数日が、のろのろと過ぎていった。
 何の知らせもないまま、
 さらに数日。
 漠然とした不安を抱えたまま、スランドゥイルは落ち着かない日々をやり過ごした。
 港で情報を集めようにも、何も入ってこない。それこそ、誰もが不安を抱えている。
 自分が何故こんなにも落ち着かないのか、その理由もわからない。
 更に数日経った頃、スランドゥイルは折れた槍の幻想を見て、飛び起きた。
 そんなはずはない。
 そんなはずはない。
 何度も自分に言い聞かせる。
 父は、何も言わない。
 だから、父には何も言わない。
 エルウィングだけは、何か気付いているようだったが、
やはりスランドゥイルに特別な言葉をかけることはなかった。
 
 ガラスの心に閉じ込めた、
 たくさんの繊細な貝殻。
 そのひとつが、
 きしむ音がする。

 ああ、そうか。
 と、
 ある晩、スランドゥイルは気付いた。
 自分は、エレイニオンのことが気になって仕方がない。
 彼は、自分にとって、特別な存在なのだ、
 と。

 家族ではないし、
 守るべき一族の者でもない。

 友人と呼ぶには、身分が違いすぎる。

 憧れ、
 だろうか。

「スランドゥイル」
 静かな呼び声に、振り向く。エルウィングは、スランドゥイルを手招いて、外に出た。
 満天の星空。
 海とは反対の方を、エルウィングは指差す。
「帰って来るわ」
 明かりも何もない、河の上流をエルウィングは指し示す。
「エルウィング様?」
 エルウィングの横顔は、大人びて、美しく、メリアンの面影がある。
瞳に星の明かりを映し、スランドゥイルを見上げる。
「わたしは、もう大丈夫。もう、かなしまないわ」
 そして、少女は大人びた笑みをつくった。



 エルウィングの言葉どおり、翌日の夜明けに、船団はシリオンの港に帰ってきた。
ゴンドリンからの避難民が大勢いる。ほとんどが、戦えない女性や子どもたちだ。
 シンダールの民は、港に降り、避難民たちの救護の手伝いをした。
 避難民の中に、ゴンドリンの王族、トゥオルとイドリル、エアレンディルもいた。
トゥオルは船を下りることなく、
キアダンやエレイニオンらと共に、そのままバラール島へと向かった。
 疲れ果て、途方に暮れるイドリルを、息子のエアレンディルが慰める。
そこに、飲み物と食料を携えたエルウィングが訪れる。
エルウィングは、イドリルの足元に跪いた。
「わたしは、ドリアスのエルウィングです」
 イドリルは少女を見下ろし、自らも膝をつく。ドリアス、ノルドールの犯せし罪。
「ごめんなさい、ごめんなさい………」
「奥様が謝る事は、何もありません。どうか…」
 水の入った壷を差し出し、
「今は、お休みになってください。寝所はすぐにご用意いたします」
 少し哀しげに微笑む。
「ありがとう」
 親愛を込めて、手を握る。
 エアレンディルは、気丈で美しい少女に見惚れていた。
その視線に気付き、エルウィングも振り向く。
 見つめ合ったその瞬間、二人は運命を感じた。



 バラール島では、緊急会議が招集されていた。
「トゥアゴン王が亡くなられた今、
王権はフィンゴン王の直系であられるエレイニオンに移される」
 エレイニオンは瞳を閉じ、その判決を聞いていた。
「これより、エレイニオン・ギル=ガラド王である」
 会議に参加していた者たち、トゥオルを含め、全員が立ち上がり、敬礼を示す。
 エレイニオンは、瞳を開け、周囲をゆっくりと見回すと、立ち上がり、頭を下げる。
その頂に、トゥオルはサークレットをのせた。
 ミスリルのサークレットは、鋼鉄の錘より重たい。
エレイニオンは、胸の中で失笑する。
 エレイニオンは、顔を上げ、敬礼を返した。

「戴冠式が行われず、残念だ」
 キアダンの言葉に、エレイニオンは苦笑する。
 トゥオルは一族の者たちを取りまとめに、シリオンに戻った。
「シンダールの者たちと、喧嘩しなきゃいいが」
 冗談めかしてエレイニオンが言う。
「そんなことを言って、様子を見るとか何とか理由をつけてシリオンに行きたいのだろう? 
残念だが、あちらは大丈夫だ。使いの者が知らせてきた。
エルウィング嬢がうまく取りまとめておる。
しばらくは忙しいぞ、ギル=ガラド王」
 エレイニオンは肩を落としてため息をつく。
「サークレットが重い」
「嫌でも慣れる」
 慣れなければならないのだ。
「なあ、キアダン…」
 窓辺で海を眺め、口を開く。
「いや、何でもない」
「否、だ」
 即答するキアダンに、驚きの目を向ける。
「王権を放棄する選択肢はあるのか、という、きみの質問の答えは、否、だ」
 何もかも、お見通し、だな。
「わかっている」
「なら、もう二度と、同じ質問をするでない」
「質問はしていない」
「わかるのだよ、エレイニオン。そんなことを、考えてはいけない」
「ぼくにはもう、自由はないわけだ」
 キアダンは応えない。
 何もかも、
 諦めなければならない、
 と、いうわけだ。
 エレイニオンは、また、深くため息をついた。



