いくつもの季節が過ぎ去り、
 また何度目かの春が訪れる。

 丘の上の屋敷の前は、色とりどりの花で埋め尽くされる。
 毎年毎年、
 エアレンディルはエルウィングに花の種を贈り、
 それがこんなにも増えた。
「すごいな」
 エレイニオンは、腰に手を当て、感嘆して見せた。
 成長し、大人びた体型になったエルウィングは、胸元の開いた白いドレスを着ている。
「きれいに咲いているでしょ?」
 白い貝殻でできたブレスレットをはめた細い手首。
その手を取って、エレイニオンは手の甲にそっとキスをする。
「姫もずいぶんと美しくなった。…恋、かな?」
 くすくすとエルウィングは笑う。
「オロフェア殿は、出かけておられるのですか?」
「…ええ。今夜は帰らないわ」
 意味ありげに、エルウィングは微笑む。
「エレイニオン様…ギル=ガラド様とお呼びした方がよろしいかしら?」
「どちらでも」
「では、エレイニオン様、お願いがあるの。秘密の」
 細い指でエレイニオンの手を取り、木陰に連れて行く。
 緑色の葉陰の下で、エルウィングは頬を染めてエレイニオンを見上げる。
「わたし、……エアレンディル様に、求婚されているの。
今夜、岬に来て欲しい…って」
 エアレンディルがエルウィングに恋をしていることは、トゥオルから聞いて知っていた。
その事に関して、トゥオルもイドリルも反対はしていない。
エルウィングの気持ちしだい、ということだ。
「姫は、エアレンディル殿のことは、どう思っているのです?」
「………」
 頬を染めて俯く。恋する瞳。
「何をためらうのです? あなたが、シンダールの姫、だから? 
オロフェア殿が反対している?」
 エルウィングは首を横に振る。
「誰にも話していないわ。ただ、わたし、どうしてよいか」
 微笑ましい反応ではないか。エレイニオンは、花畑の方を見る。
青空の下、スランドゥイルが花の世話をしている。
その視線にエルウィングも気付き、熱心に花の世話をしているスランドゥイルの方を見る。
「スランドゥイルは、花を育てるのが、とても上手なの」
「そうみたいですね。この屋敷の周りも、随分緑が増えた」
 周囲を見回してから、エルウィングに向き直る。
「ぼくが、姫のお目付け役を連れ去る。
姫は今宵エアレンディル殿と会って、ご自分の気持ちを確かめるといいでしょう」
 そう言って、ニッと笑う。
 エルウィングとて、最初からそのつもりでエレイニオンを呼んだのだろう。
 オロフェアが留守にしている間、息子であるスランドゥイルがエルウィングを守っている。
責任感の強いスランドゥイルを動かせるとしたら、エレイニオンくらいだ。
 エルウィングの指に軽くキスをして、エレイニオンは花畑に足早に歩いていった。
 かがみこんで花の摘心をしているスランドゥイルの腕を、ぐいと引っ張る。
「迎えに来たよ」 
 ニヤリと笑って見せると、スランドゥイルは眉を寄せた。
「父は不在で、わたしはここを守らなければならない」
「知っている」
「なら………」
「ぼくには関係のないことだ」
 そのまま腕を掴んで、引きずるように丘を降りていく。
スランドゥイルはそれほど抵抗しない。本人も、その意味をわかっているのだろう。
「姫は、エアレンディルに恋をしている」
「知っている、そんなこと」
 へえ、とエレイニオンは足を止めた。
「姫の文を運んでいるのは、わたしだ」
 思わずエレイニオンは噴出して笑う。
「では今夜、姫がエアレンディルに誘われている事も?」
「知っている」
「では、ぼくがきみを連れ去る理由もわかるね?」
 ふう、とスランドゥイルはため息をつく。
「そんなことをしなくても、わたしは姫を止めない」
「それでは姫の気がすまないんだよ。乙女心のわからない奴だな。
オロフェア殿は不在、お目付け役も出かけている。
で、こっそりと恋人と逢引をする。
出かけるときも、帰って来るときも、きみの目を気にする事はない」
「そうなのか?」
「ぼくだって、オロフェア殿の目の前できみを連れ去る勇気はないしね」
 スランドゥイルは唇をゆがめて見せた。
「しかし、父の不在中、屋敷を空けるわけにもいかない」
「ほんの数時間でいい。そうだな、ぼくの船で過ごそう。
きみは、姫が出かける姿を見なければいいんだ」
 ゆるゆるとスランドゥイルは頭を振る。仕方がないと肩を落としながら。
「しかし、なぜあなたはそこまでするんだ? わざわざシリオンまで出かけてきて」
「言い訳だよ」
 スランドゥイルの顎を指で持ち上げながら、エレイニオンはニヤリと笑う。
「キアダンに言い訳ができる。
エルウィング嬢の頼みを聞きに、わざわざシリオンまで出かける。
エルウィング嬢とエアレンディル殿の恋の行方に関することなら、キアダンだって止めはしないさ。
きみに会うのは、そのついで、だ」
「そんなに、キアダン殿が怖いのか?」
「ぼくの父親みたいなものだからね」
 エレイニオンは指を離した。
「ぼくはこれから所用を済ませてくる。
トゥアゴン殿に話があるし、エアレンディル殿にも話しておかなきゃな。夜、迎えに行くよ」
「わたしがあなたの船に行く」
 ほう? とエレイニオンが眉を上げる。
「わたしがあなたに用事があると言った方が、姫も気が咎めないだろう」
 なかなかわかっているじゃないか。
「待ってるよ」



