい、かな?」 ぐい、と、スランドゥイルは身を乗り出してエレイニオンの黒い瞳を覗き込んだ。 「こんな理由でもなければ、私はあなたに会いに来られない。迷惑だったか」 蒼い瞳に真剣に見つめられ、エレイニオンは唇の端を引きつらせる。ぐらりと理性が揺れる。 「ぼくに、会いたかった? 嬉しいね。じゃあ、今すぐここで愛し合おうか」 「エレイニオン」 スランドゥイルは、またゆっくり首を横に振る。冗談だよ、と、エレイニオンは肩をすくめる。 「頼みが、あるんだ」 「何?」 「剣を、教えて欲しい」 武器を目にしただけで、恐れ震え上がるような奴が、剣を教えて欲しいなど、笑止。 一瞬笑い出しそうになり、すぐにエレイニオンは唇を結んだ。 決して、それは酔狂などではないのだ。 スランドゥイルは、至極真剣にエレイニオンを見つめている。 「オロフェア殿は、相当の達人だと伺っているが?」 「もちろん。だが、父は私に剣を握らせない。体術は教わるが、武器に関しては触れさせない。 たぶん……父も、怖いのだ。だが、…エレイニオン、私は、克服したい。強くなりたい。 父と共に、シンダールの民を守りたい。どうか、私に剣を教えてくれないか」 雨上がりの空のように、一点の曇りもない、真っ青な瞳。 「…スランドゥイル、オロフェア殿がきみに剣術を教えないなら、 ぼくがきみにそれを教えるわけにはいかない。それは、オロフェア殿への不誠実になる」 「どうしてもだめか? お礼は何でもする」 誘惑に引き込まれるように、手を伸ばしかけ、エレイニオンは踏み止まる。 そして、身を引いて大きくため息をついた。 「きみは武器を持つ必要はない。ぼくが守ってあげるよ。ぼくのものになるならね」 「あなたのものになったら、戦い方を教えてもらえないのなら、私はあなたのものにならない」 エレイニオンが眉を上げて驚きを示す。 「戦い方を教えたら、きみはぼくのものになる?」 「あなたは、私の師になる」 「つまり、きみはぼくの弟子で、ぼくの言う事はなんでもきくというわけだ」 スランドゥイルは頷く。 「それはとても魅力的だ。 こうしよう、きみは、ぼくのところに勉強に来るということで、オロフェア殿に許可をもらおう。 手紙を書くよ。そうだな、帝王学と護身術を学ぶ。説得するのはきみ自身だけど。どうだい?」 スランドゥイルは、目を細めて肯定の笑みを見せる。 「ありがとう」 「きみの頼みは断れないよ。出会ってからずっと」 苦笑しながら、エレイニオンはため息をついた。 しとしとと小雨の降る日、 野暮ったい灰色のマントを頭からすっぽりと被ったひとりの男が、オロフェアを訪ねた。 その日、スランドゥイルはエルウィングの頼みで、彼女の手伝いに行っていた。 「………」 軒先で、突然の来訪者に、オロフェアは驚き、警戒に身を硬くする。 「ギ……」 来訪者は人差し指を立て、オロフェアを黙らせる。 「警戒せずともよろしい。わたしはあなたを暗殺しに来たわけではない」 「では?」 「あなたの、本音を聞きたい。わたしとて、シンダールと敵対したくはない。 同族の犯せし罪を謝罪したい。ただ、これは公にはできぬ。 ご存知の通り、そちらにはそちらの言い分があり、こちらにはこちらの言い分がある。 あなたが公の会議に立てば、あなたが懸念するとおりになるだろう。 お互いの認めたくない部分をさらけ出さねばならなくなる。 会議出席の書状は、今までも、これからも、あくまで社交辞令だ。 オロフェア殿、だがわたしは、あなたと敵対したくはない。 公としてではなく、個として、あなたに伺いたい。あなたの、考えている事を」 「私の、何を聞きたいのです?」 マントのフードを少しだけ上げ、エレイニオンは上目遣いにオロフェアを見た。 「あなたは何を予見し、これからどうされるおつもりなのか」 ダイヤモンドのような瞳で、オロフェアはエレイニオンを凝視する。 「………私は、いずれここを去るつもりです。それは今ではありませんが」 「あなたの民がそれを望むから?」 「そうです。民意は私の意思であり、息子の希望」 オロフェアの瞳が、エレイニオンの心を探るように、小さな光を放つ。 「あなたは戦う星に生まれ、息子は守る道を選びました。 あなたから学ぶ事は多く、私はそれを否定しません。 エルウィング姫がエアレンディル殿との愛を選んだのは、喜ばしい事です。 愛は全てに勝る。姫は我らと違う道を歩むことを選んだのです。 息子がノルドールの王の下で学び、そこに友好的な感情が芽生えるのならば、それは歓迎すべき事。 姫の愛も、息子の友情も、我らが望む平穏の礎。 我らは、決してノルドールと対立したいわけではありません。ただひとつ………」 すっ、と白い指が伸びてきて、エレイニオンの頬に触れた。 その瞬間、まるで叱られた幼子のように、エレイニオンは体を震わせた。 「決して、裏切らないでいただきたい。もう二度と、 (スランドゥイルから愛を奪わせない) 我らの期待を、信頼を、裏切らないでください」 オロフェアの触れた箇所が、燃えるように熱い。 熱は苦手だ。 自分は氷であるから。 熱い感情は、この身を滅ぼす。 一度瞳を閉じ、氷原に心を漂わせて冷静さを取り戻す。 瞼を上げたエレイニオンの瞳は、漆黒の冷たさをまとっていた。 そして、ゆっくりとオロフェアの指に触れる。 (保障はできない) 冷たい感情が、オロフェアの中に流れ込む。 それは、深い悲しみでもあった。 (星が巡る前に、この地を去るのがよかろう。エルウィングを連れて) (姫は、連れて行けない。姫は、運命を受け入れる覚悟ができている) エレイニオンは、手を離した。 「時間は、まだある」 フードを取り払い、エレイニオンは髪をかきあげた。 その時、屋敷の建つ丘を、スランドゥイルが登ってきた。 「………エレイニオン…? どうしてここに?」 「きみを迎えに来たんだ。弟子としてね」 雨に濡れない黒髪をさらりと流し、エレイニオンはニッと笑う。 スランドゥイルは困惑したように父を見る。 「決して粗相のないように」 その言葉に弾かれたように、スランドゥイルの口許に笑みがこぼれる。 「仕度をして来なさい」 屋敷に入る息子の背を見送り、オロフェアは視線をエレイニオンに戻した。 (息子は、何も知らない) (知らないままでいい) 「あなたは剣の達人を聞く。是非一度お手合わせ願いたい」 「申し訳ありませんが、それはできません」 「なぜ?」 「あなたが武器を手にしたら、私は本気であなたに切りかかるでしょう」 エレイニオンは苦笑して見せた。 「ご子息を、お預かりいたします」