 それから一年が、あっという間に過ぎていった。
 エレイニオンが王権を継ぎ、ギル=ガラド王となった知らせは、
シリオンにすぐにもたらされた。
今までのように、エレイニオンがシリオンに来る事は、ない。
王は、特に必要としない限り、バラール島を出ない。
島では、頻繁に会議が催され、ゴンドリン陥落という一大事と今後について、
何度も何度も話し合いがもたれた。 
シリオンは、落ち着きを取り戻していた。
ゴンドリンの難民たちは港の近くに住まわっていた。
シンダールの民と諍いを起こすことはなく、交流もある。
使者は主にエルウィングが勤めていた。
そして、バラール島へ、頻繁に通っていたトゥオルから、情報を持ち帰った。

 エルウィングたちの住まう丘の上に、エルウィングは花の種をまいていた。
交易で手に入れた花の種を、エアレンディルから贈られたのだ。
エルウィングは、エアレンディルに惹かれていた。
 花の世話を、スランドゥイルが手伝う。
「ねえ、スランドゥイル、エレイニオン様に、会いたい?」
 小さな花芽に水をやりながら、エルウィングが問う。
スランドゥイルは曖昧に唇をゆがめる。
「会いたくないの?」
「どうでしょう」
 もう、と、エルウィングはスランドゥイルに詰め寄る。
「お友達でしょう? お友達に、会いたくないわけないじゃない」
 お友達…。スランドゥイルは眉を寄せる。
「わたしと、あなたも、お友達、でしょう?」
「友達だなど…わたしは、エルウィング様に使えている身…」
「そんな、寂しい事言わないで。
わたしはスランドゥイルのこと、大切なお友達だと思っているのに」
 スランドゥイルは困惑する。エルウィングは、使えるべき王族、主。
ずっとそのつもりでいた。
「心を閉ざさないで。ひとりぼっちにならないで。
ねえ、スランドゥイル、お願い。わたし、あなたのこと、好きよ。
ずっとずっと、わたしのこと、守ってくれたでしょう? 
なにか、してあげたいの。本当の事を言って。
エレイニオン様に、会いたくないの?」
 スランドゥイルはエルウィングを見つめ、視線を逸らす。
「あなたの、笑顔が見たいの」
 もうずっと、引きつったような、困ったような、無理に笑った顔しか見ていない。
「オロフェアも心配しているの。わたしにはわかる。
どうしたら、あなたが笑えるのか。
きっとね、きっと、その鍵は、エレイニオン様にあると思うの。
あの方は、特別な力を持っているもの」
「それは、ノルドの上級王ですから」
「わたし、ドリアスの王家の娘、なんて、呼ばれたくないわ。
わたしは、エルウィング。そうでしょう? 
わたしが、王家の娘だから、私を守ってくれるの? それだけ?」
「それだけではありません。もちろん、それもありますが」
「スランドゥイル!」
 怒ったようにエルウィングは顔を寄せる。
「わたしを好きって言って。
ドリアスはもうなくて、わたしは王族でも何でもなくて、それでも私を好きって。
違うの?」
「好きです。エルウィング様のこと。王族でなくても…」
 ニッとエルウィングは笑う。
「もう一度聞くわ。エレイニオン様に、会いたくない?」
「会いたいです」
「会わせてあげる」
 輝くように微笑んで、エルウィングはスランドゥイルの頬にキスをした。 



 数日後、
 シリオンの港に、バラール島から一隻の船が着いた。
 エルウィングは、スランドゥイルの手を引っ張って、船に近付いた。
「エルウィング様…」
 困っているスランドゥイルの口許に、人差し指を立てる。
そして、エルウィングは船の主が出てくるのを待った。
「エルウィング嬢」
 船から出てきた青年は、水夫のように髪を頭上で縛り、水夫のような身なりをしている。
それでも、その輝かしさは隠し切れない。
「お似合いですわ、エレイニオン様」
「周りがうるさくてね、抜け出すのに手間がかかった。
ところで、ぼくに大切な話って、何だい?」
 エルウィングは、背後のスランドゥイルを前に押し出す。
スランドゥイルは動揺してエルウィングの名を呼ぶ。
「わたしのスランドゥイルが、エレイニオン様のこと、とても心配しているの。
ゴンドリンの戦から一年、一度もお顔を見ていないから」
 へえ、とエレイニオンはスランドゥイルを見る。スランドゥイルは視線を外す。
エレイニオンは、ニッと笑うと、スランドゥイルの腕を掴んで、船に引っ張り上げた。
「立ち話は、人目につくから」
 エルウィングに礼を言い、エレイニオンはスランドゥイルを連れて船室に入った。