 月が昇る頃、エルウィングはそわそわし始めた。
「姫、出かけてきてもよろしいですか」
 スランドゥイルの言葉に、エルウィングはどきりと頬を赤らめる。
「夜明けまでには、戻りますゆえ」
「……ええ」
 まだ戸惑い気味のエルウィングの手に、スランドゥイルはそっとひとふさの花を乗せた。
 夜明けのような紫色の、小さな花たち。ラヴェンダー。
「いい香り」
 エルウィングの手に、己の手を重ねる。
スランドゥイルはエルウィングの目を見て微笑み、花を残して出て行った。



 船は少しばかり港を離れ、静かな沖を漂っていた。
 スランドゥイルは甲板で夜空を眺めている。
「意外だったなあ。ぼくはてっきり、きみは姫を愛しているものだと思っていた」
「わたしは姫を愛している」
 真顔でスランドゥイルは応える。
エレイニオンは船室からワインとグラスを持ってきた。
グラスのひとつをスランドゥイルに手渡す。そして、紅玉色の液体を注いだ。
 ワインを一口飲み、スランドゥイルは奇妙に動きを止めた。
「もしかして、ワインは飲まない?」
「そんなことは……」
「なら、遠慮なくどうぞ。上物だ」
 思い切って一口飲んでから、スランドゥイルは額に手を当て、グラスを置いた。
「かなりキツイものだけど」
 鼻で笑いながら、エレイニオンは自分のグラスをあおる。
「冗談だよ。無理に飲まなくていい。悪酔いさせたらまずいからな。水の方がいい?」
「いや、大丈夫……」
 二口目のワインを飲んで、スランドゥイルは顔を上げた。
「そうではなくて、きみは女性としてエルウィング嬢を愛していて、
姫を、娶りたいと思っているのだと、ね。
みんなもそれを望んでいるのではないかい? オロフェア殿も」
「わたしは姫を愛しているが、娶りたいなどとは思わない。
誰も、そんなことは考えていない」
「では、エルウィング嬢がエアレンディル殿と婚姻する事になっても、
きみは嫉妬しないんだ?」
「なぜ嫉妬するんだ?」
 うむ、と、エレイニオンは腕を組む。
「スランドゥイル、ぼくのことは、好きかい?」
「好きだ」
「ぼくはきみを愛しているのだけど」
「わたしも、あなたを愛している」
「今度、ぼくは結婚する事になった」
「それは喜ばしい事だ」
 パッとスランドゥイルが明るい笑顔を作る。心底そう思っているのだろう。
エレイニオンががっくりと肩を落とした。
「嘘だよ」
「なんだ、違うのか」
 大きくため息をつき、エレイニオンはグラスに注いだワインを一気飲みする。
「きみにとって、ぼくも姫も同一線上なんだな。きみの『愛』は、じつに博愛的だ。
ぼくが聞きたいのは、そういう愛じゃない」
 ワインの味に慣れたのか、スランドゥイルはちびちびとワインを口に運び始めた。
「では、どういう愛だ?」
「そうだな、こう、抱き合いたいとか、肌を重ねたいとか、そういう相手」
「ないな」
「ぼくはきみを抱きたいのだけど」
「なぜ?」
 なぜ、と聞かれても…。ワイングラスに口をつけながら、エレイニオンは顔をしかめる。
「きみに、欲情するから」
「欲情?」
「交わりたいってこと」
 さすがに言葉に意味は知っているのだろう。
スランドゥイルはごくりとワインを飲んで、視線を外した。
「…わたしは、あなたと情を交わすことはない。あなたと結婚するわけでもないし」
「そりゃあ、きみと結婚できるものなら求愛もするけどね。
さすがにそれは、ぼくでも無理だ」
 ははは、と、乾いた笑いをして、グラスに残っているワインを一口で飲む。
見れば、スランドゥイルのグラスも空いている。
「けっこういけるな? 酔いつぶれるなよ」
 そう言いながら、グラスにワインを注ぎ足す。
「いつか、そういう相手に出会えればいいとは思う。それは、今ではないけど。
エレイニオン、あなたは、本当にそういう相手はいないのか」
「だから、ぼくはきみと交わりたい」
「そうではなくて…」
 エレイニオンは、スランドゥイルの隣りに移り、腰に手を回す。
スランドゥイルは拒絶するように、エレイニオンの胸に手を置いた。
「エルウィング嬢がエアレンディル殿に恋をするように、
そんなふうに、誰かを好きになった事はないな。
気が向けば、誰かと交わる事もあるけどね」
「誰でもいいなら、他の相手を探してくれないか」
 顔を寄せると、スランドゥイルは身を引く。
 心を硬い鎧で覆っていた以前なら、キスをしても何の反応も示さなかったのに。
「誰でもいいとは言っていない」
 スランドゥイルは身をよじり、またワインを口にする。
「きみと、楽しみたいんだ。なんでそんなに嫌がる? 気持ちいいのに」
「それは………心を通わせる相手とするものだ」
「ぼくはきみと心を通わせたいと思っているけど」
「だから…」
 もう、何を言っても無駄だ。スランドゥイルはため息をつく。
 二杯目のワインを、一気に喉に流し込んだ時、
ぐらりと目眩がして、スランドゥイルは甲板にぱたりと倒れた。