 あまり広くない船室で、向かい合って座る。
 視線を落としたまま押し黙っているスランドゥイルを、エレイニオンは黙って見つめていた。
 時間が、過ぎていく。
 エレイニオンは苛立つ事もなく、じっとスランドゥイルを見つめる。
 しばらくして、やっとスランドゥイルは重たそうに口を開いた。
「…心配…していた」
「心配? 何の?」
 飄々とした応えに、スランドゥイルは驚いて顔を上げる。
エレイニオンは、笑む事もなく、無表情の仮面を被っているようだった。
「ゴンドリンの…追っ手に苦労したと聞いた…」
「そうだね。手強い相手だけど、戦なんて、いつもそんなものだ。
今回の目的は、敵の殲滅ではなく、避難民の保護だったから。
トゥオル殿とイドリル様、エアレンディル様が無事だったのだ。
戦果としては悪くない」
 なんで、そんな顔をするのだ、と、スランドゥイルは思う。
以前会った時とはまったく違う。達観したような言葉ぶり。
「わたしは、あなたの心配をしていた」
「きみがぼくを心配する理由がわからない」
 え、と、思わず聞き返す。
「きみには関係のないことだ。むしろ、ぼくが死んだ方が都合がいいのではないか?」
「…エレイニオン様?」
「ぼくは、きみの故郷を滅ぼしたノルドール族の王だ。
ぼくを憎みこそすれ、心配される覚えはない」
 なんで、そんなことを言うのだろう?
「ぼくはドリアスに攻め入った者たちと血のつながりがあり、
さらには、ぼくの父は直接手を下したマエズロス殿の親友であった。
ゴンドリンが滅んだのも、結局は身内の裏切り、薄汚い一族の身から出たさび。
きみはぼくらを軽蔑し、憎悪するだろう」
「…エレイニオン…」
「わたしは、ギル=ガラド。ノルドールの上級王」
「エレイニオン!」
 勢いよく立ち上がったスランドゥイルを、エレイニオンは、歯を食いしばって見上げる。
「あなたは! あなたは、わたしに言った。
礼を尽くすつもりなら、自分を王族扱いしないで欲しいと。
だから、わたしは礼を尽くして、あなたを王族として扱わない。
あなたは、わたしにとって、ギル=ガラドではなく、エレイニオン。
わたしが深い悲しみに落ち込んでいたとき、助けれくれた。
恩人であり、友でありたいと願っている。
だから、わたしはあなたを心配するし、
もし今、あなたが困っている事があるなら、手を貸したいと思う」
 なんて、大胆な発言だ。上級王に対する愚弄、
否、無知で無謀な軽率な考え、とでも言おうか。
キアダンが聞いたら、腹を抱えて笑うだろう。
 青臭くて、憎めもしない。
「だから、自分を傷つけるような、そんな言い方をしては、だめだ」
 腹の底からおかしさがこみ上げて、体を折って肩を震わせる。
 エルウィングが、この若者を大切にしている理由がわかる。
 腹が立つほど、
 純粋で、真っ直ぐで、己の身を犠牲にすることを厭わない。
 まったく
「何様のつもりだ。ぼくに、そんな命令をするのは、キアダンときみだけだ」
 唇を結んで、スランドゥイルは真っ直ぐエレイニオンを見つめる。
「それが、きみの本性か」
 先ほどまでの、怯え戸惑っていた姿は、もうない。
 以前なら、すぐに視線を外し、肩を丸めて謝っていたのに。
 そうか、これが、本来の姿か。

 強いのだな。

 視線がぶつかる。
 スランドゥイルは、決して引かない。
 エレイニオンを見つめる。
 そして、エレイニオンは、その視線に、

 どうしようもない心地よさを感じる。

 恐れずに見つめてくる視線に。
 
 その視線の前では、
 王という大役を演じなくて良いのだろうと。

「今すぐ、きみを抱きたい」
 エレイニオンは、スランドゥイルの前に立った。自分の方が、背が高い。
スランドゥイルはエレイニオンを見上げ、
そして、まるで子供にするように、優しく抱擁してきた。
 腕を背に回しながら、思わず失笑する。
「きみは、こんなふうに、エルウィング嬢を抱くんだね?」
「?」
 スランドゥイルは、眉を寄せて首を傾げる。
 ニヤリ、と笑い、エレイニオンは強引にスランドゥイルに唇を重ねた。



「残念だが、時間がなくてね。すぐに帰らなきゃならない」
 そう言って、エレイニオンはスランドゥイルを船から降ろした。
「また、会えるか?」
「きみが、ぼくのものになるなら、今すぐきみを連れ去るんだけど」
「わたしはわたしの一族を愛している。あなたに従属はできない」
 冗談だ、と、エレイニオンは笑って見せた。
「今は忙しい。王権を継ぐというのは、想像していたよりはるかに面倒でね。
シンダールの使いとしてきみを任命する。
しばらくは、それで顔を見るくらいだ。落ち着いたら…」
 きみを抱く時間ができたら、
「迎えに来るよ」
 ふ、と、スランドゥイルが笑う。少しだけ大人びた、目を細めるような笑み。
 周囲を気にしてか、スランドゥイルは胸に手を当て、敬意を表すように頭を下げた。