「大丈夫か?」
 ワインを出したのは、ほんの冗談で、まさかそんなに飲むとは思っていなかった。
 スランドゥイルの肩をゆする。
 すると、スランドゥイルはすぐに目を開け、ゆっくりと起き上がった。
「大丈夫だ。…夢を、見た」
「この一瞬で?」
「そう。そうだ。あなたが、ヘンな事を言うから」
ヘンな事とは、心外な。
「幼い頃の夢、だ。あれは、たぶん、夏至の祭。
楽団が一晩中音楽を奏でて、みんなが着飾り、踊っていた」

 きらきらと輝く銀色のドレスを着た母は、幼心にもきれいだと思っていた。
 父が母をダンスに誘い、ふたりはくるくると踊っていた。
 見惚れていると、踊りながら父が近寄ってきて、わたしを抱き上げた。
 父の腕に抱かれながら、三人で、ずっとダンスを踊っていた。
 いつのまにか、わたしは眠ってしまっていた。
 目が覚めると、ベッドの上だった。
 同じベッドに、父と母も一緒にいた。
 目を覚ました母は、わたしに微笑んで言った。
(すばらしい夜だったわ)

 なかばうっとりと話すスランドゥイルに、エレイニオンはその情景が見えた気がした。
 ベッドに横たわる、美しい女性。
愛する男と結ばれ、夜を楽しんだ彼女は、頬を紅潮させ、
潤んだ瞳で、愛する息子に囁くのだ。
 すばらしい夜だった、と。

 つまり、スランドゥイルにとって、誰かと結ばれるというのは、そういうことなのだ。
 幸せそうな母親の表情を、思い浮かべるのだろう。
 エアレンディルに恋するエルウィング嬢の表情は、まさにそんな幸福を表している。
 
「そうか。ぼくには、わからないな」
 エレイニオンは立ち上がり、少し離れた手すりにもたれかかった。
「母の事は、覚えていないんだ。父もね、思い出されるのは、武装した後姿ばかり。
立派な王だったよ。だぶんね。だが、常に戦うことを運命付けられていた。
王になるとは、そういうことだ。ぼくも、いつも戦場にいた気がする。
 そう、ぼくにとって戦場は、戦は、この海の嵐のようなもの。
望まなくても、必ずやってくる。何度も何度も。
やっと乗り切っても、またやってくる。
だから常に、嵐のことを考えていなければならない。次の嵐を、どう戦うか。
 今は、その間、短い凪ぎにすぎない。
 海が凪いでいるのは、ほんの短い間だけだ。
 それでも、キアダンのところに使わされたのは、ぼくにとって幸運だったよ。
 彼は、嵐のことだけを考えているわけじゃない。
 凪ぎの間に、休む事を教えてくれた」
 ワインを楽しむことも、時には、誰かと交わる事も。
「エレイニオン………」
「悪かったよ。ぼくにはきみの『愛』はわからないし、
きみにはぼくの『生き方』は理解できないだろう」
 スランドゥイルは眉を寄せる。
 今の彼は、『自分はギル=ガラドなのだ』と冷たく言い放った時と、同じだ。
「すまない、エレイニオン、そんなつもりではないんだ」
「そんなつもり、とは?」
「あなたを拒絶するつもりはない。
たしかに、今のわたしにはあなたを理解できないかもしれない。でも、理解したいと思う。
だから、そんなふうに心を閉ざさないでくれ」
 意外なことを言う。
「心を閉ざす? ぼくが?」
「そうだ。あなたは優しく手を差し伸べてくるのに、こちらが手を出すと引き下がってしまう。
他者の心には踏み込んでくるのに、自分の心には踏み込ませない。
今だって、戯れにわたしを抱きたいと言うくせに、
愛の何たるかを語ろうとすれば全てを拒絶してわたしを追い払う」
 
(忠告しておくよ、エレイニオン、あの子に執着するのはやめなさい。
わしだって気付いていたよ。あの子が心を閉ざしていることくらい。
その扉を開けてはならないのだ。
それはね、お前さんが自分を偽っても、
フィンゴン王の跡継ぎという大役を果たさなければならないのと、同じだ。
お前さんがあの子の心に引きずられたのは、
お前さんも自分の心を閉ざしているからだ)

 キアダンの言葉が、フラッシュバックする。
「エレイニオン、一時的な気まぐれや衝動で、あなたと肌を重ねる気はない。
わたしは、本当にあなたの事が好きだから。
誰でもいいなら、他の誰かを抱けばいい。あなたはわたしに、心を見せない。
だから、あなたと身体を重ねられない」
 言葉を失って、スランドゥイルを見る。
 己を語る言葉などない。

 ああ、ぼくは、こんなにもからっぽだ

 そうだよ、
 ぼくは、絶対的な権力ではなく、
 ただ花を摘んでいるだけのきみがほしい

「きみと結ばれたら、ぼくはただのエレイニオンでいられるかな」
 スランドゥイルが微笑む。
「わたしにとって、あなたはただのエレイニオンだ。
桜貝を、見つけてわたしに差し出してくれる」  
 エレイニオンが手を伸ばす。スランドゥイルはその指に触れた。
「きみを抱きたい。他には、何もいらない。きみが、欲しいんだ」
 目を細めて、スランドゥイルはエレイニオンを見つめる。
 そして、頷く代わりに瞳を閉じた。



 穏やかな波に揺られるように、肌を重ね、交わる。
 ふと、スランドゥイルは目を開けた。
「…二度目、だ」
 ぎくり、とエレイニオンが動きを止める。
「そうだろう?」
「思い出した?」
 顔を引きつらせてエレイニオンが苦笑する。
 弁明しようと口を開きかけると、スランドゥイルはその口に指を当てた。
「何も、言わなくていい。あなたは、わたしを助けてくれた。
あなたは、わたしに優しくしてくれた」
「…ぼくは、きみを無理矢理犯したのだけど…」
「ちがう、エレイニオン。あなたがいなければ、わたしは壊れていた。
あなたに、救われた」
 エレイニオンの顔を、両手で包み、スランドゥイルは微笑む。
「あなたが欲しいのなら、いつでもあげよう」
 そして、唇を重ねる。
 凪いだ海の、穏やかな波のように、
 月の光を浴びた水面のように、
 静かに心を重ね合わせる。



「夜が明ける。港に戻ろう」
 服を身につけ、髪を高い位置で結いながら、エレイニオンはニッと笑った。
「疲れた?」
「少し」
 スランドゥイルは気だるげに服を整えている。
 船はすぐに港に着いた。
「誰かに何か聞かれたら、二日酔いだと言えばいい」
 慣れないワインを飲んだのだ。酔いが残ってもおかしくない。
「……そう、だな」
 そうすることに慣れてないのに、一晩中繋がっていたのだ。身体に力が入らず、ふらつく。
「屋敷まで送ろうか?」
 まさか、と、スランドゥイルは首を横に振る。
「大丈夫」
 深呼吸をして立ち上がり、船を下りる。
「スランドゥイル」
 欄干に寄りかかりながら、エレイニオンは微笑みかけた。
「すばらしい夜だったよ」
 スランドゥイルも笑みを返した。